甘やかな夜と、譲れない決意
◇
「あーん、んっ……おいしっ! 涼香さん、今日のハンバーグも肉汁がじゅわって広がって最高に美味しいです!」
葵が満面の笑みを浮かべ、お箸をぶんぶんと振っている。
ダイニングテーブルの上に所狭しと並べられた料理の数々は、どれも料亭顔負けのクオリティだ。もちろん、すべて夏目涼香――私の自慢の妻の手作りである。
「ありがとうございます、葵ちゃん。樹くんも、もっと食べてくださいね」
涼香は微笑みながら、私のお皿にさらにハンバーグを取り分けてくれる。
「いや、もうお腹いっぱいだって……。これ以上食べたら動けなくなるよ」
「ふふ、動けなくなったら私が運んであげますから安心しなさい。……ほら、あーん」
「ちょ、白鳥先輩たちも見てるんだから恥ずかしいって!」
私が顔を真っ赤にして身をよじると、向かいの席から白鳥先輩がスマートフォンを高速でフリックしながら、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「気にしないで樹くん。私の目はね、現代の純愛文学における『最高の聖域』を見つめているの。ねえ涼香さん、さっきの講義室での『私の膝の上で少し目を閉じなさい』のセリフ、あれは何時何分に発言されたもの? ニュアンスも含めて詳細なログを共有してもらえるかしら?」
「ええ、喜んで。あの時はですね、樹くんが周囲の視線におびえて子猫のように震えていたので……」
「ちょっと二人とも、俺を観察対象にするの止めてよ!?」
私の必死の抗議も、我が家の『最強の女帝コンビ』の前にはまったく効力を発揮しない。
元・生徒会副会長として全校生徒を震え上がらせた涼香の圧倒的な包容力と、大学屈指の奇才(変人)である白鳥先輩の執念がタッグを組んでいるのだから、私に逃げ道など最初から用意されていなかった。
「でも、お兄ちゃんが幸せそうで何よりだよ。高校の時はあんなに遠かった涼香さんが、毎日お兄ちゃんのお弁当を作って、家に帰ればこんなに美味しいご飯を作って待っててくれるんだもんね」
葵はふっと柔らかい笑みを浮かべ、お茶を一口飲んだ。その瞳には、兄を温かく見守る優しい妹の色が宿っていた。
「……そうだな。俺も、最初は夢かと思ったよ」
私は隣に座る涼香の横顔をそっと見つめた。
透き通るような白い肌、整った涼しげな目鼻立ち、そしてライトに照らされて蜂蜜のように輝く琥珀色の髪。
誰もが『氷山美女』と恐れ、高嶺の花として近寄りがたかった彼女が、今では私だけの妻として、こうして隣に寄り添ってくれている。
大学という新しい環境、新しい人間関係、そして周りからの好奇の視線。
戸惑うことはたくさんあるけれど――それでも、この温かい手の温もりがあれば、どんな困難だって乗り越えられる気がした。
◇
賑やかな夕食会がお開きになり、葵と白鳥先輩が帰路についたのは、夜の九時を少し過ぎた頃だった。
「ふう……やっと二人きりになりましたね」
玄関で二人を見送り、リビングに戻ってきた涼香は、ふわりと大きく息をついた。
ダイニングテーブルの上は綺麗に片付けられ、食器はすでに食洗機の中。部屋全体には、彼女のお気に入りの柑橘系のアロマの香りがふんわりと漂っている。
「二人とも、相変わらず元気だったね……」
「ええ、でも悪くありません。葵ちゃんたちのおかげで、樹くんの大学での様子もよく分かりましたから」
涼香はそう言うと、ソファに腰掛けていた私の背後へと回り込み、ふわりと柔らかい体躯を預けてきた。
背中に伝わる心地よい温もりと、優しく首筋に触れるサラリとした髪の感触。
「……涼香?」
「動かないでください、樹くん。……今夜は、私を独り占めしていい時間です」
耳元で囁く涼香の声は、昼間の凛とした『正妻宣言』の時とは打って変わって、甘く、とろけるように優しかった。
彼女の華奢な腕が、私の首にふわりと回される。
「ねえ、樹くん。今日の大学はどうでしたか?」
「うーん……正直、目立ちすぎて落ち着かなかったよ。みんなに見られてる気がしてさ」
「ふふっ、当たり前です。私の大切な旦那様なのですから、みんなが羨ましがるのは当然の権利です」
涼香は私の肩に顔をうずめ、ふっと小さく息を吐いた。その吐息が首筋にかかり、私は思わず身を震わせる。
「……でも、怖くはありませんか?」
「なにが?」
「私があまりにもあなたを独占して、過剰に甘やかしてしまうこと。……周りの人から、変な目で見られるかもしれないこと」
涼香の声に、ほんのわずかな揺らぎが混ざった。
それは、彼女がどれほど私を大切に思い、そして心のどこかで「嫌われてしまうかもしれない」という不安を抱えているかの証拠でもあった。
私はゆっくりと振り返り、涼香の細い肩を両手で優しく包み込んだ。
琥珀色の瞳が、不安げに揺れながら私を見つめている。
「バカだな、涼香」
「っ……?」
「俺が涼香の過保護に参ってるのは事実だし、周りの目だって最初はびっくりしたけどさ……でも、嫌だなんて一度も思ったことないよ」
私は彼女の額に、そっと自分の額を重ね合わせた。
涼香の長い睫毛が驚きに震え、息がぴたりと止まる。
「高校の時からずっと、俺のことを誰よりも見て、支えてくれたのは涼香だろ? 大学になっても、こうして俺の隣で温かいご飯を作ってくれて、甘やかしてくれる。それがどれだけ幸せで、救われているか……俺自身が一番よく分かってる」
言葉を紡ぐうちに、自分の頬が熱くなっていくのが分かる。
それでも、私は彼女から目を逸らさなかった。この想いを、ちゃんと伝えなければいけないと思ったからだ。
「だからさ……これからもずっと、俺をめいっぱい甘やかしてよ。ダメ人間になってもいいからさ、涼香のそばにいさせてくれ」
静まり返ったリビングルーム。
時計の秒針の音だけが、心地よく響いていた。
数秒の沈黙の後、涼香の唇がふっと緩んだ。
それはこれまでに見たこともないほど美しく、そして底抜けに愛おしい、雪解けのような笑顔だった。
「……ずるいです、樹くん」
「え?」
「そんなこと言われたら、私がもっとあなたをダメにしてしまいたくなるではありませんか……♡」
次の瞬間、涼香の腕が強く私を引き寄せ、柔らかい唇がそっと重なった。
昼間の講義室での甘い空気とはまた違う、お互いの体温と心を通わせるような、深くて優しい口づけ。
柑橘系の香りと彼女の甘い体温に包まれながら、私はゆっくりと目を閉じた。
「……大好きですよ、私の可愛い旦那様」
「うん……俺もだよ、涼香」
賑やかだった新生活の夜は、二人だけの甘く穏やかな静けさの中に溶けていく。
大学生活という新しいステージの幕開けは、これからも私たちの絆をより一層深く、甘美なものにしていくのだった――。
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