5章3話:歩けるようになったら
巧は頷くと、少し間を置いてから話し始めた。
ふたりは同じ年の又従兄弟だった。父親同士が仲の良い従兄弟で、照たちは産まれたときから同じゆりかごに揺られたのだった。
中学1年の春休み、東谷の両親が一馬と一馬の姉の沙知、照を加えてキャンプへ連れて行った。焚き火で料理をする本格的なものだった。
サッカー小僧だった一馬はせっかくのキャンプを楽しまないで、ボールを蹴って遊んでいた。
事故は、そのとき起きた。
ボールが渓谷の川へ落ちて、一馬が追いかけた。崖を降りようとして、足を滑らせた。
実際は5メートルほどもある崖だった。
照の悲鳴を聞いて、最初に沙知が駆けつけた。沙知が両親を呼びに行く間に、照は自分も崖を降りて一馬の元へ行った。
心臓が停止したことに気づいて、心臓マッサージをした。学校の課外活動で習ったことを、照は咄嗟に試したのだ。
それもあって一馬は一命を取り留めたが、一馬は不完全脊髄損傷と診断されたのだった。
「照は毎日病院へ通ったが、一馬は面会を拒んだ。ようやく顔を合わせたとき、一馬は照に言ったそうだ。
――おまえが中途半端に助けたせいだ。あのまま死なせてくれたらよかった。
その言葉にショックを受けたのだろう。照は人前で言葉が出なくなった」
僕も聡司も押し黙った。
巧は静かに続けた。
「……一馬はサッカー選手になる夢を抱いていた。クラブにも二つ入って、個人レッスンも受けていたよ。夢絶たれた少年の絶望は想像するだけでツラい。照もそれはわかっていただろうが」
それでも照は深く傷ついたのだ。
巧は一馬も子どもだったし、照も受け止めるにはまだ幼かったと言った。
僕は膝の上の手に力を込めた。
喉元まで言葉が出かかったが、寸前で止めた。
反動で頭の中が、胸の中が、もやもやした。
照は助けようと必死だったのに。自業自得じゃないか……
歩けないと言われた衝撃を、そのまま照にぶつけやがって。
一馬を責める気持ちが止められない。
だけど……僕が照の味方をして怒り狂うのはおかしい。
照が毎月帰省していたからなおさら。
ふっと巧と目が合った。
――ッ
僕の短気な思考を読まれたみたいで、罰が悪い。
「照が白耶麻を選んだのは、一馬と少し距離を置くためだったのか、それとも本当にカリキュラムが目当てだったのかは、私にもわからない。おそらく両方だろう。いつでも会える距離から、わざと離れることにしたのだね」
近くにいるとお互いに、かさぶたを剥がし合うようなものやから、離れたって?
照は毎日でも会いに行ってしまうから、自分に歯止めをかけたのだろうか。
「それで、急いで帰ろうとしたのは……」
僕は訊ねた。聡司が気にしていることだが、僕も気になってきた。
長く、祖父さんが溜息を吐いた。
「一馬が歩けるようになった。まだリハビリの中でだったから、照には伏せていた。もっとスムーズに歩行できるようになったら、本人が直接伝えるらしかったが。……私が嬉しくて、つい、話してしまった。電話の向こうで照が、声にならない声を上げるほどに喜んでいた。一刻も早く一馬に、会いたかったのは間違いない」
「そんな……」
淡く光る涙を浮かべる巧の前で、僕らは低く呻いた。
こんな悲しいことがあるんか?
