第298話 不治の病
ウチの嫁さんと桜澤撫子の潜入調査により、ついに行方不明だった”大賢者”を見つけ出すことができた。それは、『地の精霊神殿』にある大神官エニシダの研究室の奥の寝室である。
だが、喜びも束の間、何やら様子がおかしい。
嫁さんがそれに気づき、桜澤撫子が僕に要求する。
『待って……なんか、すごく具合悪そう……』
『白金くん!容態を診てもらえる?』
見た目からもわかるが、”大賢者”ヤグルマギ・クシャトリヤは非常に苦しそうである。僕は直ちに、彼女たちが持っている携帯端末宝珠を通じて、彼の肉体解析を行った。外傷は皆無であるが、肉体内部が激しく消耗している。
「れ、蓮くん、も、もしかしてコレって……”呪い”とかだったりするの?」
嫁さんが何やら怯えた顔で僕に問いかけてくる。未だに心霊スポットのような感覚が抜けきっていないらしい。しかし、僕は全く違う回答をした。
「これは……重度の肺炎だ。よくぞ今まで生きていてくれたと思うくらいに」
『『えっ!?』』
「それに……さらに最悪なことに、ガンにも侵されている。既に転移も進んでいて、ステージ4だ」
『『えぇぇーーっ!!!』』
僕の診断結果に通話先の二人が悲鳴のような声を上げる。”大賢者”は魔法的な攻撃を受けたわけでも呪いにかかったわけでもない。重病患者なのだ。この事実に桜澤撫子はショックのあまり座り込んでしまった。
『そ、そんな……戻って来ないと思ったら、病気で寝込んでたなんて……しかも、こんな風通しの悪い地下室で……』
『蓮くん、どうにかならないの?』
「わからない……一刻を争うのは確かだけど、体力も相当に衰えているみたいだから、どこからどう治療すべきか……本物の医者じゃないから見当もつかないよ……」
嫁さんからの質問にも僕は即答できない。実に歯がゆい思いである。
【世界樹の葉】は、過去のあるべき姿に戻すことを目的として治療する総合魔法技術だ。それは、外傷と内傷を修繕することに主眼があり、病気平癒は専門外なのだ。
ゆえにガンについて言えば、ガン細胞を取り除くことによる治療は可能かもしれないが、肺炎に関してはどうすることもできない。
八方塞がりになって考え込んでいると、映像通話の向こう側から、もう一つ別の声が聞こえた。
『あなたたちは!?』
”大賢者”が眠っている寝室に、一人の年配のシスターが入ってきたのだ。
ウチの嫁さんも桜澤撫子も、今は能力を解除して隠密行動をしていない。ここで桜澤撫子は堂々と立ち上がり、自己紹介した。
『勝手に入ってしまって、すみません。私はヤグルマギ研究室で助手をしております。撫子と言います。教授を捜してここまで来ました』
『まぁ!あなたが!』
シスターは驚きながらも、彼女たちを敵とは見なさず、その言葉を素直に信じた。女性二人であるために賊だとは思えなかったのだろう。
年配のシスターは、二人に事情を説明した。
彼女は、大神官エニシダに頼まれ、ここで療養することになった”大賢者”を看病していたのである。今も定期的に様子を見るため、深夜であるにも関わらず、確認しに来たのだ。
”大賢者”が、このエニシダの研究室に足を運んだのは、今より2ヶ月半前のこと。ちょうど桜澤撫子が、魔王デルフィニウム討伐の情報を得て、ラージャグリハ王国に向かった直後である。つまり、僕たちが彼女に出会う少し前の時期だ。
桜澤撫子が出発する前、精霊神殿の資料を見ながら、”大賢者”があることに気づき、大神官エニシダに抗議すると言っていたのは彼女も聞いていた。
彼はそのとおり、エニシダに会うため、こちらの研究室を訪れたのだ。
そこで、どのような話があったのかはシスターも知らないという。何かを言い争うような声が廊下にまで届き、それをたまたま通りかかった彼女が聞いたらしい。盗み聞きは聖職者にあるまじき行為だと思い、あえて聞かないようにしていたが、なんとなく気になって、そばを離れられなかったのだとか。
ところが、そのうちにエニシダの狼狽えるような声が響いてきた。さすがに心配になったシスターは、彼の研究室に入ることにした。
