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ウチの嫁が最強すぎて魔王すらワンパンなんだが  作者: 東条賢悟
第八章 異世界学園と召喚の真実
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第284話 不穏な試験日

「はぁ……自信ないよ……」


エニシダの講義の試験日となる11月15日。ウチの嫁さんは朝からテンションが低かった。


アカデミーの新居に転移し、皆で街に出ても彼女は暗い顔をしている。


「ねぇ、蓮くん……なんで世の中には試験なんてモノがあるのかな……?」


「学校ってとこに来ておいて、その質問はどうかと思うよ……」


あれだけ学校生活を楽しみにしていたクセに、試験日がやって来た途端、死にそうな顔をしている嫁さんに、僕は苦笑いするしかない。


世界最強の勇者が、何を気に病む必要があるのか、と言いたいくらいだ。


とはいえ、慣れない論文テストに挑まねばならないのだから、そこは同情の余地がある。昨夜まで毎晩のように教えてあげたことが、しっかりと活かされればよいのだが、正直言って不安だ。


思い返してみれば、嫁さんが勉強に集中できたとは言い難い。僕たち夫婦が勉強を開始できるのは、いつも牡丹を寝かしつけた後であり、深夜である。そのような中で彼女に論述のやり方を教えてあげても、すぐに音を上げ、ぶつくさと別のことを言い出すのだ。



僕は昨夜までのそのやり取りを回顧した。


「もうやだ……。辛い。飽きた。つまんない。蓮くん、何かご褒美ちょうだい」


「ご褒美って……教えてあげてる僕の方が欲しいくらいだよ……」


「これができたら、チューして」


「わかったわかった。小論文を1回書き上げたら、キスでも何でもしてあげるから、頑張りなさい」


「よし!がんばる!」


「付き合い立てのカップルか!」


と、最後に横からツッコミを入れるのは、同じく論文によるテストを初めて経験するダチュラだ。彼女は平民の出身であるため、文字を読み書きするだけで満足してきた女性である。物事を論理的に記述するなど考えたこともない女性だ。僕は嫁さんの他に彼女の勉強も見てあげることにしていたのだ。


「あのね、ユリカ。愚痴愚痴言うのは勝手だけど、私もレンに教わってるんだから邪魔しないでくれる?」


「ご、ごめん。ダチュラ」


嫁さんは申し訳なさそうに苦笑いして、勉強を再開する。ところが、こういう時、意外としっかり者のダチュラは黙々と論文を練習するのに比べ、嫁さんの集中力は、日本に置いてきてしまったのか、と言いたくなるくらい散漫になる。


なぜか嫁さんは、テーブルの上の紙に向かうよりも、僕の方に傾いて、肩を寄せてくるのだ。スキンシップは嬉しいのだが、さすがに苦言を呈した。


「おい、コラ、真面目にやらないと僕も怒るよ?」


「え……だって、こんなふうにカレシに勉強を教えてもらうの、ちょっと憧れてたから……」


「そ、そりゃ、僕だって自分のカノジョと深夜に勉強するとか、妄想したことあるけどさ……」


「なぁーーんだ。蓮くんも一緒じゃん」


「いいから集中しなさい。ダチュラを見ろ。あの子はすごいぞ」


「えぇーー、でもなぁーー」


「でもじゃない。やらないと、こうだぞ」


「ひゃっ!ちょっ、やだっ!くすぐったいっ!」


全くやる気を見せない嫁さんにイラついた僕は、なんとなくイタズラ心で彼女の脇腹をくすぐった。すると、予想外にビクッと反応した彼女に、むしろ僕の方がドキッとしてしまった。


「……あれ?百合ちゃん、くすぐりは効くの?その無敵の肉体でも?」


「え……だってダメージじゃないし、蓮くんに触られて、受け入れないわけないじゃん……今の私が……」


頬を赤く染めて嬉しそうにハニかんだ嫁さんを見て、僕の中で何か妙なものが燃え上がった。


「そうかそうか……。だったら、真面目にやらない限り、どんどんくすぐっちゃうからな。ほら。ほら」


「ちょっ、きゃははっ、やめっ、ダメだよ、いやぁーーんっ」


悦んでいるようにしか見えない嫁さんと、なんだか別の意味で楽しくなってしまった僕は、こうして無駄な一夜を過ごした。その横では、ダチュラは必死に小論文と睨めっこしていたのである。


(ツッコんだら負け!ツッコんだら負けよ、私!これは修行!あんなバカップルなんて、ほっといて、私はちゃんと勉強するの!)


