序章:雪の中庭
ChatGPTがなかった時代にパーソナルボットを作った高校生のお話です。もちろん架空ですが
興味がある方はぜひ。
照は、生きている可能性があった。
7年間、僕はその思いから逃れることができずにいた。
彼が止めた時を引き継いだのに、僕は、未だ、何者にもなっていない。
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北陸某地方の高校を卒業して5年。
大学進学のために首都圏に移り、地元連中とは疎遠になった。
大学卒業後は就職せず、ゼミやサークル仲間とも疎遠になった。
最近はイラン攻撃のせいで乱高下する株価を眺めてもいるが、夜明けの来ない朝はない。キャッシュを保有して底値を待つ。
社会を舐めてると母親に呆れられながらの無所属生活、伊織拓人、この春三月で24歳になった。
前場が引けると、幼なじみの沖津聡司から音声通話が入った。
〝拓人、高校の同窓会行くか?〟
「行かね。GWだろ?」
〝俺は顔だけ出しとく。おまえもたまには帰れよ〟
「あ……近々さ、帰省はすんだよ。僕もさ」
両親がコロナ禍でキャンセルした海外旅行に満を持して行くんだが、双子の面倒を見ろと言ってきた。父は研究所、母は看護師。仕事の親に代わって、幼い弟妹の面倒を見たのは、僕だ。お兄ちゃんだから頑張った。その双子ももう16やぞ。お兄ちゃんは飯炊き使用人か? 甲斐甲斐しく掃除洗濯をする家政兄だと思ってるのか? そんなお嬢ちゃんお坊ちゃんに育ってんのか?
文句はあったが2年帰省していないし、否やとは言えなかった。
3月23日。
週末段ボールに宿泊セットを詰めて送った後、週明けの朝にはPCを持って飛行機で帰省した。
この経路は初めてだ。新幹線はインバウンドの激混みで不愉快な目に遭いやすいから、二度と使わねえ。隣県の空港に降り立ち、レンタカーを借りた。7泊8日オプションなし。コンパクトカーと保険込みで6万。朝8時にマンションを出てから4時間半の旅だ。新幹線も不便だから移動時間に大差なし。
途中海岸沿いの食堂で、どんぶりからはみ出るくらいの蟹丼を食べた。うめえ。
実家は海岸線と山に押し潰されそうな猫の額ほどの町にあった。
見晴らしだけは最高の海岸を走り、途中で高台へ向かう山道を上る。
人けが全くない、釣りとダイバー客相手の寂びた看板が見えたら、家はすぐそこだった。
コンパクトカーが坂道を上っていくと、妹の空詩が出てきた。
「お兄ちゃん!」
大きく手を振って、すげえ歓迎してくる。
僕は身構えた。
着古してるパーカーのチャックをシュッとあげる。うっかり中のシャツだけお気に入りのブランドだった。見られると煩い。足元はランニングでよれよれになったゼロシューズだ。この時期にも雪がちらつくから、ブーツにすればよかったか。
空詩はゆるっとしたピンク色のパーカーに、スケスケ布が何枚も重なったスカートをはいていた。髪は短くてボーイッシュ。死んだ祖母の顔に似てる。遺伝すげえ。
祖母は昔ピアノの先生をしていて、死ぬまで毎日のように弾いていた。そのピアノを引き継いだのは空詩だ。CDかと思うほどには上手だ。
「奏は?」
「部活。絶対全国行くって」
「おぉ、すげえな」
弟は僕と同じで小、中学とスイミングに没頭した。中学時代は全国にも行ったが、高校生になると急成長するやつも多い。去年(1年)の夏は成績がふるわなかったと泣いて悔しがっていた。青春だな弟よ。
空詩が助手席のドアを開けて、僕のリュックを後部席へ追いやった。
「なんだ?」
「お腹空いてるやろ?」
「食ってきた。蟹も最後だしな」
「えーひどくない? 待ってたんやで」
「わかった。行きたいところがあるんだろ。そこでメシ驕ってやる」
「やった!」
「乗れよ。僕もコーヒー飲みたい」
「待って。コーヒーならあるよ。マグボトルに入れてくる」
空詩は身を翻すと、落としたばかりだというコーヒーを取りにいった。
いい心がけだ。コーヒーは家で用意するのが一番うまい。何より安い。
空詩が速攻で戻って来て、カップホルダーにマグボトルを置いた。無印良品のステンレス保温保冷タイプだ。実家にもあるとは人気だな。この会社は優良株だ。去年の今ごろお手頃価格で買った。今年に入って倍になった。
僕の顔がにやけていたらしい。空詩がイヤそうにした。
