起き上がる、そして忘れたフリをする
「っ!?」
ルームが身体を起き上がらせる、見慣れた苗床亭が目に映った。何も変わっていない、いつも通りの光景。
「だーかーらー!! 手でやっちゃ駄目なの!」
「でも切れるよ?」
「でもじゃないの!!」
耳に飛び込んでくるのはスィンとタチアナの声。恐らく厨房で行われているのだろうが、少しばかり物騒な音がしている。
「料理かぁ、スィンに教えたらすぐに覚えてくれるのかなあ」
ルームの脳裏には覚えるには覚えたが、エキセントリックな調理を行うスィンの未来しか見えなかった。人間の合理性と虫の合理性がどう考えてもマッチしない。
「うーん、難しそう」
ついで聞こえてくるのは地下からの悲鳴。
「な、ななな、なんですかこれはぁ!?」
「胡散臭い爺様が置いて行った蔵書でありんす、まともに読めるものから、読めたらまともじゃないものまでたくさんありんす。死にたければどうぞ手に」
「読めるか!」
レイが顎を外しそうなほど驚く地下図書館である。仕方ない反応ではあるのだ、およそあってはならない本も無いはずの本もまるっと収まってしまっているのだから。
「旦那さんは寝る前に適当に何冊か眺めているでありんすが?」
「そんな無謀なことしてるんですか!? 精神崩壊してもおかしくない内容もあるでしょうに」
「本当に危ない時は助けているから大丈夫でありんす。形なきものの相手はお手の物でありんすから」
そう言って鯉口を鳴らすヨツヤ、今まで何度もそういう処理をしてきたことを示している。
「たまに一緒に居てくれるのはそういう奴の時だったのか。全然気づかなかった、対処の仕方とか教えてもらおうかなあ」
ヨツヤに習う様子を想像する。
「ここは、気を練ってからぎゅんとなぎ払えば良いでありんす。気をつけるのは練るときにがっちりと固めてしまうと滑りが悪くなることでありんす」
「え?」
実はかなりの感覚派であるヨツヤの教えを受け取ることができるのは同じレベルの使い手だけである。もちろんルームはそのレベルではない。
「僕のレベルが足りてないなぁ」
いきなり高らかに響く槌の音。ルームはそれに少しだけ驚きつつ犯人は誰かと考える。
「こんな殺風景な壁じゃあ宿屋としての格が下がるな、少しばかり彫るか!! 起きてきたら驚きだろうぜ。ふはははははははは」
今まで溜まりに溜まっていた創作意欲を発散させる為にスタンダが壁をキャンバスにし始めたようだ。本当ならそんなことをしようとした段階でロサ・ロサに串刺しにされてもおかしくないのだが。
「ここのメンバーの彫刻なら許すと言われちまったからな、偶にはモチーフありきでも良いだろ」
苗床亭のメンバーを掘るという条件付きで許されていた。壁に自分の彫刻がしてあるというのはかなりの羞恥案件であるので止めようかと思ったが、楽しそうなスタンダに水を差すのも悪いのでルームは放置することに決めた。
「あー、そろそろ起きようかなー」
「じー」
ルームはわざと意識の外に置いていたが流石にもうスルーできなさそうなのですぐ近くで見ているヒュープに目線を合わせる。
「おはよう」
「じー」
「すっかり意識が飛んじゃってたね、いやー、もうちょっと上手くできると思ってたんだけどな」
「じー」
「ヒュープの方は大丈夫? 何か痛いところとかない?」
「じー」
無言でただ見つめられ続けるという状況がいつまで続くのかと思った時にヒュープが口を開いた。
「覚えてる?」
「何を?」
「ふーん、そっかそっかぁ」
何かを納得したかのように何度もうなずくヒュープ。そうして3度頷いた後に一気に目の色を変えて捕食者の顔となった。
「じゃあいただきまーす!! がおーっ!!」
「何で!?」
「うるさいうるさいうるさーい!! 食べられたくなかったら何かお詫びをしてよぉ!!」
「えっと、それじゃあ頭撫でてあげる」
「はぁ? そんなことでヒューをごまかせると思ってるなら大間違いだからぁ!!」
そうは言いつつ頭を差し出すヒュープ、期待の表れか髪も左右に揺れている。髪に神経と筋肉でも入っているのだろうか。
「よーしよーし」
「んっ、くぅっ、はぁ……」
「ここはどうかな?」
「ま、負けないんだからぁ」
「ここも良さそう」
「んー、えへへ、はっ!? 今のは別に気持ちいいとかじゃないからぁ!!」
何がどうスパークしたか定かではないが、なんか安っぽいツンデレのような言動がヒュープにインストールされたようである。だが、それもすぐに砕かれた。
「んふふ〜、ふふ〜ん♪」
「何か大事な約束を忘れちゃったみたいでごめんね。思い出したら絶対埋め合わせするから」
鼻歌まじりで撫でられるようになり果てたヒュープに優しく語りかける。
「これでいーよ、ヒューの事をこうやって撫でてくれるならそれで良いの。でも良い夢を食べちゃったらごめんね」
「僕の夢は全部ヒュープにあげるよ、それが僕とヒュープの契約だったでしょ」
「そうだっけ?」
「そうだよ。だからこれからも変わらない」
「ふふ、そうだねえ。ヒューもそれが良い」
他の場所の喧騒がどこへやら、この空間だけは非常に穏やかな時間が流れていた。