そこには、急に苦しみ出して倒れた”大賢者”と、それを心配するエニシダがいた。
どうやら”大賢者”は、この場所で初めて容態を急変させたらしい。気が高ぶったことがキッカケになってしまったのか、静かにガンが進行していた彼は、突如として苦しそうに腹を押さえ、倒れたのだ。
動揺するエニシダは、シスターに彼の看病を頼んだという。ただし、”大賢者”がこの部屋を訪れたことも、この地で療養していることも他言無用であると命じられた。
納得はしなかったが、大神官の命に背くこともできず、彼女はそれからずっと”大賢者”の看病を続けてきたのである。彼の研究室や関係者に密かに相談したいとも考えたが、”大賢者”の研究室は一般には秘密にされているため、連絡の取りようがなかったという。
だが、日に日に”大賢者”の容態は悪化してきた。さらに折り悪く、大神官エニシダまでもが殺害されてしまった。
途方に暮れた彼女のもとに、ちょうど桜澤撫子と嫁さんがやって来たわけである。
『これまで何の連絡もできず、大変に申し訳ありませんでした』
年配のシスターは深々と頭を下げた。
これに桜澤撫子も同じように一礼して返した。
『いえ、今まで長い間、看病してくださり、ありがとうございました』
シスターとの話を終え、桜澤撫子が”大賢者”に再び目を向ける。僕は継続中の映像通話を通して彼女と小声で会話した。
「今の話と”大賢者”の容態を総合すると、おそらくガンに侵されている彼が、環境の悪い地下で療養していたために、さらに肺炎を併発してしまったのだろう。重病患者をこんな場所に放置するなんて、頭悪すぎる」
『それも無理のないことかもしれないわ。昔の西洋の人たちって、医学知識の乏しさもさることながら、看護に関しても甘く見てるとこがあって、怪我や病気の人を暗い部屋に平気で閉じ込めたのよね』
「そりゃ病気も悪化するよ……」
そうして分析している間にも、ウチの嫁さんはさっさと彼を救うべく、次の行動を開始しようとしていた。
『私がおじいちゃんを運んであげる』
力持ちの嫁さんが連れ出してくれるなら何も問題ない。僕は念のためにもう一つ指示を出した。
「なるべく安静な状態で移動させたい。圧縮空気でベッドを作るから、それに乗せて静かに連れて来てくれ」
『りょ!』
嫁さんは僕が提案したとおりに”大賢者”を空気の塊に乗せた。それを片手で運ぶので、傍目には嫁さんが念動力で持ち上げたように見える。
不思議そうな目でそれを見送るシスターに、桜澤撫子は最後の質問を尋ねた。
『……ところで、エニシダ教授が、ここで何か怪しい研究をしていた、ということはありませんか?』
『申し訳ありません。そのように踏み込んだことには一切、触れないようにしておりましたので……』
『そうですよね。わかりました』
これ以上の情報は得られないと考え、彼女たちはエニシダの研究室を後にした。
桜澤撫子の案内で、入り組んだ精霊神殿を進み、誰にも見つからずに地上の入口近辺まで来ることができた。しかし、ここが最後の難関である。
”大賢者”ヤグルマギを連れた状態で、複数の兵士に発見されずに移動することは不可能だ。
『今日は16日だから、今夜は十六夜。でも、今月は少し月齢がズレて今夜の方が本当の満月なのよね。ちょっと本気を出すわ』
桜澤撫子が嫁さんにそう告げて、一人で歩き出した。
この世界では太陰暦を使用しているので、理論的には1日の夜が新月となり、15日の夜が満月となる。しかし、惑星や衛星の軌道というものは楕円形になっているため、実際には16日の夜の方が満月になる場合もあるのだ。
ただし、そのわずかな違いは判別しにくいため、15日の夜が満月であると人々は信じている。
実を言えば、魔王や魔族が満月の影響を受けるのは15日でも16日でも大差ないのだが、この日が満月だと信じ込む心理的要素も大きく影響している。ゆえに、この夜だけは、一般的な魔族は何も起こらないが、知識を持った桜澤撫子だけは限定的に能力を解放できるのである。
