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貴族道中~脱兎~

「こうなったら……!!」

「お待ちになって!!」

「待ってよ!!」


 とりあえずルームの取り得る最善手として選んだのは逃走だった。全力で逃げる、というのは確かに最善ではあった。が、前提が整っていなかった。


「くっ……!!」


 遅い、ルームの動きは最高のパフォーマンスからはほど遠い。何故か、それはヴァンシイが休眠状態に入っていることにある。腕の再生に加えて超大型の敵の滅殺という大規模な能力の行使の連続によってヴァンシイには休憩が必要になっていた。故に今の身体能力・再生力は最低限の強化に止まっている。


「遅いですわ」

「捕まえた」


 そうでなくとも、ドネとペルは普通の枠組みを大きく外れた速度で動けるので容易に逃げられるというわけではなかったが。少なくとも、今のようにあっさりと捕まることはなかっただろう。


「うふふふふふふふふ」

「あははははははは」


 まさに蜘蛛の捕食風景といった様子である。四肢を押さえられ、抵抗を封じられたルームはもう何もすることができないのだろうか。


「参ったなぁ」


 そんなことはありえない。この程度の状況でどうにかなるのならば、ルームは今の今まで生きていることすらできなかっただろう。


「とりあえず、こうさせてもらうね」

「わぷっ!?」

「ぷぁっ!?」


 ルームの腹部が破裂して胞子が噴出する。厳密には薄皮1枚の下にいる胞子を表に出しただけである。だが、それがただの目くらましかと言われればそれは違う。普段の姉妹であれば勘で避けられた攻撃でも今の興奮状態ではそれは叶わなかった。


「あ、あるぇ?」

「ぐる、ぐるしますぅ」


 今回使われた胞子は回転茸と呼ばれるものである。神経系の錯乱によって平衡感覚の喪失、視覚の混濁が発生する代物である。人間相手ならばそれだけで無力化が可能だが今回の相手は『碧の絹糸』が生み出した結晶の2人であるために卒倒せずにふらつくだけで済んでいる。ちなみに、回転茸は3日ほど水にさらして胞子を抜いてから揚げると非常に美味なので珍味として高値で取引されることもある。


「今はこれで落ち着いてください」

「あむっ!?」

「むぐっ!?」


 回転茸の効果で緩んだ口に目掛けてルームが指を突っ込む。普段であれば少しの血を添えて突っ込むことの方が多いのだが。今の2人にはそのままで十分だとルームは判断した。


「っ!!!!!!!!!????」

「ッ!!?!?!!?!?!?!」


 2人の目がぐるんと上に向く。何が起こったのかというと焦らして焦らして最高の昂ぶった感覚器にお待ちかねの刺激をぶち込んだ事で処理能力の限界を超えたのである。結果としてドネとペルは身体を激しくびくつかせながら白目をむいて転がるという醜態をさらすことになった。


「あっちゃあ、ここまでになるってことは相当我慢してたんだね」

「あ、ああ」

「うう、う」


 時折ぴくぴくと動くドネとペルを見下ろしてルームは考え込む、このままこの場を去ることは簡単だがそれだとあまりにも無責任ではないかと。味を覚えさせるだけ覚えさせて消えると、下手をすれば禁断症状的なものさえ出かねないのである。


「どうしよっかなあ……ここまで強く覚えさせる気はなかったんだけど」


 本来であれば、ここまで来てからリミッターのためにペルに一滴ほど血を飲ませるくらいであった。しかし、まき散らしてしまった血と肉の匂いにあてられた上に意識が飛ぶほどの刺激を脳に刻んでしまったのである。ここまで強度のある覚え方をすると、何かと支障がでかねないのだ。


「うーん、空間をつなげるようなまねは僕にはできない……わけでもないのかな?」


 【白箱】をじっと見つめて考える、これは【部屋作り】のマジックアイテム。部屋というのは扉と壁によって区切られたもの、ならばここにつながる扉をつくることは可能ではないか、そのように考えた。とりあえず試みるだけ試みた。


「できちゃった」


 目の前にあるのはぼやけた扉、蜃気楼のごときゆらぐ扉。これが【白箱】が生み出す幻影、あるかないか定かでは無い世界に飛ぶための歪みの狭間。


「書き置きでも残せば良いかな? とりあえず報酬はコネっていうことだったから今すぐ受け取れるものじゃないし。何かあるようだったら【白箱】の中で会えばいいしね」


 とりあえず1通り自己弁護を終えてからルームはこの場所から離れることにした。周囲に特に脅威になりそうなものはない。2人を置き去りにしても問題はなさそうではある。


「面倒になる……気はしてるんだけどなあ」


 しかしルームはその場に座り込んだ、2人を置いて消えても良かったのだが、だが、それでも流石にあんまりだなと思ってしまったのだ。頭を軽く掻きながら海を眺める、沈んでいく夕日はいつもと変わらずに綺麗だった。なお、起きて正気に戻った2人から平謝りされた後に髪を一房分編んだミサンガのようなものをそれぞれからもらった。

 しかし、ルームは知らなかった。『碧の絹糸』では異性に手ずから編んだ髪を渡す行為に重大な意味を持つことを。


「意味について言わなくて良かったのでしょうか。ペルが言わなくて良いと言うので言いませんでしたが」

「大丈夫ですよ姉様。あれの意味を知られるとたぶん受け取ってもらえませんから」


 編み方によっても意味は異なるが、今回編まれた紋の意味は「当家関係者のため手出し無用」である。結果としてルームに対して現在かけられている悪い虫除け(マーキングともいう)がまた1つ増えたのだった。




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