「何ニヤニヤしてるの?」
「別に」
家の駐車場を出て行きながら、ミラー越しに二宮家を一瞥した。
駐車場に車が一台もないから、誰もいないようだ。会社員なら日中は仕事だしな。
市街地へ出るなら海ではなく、山を越えていく。
海岸線より山道のほうが気は楽だ。田舎の国道はお年寄りがよたよた歩くから、生きた心地がしない。
と思っていたら、山深い道路の真ん中に黄色い物体が横たわっている。
「轢かれてる。イタチやね」
うわ。
対向車が来ないことを確認し、中央分離帯を割って避けた。
ハイキングに来たかと錯覚させるような山間の道だ。景色だけはすばらしいんだ。だから熊も出る。
「都会にいるのに、運転上手」
「向こうでもレンタカー借りて走ってるよ。運転しないと忘れるだろ」
「あたしも早く免許ほしい。お父さんもお母さんもいないと、どこにも行けんのマジきついって」
うちのエリアは昔から超不便なところで、親が車を出さないと子どもにとっては陸の孤島。ようは都会人が想像するような、絵になる田舎ではないってことだ。
「お兄ちゃん。お母さんたちに言ってよ。寮に入りたいの」
僕はビクッとした。
雪の中庭がフラッシュバックした。
「ダメやぞ!」
「なんでよ!」
不便さを知る僕の反対に、空詩が心底驚いた顔で噛みついた。
「みんな部活に入ったり塾に通ったりできるのに。うちは最終バス18時40分に乗らんとあかんのやで! 部活にも入れんかった!」
言いながら悔しさが込み上げた顔で、唇を震わせる。
僕は前を見て、安全運転に徹した。
弟は家から一番近い進学校に合格したから、乗り換えなしのバス40分で通う。
一方空詩は落ちて、通学に不向きな遠い私立に入った。
「他にも滑り止めの私立はあったのにな」
僕は呟いた。声に出さなくてもよかったのにうっかりだ。独り言が増えた。
空詩の目が吊り上がる。
「今さら言わないでよ!」
イヤ知らねえし。後付けで滑り止めの高校聞かされたし。
「部活は……ん、僕にはどうにもならねえけど、勉強ならオンライン塾があるだろ」
「そんなの……」
空詩はむくれてシートの上でずるっと腰を下げた。
「おまえなあ、僕のころよりすげえ恵まれてんだぞ。オンライン塾がイヤならClaude使え。AIならしつこく聞いてもいやがらんし、わかるまで壁打ちできる」
空詩が白けた顔になる。
その気になれば今どきの高校生は、家にいたって面白いことができそうだけどな。
僕が高校生だったのは7~5年前だが、そのころはAIなんて身近ではなかった。
僕が高校1年(2018年)のときにGPT-1がリリースされたが、日常で使うものではなかった。パラメータは1億1700万、できたのはそれっぽい文章の予測だけ。
それが今や数千億規模、推論・創作・コード生成までできる。
昨日なんて指示書を投げたら、焼きそば作ってる間に骨格ができてた。午後やろうとしていたことの半分が終わって、夜には依頼されたコード部品が完成した。
大学4年間寝る間を惜しんでコードを書きまくったのに、Claudeさんが数分で改善案を出してくる。それへ承諾チェック✓するだけで、書き換えも数分で終わる。こっちがやるのはデバッグと最終判断だけ。捗りすぎて怖ぇ。
「塾はええよ。でも寮に入れんのはおかしいやろ? お兄ちゃんのときは、寮に入る前提で私立受けたの知ってるんやで。聡司くんが私立行くってだけでさ、ずるいじゃん。自分が寮の抽選にもれたからって、あたしにも苦労しろっていうんや? 女子寮はちょうど今空きが出たんやって、入学辞退があって、その子が入る予定だった部屋が空いたんやって!」
空詩は僕を食い殺す勢いで見つめていたが、僕は首を縦に振らなかった。
空詩とは冷戦状態になった夜、弟の奏が帰ってきた。
「久しぶり」と言って、階段を上っていく。
「おぅ」
と、僕は応じたが、振り向きもしない無愛想さだ。
一日中泳いでヘトヘトだ。背中に哀愁を感じる。いや違うか。ともかく僕は感動した。上半身が見事な逆三角形になっていた。昔は、お兄ちゃんお兄ちゃんてしつこくまとわりついてきたのにな、言っとくがクロールの息継ぎ教えたの僕だからな。
ジーンと胸打たれていると、玄関扉からひょこっと真凜が顔を出した。
「たっちゃん、お帰りぃ」