神殿入口に差し込む満月の光を浴びた桜澤撫子は、頭部に2本の角を生やし、真の能力を開花した。
彼女は、かつて帝国で僕たち一家を翻弄した奥義を使った。満月の夜にのみ使用できる、自分を認識した相手の平衡感覚を狂わせるスキルを。
神殿入口を見回りしていた兵士たちは、彼女を目にした途端、全員が頭を押さえて倒れた。その隙を突いて、桜澤撫子と嫁さんは”大賢者”を伴って悠々と脱出した。
こうして二人は、見事に”大賢者”の救出に成功し、僕たちの新居に連れて戻って来たのである。
「お疲れ様。百合ちゃん、桜澤さん。とりあえずベッドに寝かせてあげて」
空いている一室のベッドに彼を寝かせ、僕はもう一度詳しく彼の容態を診ることにした。
その後ろでは、孫娘であるラクティフローラとシャクヤが暗い顔で心配そうに見守っている。
「「お爺様……」」
彼女たちの不安そうな顔を見ながら、桜澤撫子も気落ちした様子で悔しい思いを吐露した。
「……ヤグルマギさんがガンに罹ってたなんて……全く気づかなかったわ。ラクティフローラちゃん、ピアニーちゃん、力不足でごめんなさい」
それを聞いて、僕の方が先にフォローを入れた。
「いやいや。機材も無いのにガンの発見なんて不可能だよ」
また、謝罪された二人も恐縮しており、シャクヤが代表して自分たちの胸中を語った。
「そもそもわたくしどもは、”ガン”というものが何なのかも理解できておりませんので……」
当たり前の話だが、中世の時代において”ガン”という病気がわかるはずもない。これに納得した桜澤撫子は、居合わせた面々にその概要を教えた。
「人間の肉体は何十兆個という細胞が集まって出来ている、ってのは白金くんから聞いてるわよね?」
その知識を前提に彼女はかいつまんで語った。
すなわち、細胞は分裂する際、遺伝情報のコピーでエラーを起こすことが度々あり、それが暴走して勝手に分裂を繰り返すようになった状態を”ガン細胞”と言い、その集合体を”悪性腫瘍”あるいは”ガン”と呼ぶのだ。
”ガン”の恐るべきところは、その増殖能力であり、”転移”することである。
普段は免疫機能により、ガン細胞は異物と見なされて排除され、自己治癒するのだが、何らかの原因でその許容量を超えたガン細胞は、増殖を続けていくことになる。
組織の一部が浸食されるだけでなく、放っておけば周囲の臓器に転移し、最終的には全身にまで広がっていく。ゆえに早期発見と早期治療が快復の必須条件とも言えるのだ。
「まぁ!そういうことでしたか!もしかすると女性の乳房に”カニ”が顕れるというのも”悪性腫瘍”になるのですか?」
説明を聞いて、シャクヤはその恐ろしさにドン引きしているが、ラクティフローラは新たな知識に関心を示し、逆に質問した。
「あぁ……そうね。乳癌って言うのよ」
「やはりそうでしたか!そのような原理で生じるものであったとは!ナデシコさんやお兄様たちの世界の文明はさすがです!」
「ていうか……こっちの世界でも”カニ”って言い方するのね」
「はい!」
診察を続けながら聞いていた僕は、思わず今のやり取りに興味を抱き、桜澤撫子に確認を取った。
「僕たちの世界も同じ理由で、”癌”のことを”キャンサー”って言うんじゃなかった?」
「ヒポクラテスが最初にそう言ったとされてるわよね。乳癌がカニに見えたとかで。古来より乳癌はそれほど珍しい病気じゃなかったから、多くの女性がそれで命を落としてきたのよ。外科手術で取り除く文化も、結構、昔からあったらしいわ」
「へぇーー」
一方で終始、不安げな顔で”大賢者”を見つめるシャクヤは、僕が話に参加したことを機に状況を聞いてきた。
「そ……それで……祖父はどうなるのでしょうか?もう助からないのでございましょうか?」
「既にガンが全身のあちこちに転移している。おそらく現代医療でも、手の施しようのない状態だと思う。いかに延命措置をするかということが焦点になるだろう」
「「えっ!?」」