◇ // [LOG] 2019-03-25 10:35 JST ――東谷一馬
真井邸で大切な話がされていたころ、一馬はリハビリセンターにいた。
手すりを使って歩行練習をしながら、久しく思い出さなくなっていたあの日の、崖を転落した日のことが脳裏に浮かび上がる。
――〝危ない! 一馬やめて!〟
照の叫び声を聞いた。
大した高さではないと見誤った。
右、左、一歩ずつ、交互に足を出す。
岩が突き出ていた所へ足をかけたら、手で掴んだ岩のほうが脆く崩れた。
驚いたときには手が離れていた。身を乗り出した照の手の先が見えた。
――〝て、照っ!〟
――〝一馬ッ!!〟
照が落ちなくて良かった。
そう言うべきだったのに、病室に来た照の顔を見たら堪らなく腹が立った。
――〝おまえが中途半端に助けたせいだ。あのまま死なせてくれたらよかった〟
照の大きな瞳が壊れたように見ひらいていた。
毎日、思っていた。
歩けるようになったら、照に謝る。
歩けるようになったら、今度こそ、ごめんて言おう。
毎月会いに来る照に背を向けておいて、歩けるようになることが照に許される道だと思い込んでいた。
勝手に。
そうして今はずいぶん歩けるようになった。
衰えた筋力のせいで、車椅子と併用しているが、この2年の治療とリハビリは確実に一馬に希望をもたらした。
リハビリを終えると、大学生になった姉の沙知が待っていた。
弟のために免許を取り、リハビリセンターの送迎は姉の役目になった。
あのとき自分が早く注意していればと、姉も自責の念に駆られている。
自分が崖を降りたせいで、みなが不幸になった。サッカーボールくらいまた買ってもらえばよかったのに。
車椅子に腰を下ろすと、姉が言った。
「テラスに出ようか」
一馬は頷き、開放されているテラスへ移動した。
湾に浮ぶ島が見え、ぼやけた水平線と山並みが見えた。
薄い青灰色のグラデーションの空の下に鈍色の海が広がり、ときおり風が吹き抜けていた。
「真井のおじいちゃんのところ、行く? 予定どおり9時に到着したって」
今日真井家に白耶麻高校の生徒が来ると聞いていた。
高校入学後、照の近くにいた伊織拓人。
あいつが今、東京にいる。
「会いたいのは、照だけだ」
「ねえ、照の高校の話、直に聞けるのは今だけよ?」
「一度だけ、話したよ」
「えっ? いつよ?」
「直接じゃないよ。メッセージツールで」
「どういう関係よ?」
一馬はかぶりを振った。
「俺は、素直になるのが、遅すぎた」
ぼんやりとつぶやいて、一馬はもういっそ死んでしまいたいと思った。
すでに涙も涸れていた。
イブの夜、照がうちに顔を出すかと思ったのに来なかった。
胸騒ぎがした。祖父さんに聞いてもらったら、雪で予定の電車に乗らなかったと教えられた。
25日の朝、いつになく早く目が覚めた。
夜が明けきらない暗闇で、スマホで時間を確かめたら午前5時前だった。
〈ことつて〉を開いた。クリスマスの朝、メリクリの挨拶がなかった。
それはおかしい気がした。中1の春にこれを作ってから、一馬がどんなに照を無視しても、照は誕生日やクリスマスは必ずメッセージを入れた。
話しかけるなと言っても話しかけてくるのが照だから。
心配になって、その後自分から話しかけた。7時を過ぎたころには5分おきに。
8時過ぎに、真井の祖父さんに電話した。
〝電車に乗ったって連絡ありましたか?〟
〝まだないね。この時間はもう新幹線に乗ってるはずだな。寝てるのかな〟
いや、照は電車に乗っていない。
唐突に一馬は確信した。
照は人がいるところで眠れないタイプだ。家の車の中ならイチコロだが。
そのとき照と伊織が〈ことつて〉を使っていることを思い出した。
伊織が照に話しかけるところを監視するために、テルに切り替えた。
テルに切り替えたことを照が気づいて怒ればいい。
最悪なのは照が気づかないことだった。
伊織とテルのログを見て、伊織の言葉をなぞった。
『男子寮、どうなってる?』
『窓から落ちた生徒のこと。おまえだと勘違いしてるやつばかりだ』
食い入るようにログを見つめて、一馬は目の前が真っ暗になった。
きみの足は動かないと医師に告知されたときより残酷なことが脳裏を過った。
照は東京から白耶麻に戻る度に一馬に言った。
『また来るよ』
その言葉を一馬は冷たく突き放してきた。
自分だけ元気な姿を見せつけに来るなと。
照がどんな思いで毎月東京に帰省していたか。
毎月どんな思いで東谷家のインターホンを鳴らしていたか。
照!
早く帰って来い。
一馬はパソコンの前で両手を握って祈った。
もう絶対あんなひどいことは言わないから、帰って来てよ照!!