奏がバス停にいるのを見て、彼女が乗せて来たのだった。
二宮真凜は家の隣人で、親同士が連むんで家族同然に育った。4月生まれの真凜とはほぼ一年差。周りがお姉ちゃんと呼ばせてたんだよな。同級生だっての。
生まれた病院、幼稚園、小学校、中学校、高校まで一緒だった。
大学進学で僕は東京へ、真凜は長野へと道が分かれ、真凜は卒業後帰郷し、市内の税理士事務所に就職した。今は職場近くにマンションを借りている。
僕の中ではどういうわけか、真凜は高校生のままだった。
濃灰色のブレザーに、裾部分に切り替えのあるチェック柄スカートを履いて、緋色のリボンを結んでいた。高校のころの真凜は髪が長くて、ハーフアップにしていたが、今は明るく染めたボブショート、メイクをして、ピアスをつけていた。
僕は紅茶を用意した。
インスタントのアールグレーがあって、豆乳と蜂蜜を淹れて混ぜた。真凜が昔そうやって飲んでいたから。忘れないもんだ。
足でドアを開けて居間に行くと、真凜が散らかっていたテーブルの上を片付けていた。
居間の半分は、アマチュア楽団に所属する母の練習場だった。楽器はフルートだ。楽譜棚や譜面立てがあり、出しっ放し。やりっ放し。実家に住んでいたときは、そういうのをいちいち僕が片付けていた。この家では気にしたら負けなのだ。
「空詩ちゃんと遊びに行ったの? 喜んだでしょ?」
僕がソファに座るのを待って、真凜が小声で訊ねた。空詩は二階の自室に閉じこもっている。でもちゃっかり行きたいところを言って、欲しいものをねだるから女は強え。
「面倒見ろの理由がわかったよ、運転手だ。父さんたちが旅行でいねえから」
「そうかもね。昔の小説にあったよ。そういうのアッシー君ていうの」
僕は少しげんなりしたが、真凜はカップを両手で包むと、ちょっと笑った。
「税理士になるんか? アメリカ行かんと?」
「アメリカはね、ホームステイでもう充分、日本が一番いい。事務所は英語必須のところやし。税理士科目は今二科目合格してるよ、あと三科目」
「すげえじゃん。誕プレついでにお祝いするか」
何気なく、当たり前のように僕が言ったとき、真凜の目に涙が浮かんで、僕はぎょっとした。
「なんだよ。疲れてんのか?」
一人の気楽な生活が長くなっていて、対面で人と会うのも久しぶりなのに、昼は妹、夜は幼なじみに泣かれるって、どうなんだ?
「たっちゃんに会えて嬉し」
「そうかよ」
ハンカチでおメメを隠す真凜を見ながら、僕は今の距離感に戸惑った。昔なら、失恋でもしたのかとからかうところだが、年齢を考えるとありそうだからまずい。こういうときは黙って茶を飲むに限る。
翌日、日課のジョギングに出かけたら野良犬に追いかけられた。
ビビって心臓をバクバクさせながら家に戻って、シャワーを浴びているうちに、バタンと玄関を閉める音が聞こえてきた。ちなみに玄関は引き戸だ。
驚いて窓から顔を出したら、制服を着た空詩が門を出て行くところだった。
朝のバスで出かけたようだった。
タオルで頭を拭きながらキッチンに行くと、冷蔵庫にト音記号のマグネットで紙が留められていた。
『お兄ちゃんのアホンダラ』
ガキだな。女子高生のレベルを疑うぞ妹よ。
そのうち弟が部屋から出てきて、自分で弁当を作って部活に行く準備を始めたので、車で送ることにした。昨夜とは違って、ずっと部活の話をしていた。なんだよ、僕が帰って来たのがちょっと嬉しそう。
奏は校門前で僕に手を振ると走っていった。顔を見れば充実してるのがわかる。空詩だけが取り残されるような気がして、僕は何とも言えない気持ちになった。
そうして家に戻ると、隣の敷地に真凜の車があることに気づいた。
昨夜はマンションに戻らなかったのは知っているが、仕事はどうしたのか。
おかしいと思いながら車を降りると、音を聞きつけた真凜が家庭菜園の網越しに僕を見て、サンダル履きで出てきた。庭の方は塀がないため、両家は通り抜けができるのだ。
「真凜、仕事休みなんか?」
「少しの間休むように言われてるんだ」
「何かあったんか?」
「あはっ、自転車に轢かれちゃって、検査は異常ないんやけど、……少しぼんやりして、事務所の人たちを心配させちゃった」
そう言って、真凜が笑い出す。
「ふ、ふふふふふ」
「やべえな、自転車けっこう危険だからな。頭打ったんか?」