僕からの淡々とした回答に一同は仰天し、絶望的な表情を浮かべる。しかし、僕の言葉にはまだ続きがある。
「ただし、あくまで現代医療なら、だ」
「「……え?」」
「僕には『宝珠システム』がある。【世界樹の葉】を応用して、ガン組織は、切除するのではなく、細胞単位で焼き殺すことにする。そして、正常な細胞の復元を促す」
この説明に最も色濃く反応するのは桜澤撫子だ。
「なにそれ!夢のような医療じゃない!!」
「ただ、”大賢者”の体力が気がかりだ。一度に全てを除去することはできない。今日のところは増殖を抑えることに専念して、明日から毎日、少しずつ進めることにするよ」
「そうね……」
僕と彼女のやり取りを聞き、意味不明ながらも希望があることを悟ったラクティフローラが、恐る恐る尋ねる。
「あの、つまり、助かる見込みがあるということですか?」
「うん。ガンに関してはね」
その瞬間、王女とシャクヤはパァッと明るい顔になった。とはいえ、他にも大きな課題がある。僕の表情は真顔のままだ。
「問題は、肺炎の方だ。詳しくはわからないけど、何らかの感染症を引き起こしていると思われる。これは完全に【世界樹の葉】の専門外だ。それこそ”大賢者”の体力に任せる以外にない……」
半ば諦めの感情を滲ませて僕が述べると、桜澤撫子が決意するように山吹月見に言った。
「ツッキー、アレを取りに戻るわよ」
「だねェーー」
僕はすぐに反応した。
「アレって何?」
「”ペニシリン”よ」
その名を聞いた途端、僕は目を丸くして勢いよく立ち上がった。今度は僕が驚愕する番である。
「えっ!!!それってもしかして”抗生物質”だっけ!?こっちの世界で作ってたのか!?」
「そうそう。世界で初めて発見され、実用化された抗生物質、”ペニシリン”。前にアオカビから生成することに成功したの。村で流行り病が広まった時があって」
「半端ねぇ!!!」
これは、まさかまさかである。専門知識が無ければ不可能に思える抗生物質を中世的時代背景のこの世界で生産してしまう猛者が既にいたとは。
システムエンジニアの知識を駆使して、僕は宝珠システムを創り上げたが、むしろそちらの方は全くマネできたい芸当だ。
かつて僕は、この世界で体調を崩した時、「異世界で風邪を引いたらアウト」であることを痛感した。もしも原因不明の感染症を併発した場合、特効薬が無いために死亡率が極めて高いのだと。しかし、その一つを桜澤撫子は完成させていたのだ。
これは驚嘆するに余りある。
「……よくわかんないけど、なんかそういうの、昔ドラマで観た気がする」
ウチの嫁さんも話を半分ほどしか理解できていないが、これがとてつもないことだというのは理解している。
僕たち夫婦が感嘆し、興奮した顔で見つめると、桜澤撫子は少し照れて謙遜した。
「さすがに私一人じゃ無理だったわ。ツッキーがいてくれたから。この子、日本では看護師らしいのよ」
「「えっ…………」」
これまた意外な情報に目を丸くし、僕と嫁さんは山吹月見の顔を凝視した。すると、彼女の方が困った顔をする。
「もォーー、そういう顔されるからァ、あんまり自分の職業ォ、言いたくなかったのォーー」
しかし、彼女の真の職業を知って、嫁さんは大喜びである。
「そうなんだ!私、ずっと病気だったから、どこかで月見ちゃんのお世話になってたりしてね!」
「かもねェーー」
また、僕としては逆に呆れながら彼女に助力を求めた。
「なんだ。だったら、さっきから僕にだけ診断させないで、山吹さんも手伝ってよ。医療関係者がいるなんて知らなかった」
「うん。でもォ、ガネくんの診察はなかなか正確だと思ったよォーー。システムの中身は知らないけどォ、ちゃんと人の体のこと理解してると思う。素人さんなのにィ、よくそんなに詳しいよねェーー」
「実は百合ちゃんがもともと持病を抱えてるんだ。それで、付き合う頃からいろいろ気になって調べるようになってね」
「へェーー」
山吹月見は僕の言葉を聞くと一瞬、目を丸くした。そして、何やら感動した様子で嫁さんの方に歩み寄り、その肩に手を置いた。