「うん。たんこぶできて、まだ痛い」
頭に触れながら言う真凜を見て、僕は胸苦しくなった。
「腹へった。何か食いに行こうぜ」
「うん、ちょっと待ってて。準備する」
都会じゃあるまいし、スエットで充分だぞと言いたいのを我慢した。
30分ほど海岸線を走って、真凜おすすめスポットのカフェに移動した。
日本海の青海原、水平線のなだらかな丸みが春霞みにぼやけていた。遮るものが何もない。広々~。僕の現在の住まいも海が見えるが、対岸は工場地帯だ。キラキラするんだこれが。こっちは夜に走りに出ると空も海も真っ暗で、岩場に打ち付ける波の音がホラーだった。
真凜がテラス席がいいと言うので外へ出たら、びゅうびゅう吹きつける海風に髪が逆立った。
真凜を見たらちゃっかり帽子を被っている。
ランチにベジタリアンガレットを食べたが物足りなくて、塩バターキャラメルガレットを追加したら、運ばれてきたころに胃袋が膨らんだ。真凜は美容のためにと酸っぱそうなローズヒップを飲み、僕は炭酸水にした。
「空詩ちゃんさ、吹奏楽部入りたかったんだって。うちの吹奏楽部強いから」
東京にいたから空詩の中学生活は知らないが、吹奏楽部でアルトサックスを吹いてたのは耳にしていた。
それで白耶麻高校に行きたかったのか。滑り止めも何も確信犯じゃねえか。
「私たちのときも通学大変だったけど、私たちは三人も白耶麻高校に入学したから、……全員見事に寮の抽選に落ちたしね。町営のスクールバスが特別に、ルートや時間を計らってくれた。親もその分高いバス代を払ってくれたけど。空詩ちゃんは一人だけだから、公立ルートだけ。途中で降りて、駅に向かう系統のバスに乗り換えて、そこから電車で行くの。通学に1時間半もかかってる。冬はもっと大変。雪が降る度に遅刻してる」
「わかってて選んだのあいつだ」
「でも、寮があるじゃない」
真凜は何気なく言ったんだろうが、僕は炭酸水の瓶を持ったまま動きを止めた。
「おまえ何言ってんだ?」
「え?」
「頭を打ったせいで忘れたんかよ。寮なんかに入ったら真凜が殺されんだよ!」
僕はどかっと椅子に身を沈めた。風が僕の髪を右から左からとバサバサ煽ってくる。
くそ、真凜のやつ、自分だけ帽子被りやがって。
「たっちゃん……」
泣きそうになる真凜を見て、僕は居心地が悪くなった。幸いテラス席はガラガラで、僕の声は海風が散らしていた。
ふいに、真凜が膝の上に鞄を置いて、ごそごそし始めた。
「なんだよ?」
「ノート出してなかったから」
「ん?」
僕の言葉が宙ぶらりんになったまま、真凜がユニコーンがモチーフのロルバーンノートを出した。ペンを差してあって、いっぱい付箋が飛び出ていた。
真凜が顔をくしゃりとさせた。
「自転車に轢かれてから記憶が不安なの。話したこと忘れるんじゃないかって。異常はないって言われても、とりあえずメモを書くようにしてるの」
「手書きで?」
「スマホより早いもん」
「付箋はなんだ?」
ペラペラ出てる付箋が折れ曲がっていて、役に立ってるように見えない。
「トリガー? ピンクの付箋は毎日見るみたいな」
「なんつう難しいことを」
テーブルにある真凜のスマホはiPhoneだった。僕はAndroidユーザーだが、仕事柄検証用にiPhoneも持ってる。
「ジャーナル使えよ。iPhoneなら標準で入ってるだろ? 音声で呟くだけで記録される」
僕が教えているのに、真凜の目がノートに戻る。
「たっちゃんに何か言おうとしてたの。ノートにメモったんだよ」
言いながら、剥きになってページをめくる。その手つきが苛々しているのがわかる。貼られた付箋をぐちゃぐちゃさせて、ビリッと破り取る。
とっさに真凜の手を押さえたら、引くほど冷たかった。
「落ち着けよ」
「わかってるけど、苛々するの、すごい苛々する。自分が何をしたか、ちゃんと覚えてるって、どうやって証明するんやろう」
真凜はガキのころからのんびりしていて、怒ったり苛立ったりしない女の子だった。苛々すると泣き虫になるらしい。
店員を呼んで、真凜にあったかいハーブティーを追加注文し——
そのとき僕の視界がぐらっとした。
弓道部の袴姿で泣き崩れた聡司の姿が脳裏を掠めて、瞼が痙攣したのだ。
――少し前のことなのに、自分が何を見たかわかんねえ。アレが人だったかどうか、ずっと考えてる