「ユリッペ、アナタァ、ものすごくいい旦那さん掴まえたねェーー。こんな人、滅多にいないよォーー」
「えへへ。そうでしょ。こういう人だから結婚したんだもん」
嫁さんは満足そうにハニかんだ。
さて、”大賢者”の診察と今後の治療方針は決まった。
とりあえず彼の身柄はベナレスの本宅で預かることにし、万全の体制で看病にあたることにした。我が家の使用人たちの協力があれば、何不自由なく療養してもらえるだろう。あとは時間を掛けて治療を行うのみだ。
ラクティフローラとシャクヤは、彼を移動させた後も、付きっきりで徹夜で看病していた。やがて明け方近くに彼がうっすらと目を開いた。
「お爺様!!!わたくしです!ピアニーでございます!」
「私もおりますわ!ラクティフローラですよ!」
しばらく虚ろな顔をしていた”大賢者”であるが、二人の孫娘の顔が目に入り、ハッキリ認識できると、わずかに表情を緩めた。ホッとしたシャクヤが、器に入れておいた果実の汁をスプーンにすくう。
「これは、『マナ・アップル』を絞ったジュースです。一口、お飲みになれますか?」
我が家には、嫁さんが環聖峰中立地帯で採取してきた『マナ・アップル』が常時、保管されている。これを絞ってジュースにし、少しずつ摂取してもらうことにしたのだ。
既に末期症状であるため、『マナ・アップル』のみで全快できる見込みはない。しかし、少しでも体力を回復できれば、自己治癒力が高まるであろう。
朝日が昇り、起床した僕たちがその様子を聞いた頃には、”大賢者”は再び眠りについていた。
ラクティフローラは立ち上がり、僕に告げた。
「お兄様、本日よりは、わたくしとピアニーはお爺様の看病を優先したいと思います。アカデミーに通ったのも、お爺様が目的ですので」
「うん。それがいいと思う。二人とも無理しないようにね」
「「はい。ありがとうございます」」
こうして”大賢者”の孫娘二人は、事実上の休学となった。
また、この後、アカデミーの新居に転移すると、そこではもう一つの変化も起きていた。
保護中のジャスミンの侍女が訪問してきたのだ。この前日にダチュラとルプスに彼女の家を探し出してもらい、彼女を預かっていることを伝えていたのである。
迎えに来たのは、恰幅の良い年配の侍女だった。
「お嬢様!!!」
部屋に案内された侍女が大声で呼び掛ける。その顔を見たジャスミンは、ずっと情緒不安定だった状態から、初めて目を輝かせた。その瞳には安堵の涙が浮かんでいる。
「ばあや!!!」
叫ぶや否や、ベッドから這い出すように起き上がり、侍女の胸に飛びついた。まるで子どもが母親に甘えているようだった。
この侍女はジャスミンを幼少の頃から世話してきた人物であり、実家から離れているジャスミンにとっては母も同然の女性だったのだ。
そうして、かすかに落ち着きを取り戻したジャスミンは、侍女が手配した馬車に乗って、帰宅することになった。
「お嬢様を助けていただき、本当にありがとうございました。主に代わりまして、御礼を申し上げます」
ジャスミンが何もしゃべらないため、侍女が盛んに礼を述べ、帰って行った。
「元気になってくれるといいんですが……」
それを見送りながら、前日からずっと彼女の看病をしていたプリムラが、悲しそうな目で呟いた。
ジャスミンは発作が起きるたびにプリムラに抱きついていた。かつてはイジメられた相手であるが、そこまで情けなく、憐れな姿を目の当たりにしては、同情しか起こらないようだった。
また、馬車の中では、少しずつ自我を取り戻してきたジャスミンが、侍女の手を握りながら、かすれた声で尋ねていた。
「ばあや……ばあやは、どこの出身だったかしら?」
「あたくしは、しがない農家の生まれでございますよ。縁あって当家に仕えさせていただきまして、感謝のしようもございません」
「そう……ばあやも、もとは農民だったのね……」
僕と嫁さんは、そんなプリムラとジャスミンの関係を不思議な感慨で眺め、今後も見守ることにした。