こうして試験本番の朝を迎えてしまった。



今にして思えば、ダチュラには本当に申し訳ないことをした気がする。そして、よくよく考え直してみると、嫁さんの勉強が捗らなかったのは、僕のせいでもあるかもしれない。


嫁さんは気落ちし、ダチュラは緊張感で固まっていた。


真顔で黙り込んでいる彼女を心配し、僕は声を掛けた。


「ダチュラは平気か?」


「え……あ、うん。レンに特訓してもらったとおり、やってみるよ」


ダチュラは空元気に答えた。

そこに嫁さんが急に声を上げる。


「あ、蓮くん!」


「うん?」


彼女の見る方向に目を向けると、プリムラが一人で歩いていた。いつも一緒にいたシスルとは、今日も別行動のようである。やはり初対面の頃とは何か様子が違う。


昨日も気まずい別れ方をしただけに声を掛けづらい。


だが、この瞬間、僕にある名案が浮かんだ。


「ダチュラ、君の話なら、プリムラも聞くかもしれない。お願いできないか?」


「俺?……しょうがないな。あの子のために一肌脱ぐか」


一瞬、気乗りしない素振りを見せたダチュラであるが、プリムラと話ができるのは自分しかいないという考えに同意し、足早に駆けて行った。


「やぁ、プリムラ」


「ダ、ダチュラさん!!」


案の定、プリムラは男装しているダチュラに好意を寄せており、呼び止められた途端に顔を赤くして立ち止まった。


「ちょっと一緒に歩かないか?」


「え、ええ……」


ダチュラに自然な感じで誘われ、プリムラは拒絶の言葉も思い浮かばず、恥ずかしそうに共に教室棟へ歩き出した。


仲良く登校しはじめた二人を後ろから見て、嫁さんが笑った。


「ダチュラって、いいオトコだよね」


「女子の気持ちがよくわかるからこそ、無理のない誘い方ができるんだろうな。本人は不本意だろうけど」


こうして僕たちが遠目に見守る中、ダチュラはしばらくの間、プリムラと並んで無言で歩いた。やがて、照れて下を向いたままの彼女に向かい、穏やかに声を掛ける。


「プリムラ、最近はどうしてたんだ?」


「え、あの……」


「しばらく話せなかったから、ちょっと心配してたんだぜ?」


「えっ!ダチュラさんが……あたいを?」


「そうだよ。俺たち、友達じゃないか」


「………………」


ダチュラの言葉に目を丸くしたプリムラは、ほんの一瞬、とても嬉しそうに瞳をキラリと光らせた。しかし、それも束の間、ここで急に立ち止まった。不思議に思ったダチュラも足を止め、振り返る。


「ん?どうしたプリムラ?」


「……ダメです。ダチュラさんみたいに綺麗でカッコいい人に、あたいは近づいちゃいけないんです」


「何を言って……」


「あ……あたいは……あたいはもう……」


「俺と君は同じ平民だ。何も気兼ねする必要はないぞ?」


「あたいはもう!汚れてしまったから!」


「えっ、プリムラ?」


次第に震える声になったプリムラは涙目になり、突如として叫ぶや否や、別方向に走って行ってしまった。予想外にスピードのあるその走りを見ながら、ダチュラは呆然と立ち尽くす。


それを目撃した僕たち夫婦も慌てて彼女に合流した。


「何があったんだ?」


「わからない……いきなり泣いて走り出したんだ」


僕が尋ねてもダチュラは困惑している。追いかけようとも思ったが、試験会場で再び会えると考え、僕たちは、とりあえず教室棟に向かうことにした。




一方、ダチュラのもとから走り去ったプリムラは、正気に戻ると、目的地の反対方向に来てしまったことに気づいた。そして、少しだけ逡巡した後、再び戻ろうとした。


だが、この時、それを呼び止める者がいた。


「ねぇ、あなた!」


「え……」


振り向いた彼女は青ざめた。

貴族令嬢学生マーガレットとジャスミンがそこに立っていたのだ。


プリムラを呼び止めたのはジャスミンであり、彼女は激しい剣幕で近づいてきた。


「何をダチュラさんに色目使ってんのかしら?えぇ?」


ダチュラとプリムラが二人並んで歩いていたのを遠くから目撃したジャスミンは、嫉妬心を燃やし、マーガレットと共に追いかけてきたのである。プリムラは気まずそうな顔をしながらも、どこか、ぶっきらぼうに返事をした。


「べ、別に……」


「しばらくおとなしくしてると思ってたら、隙を見てああいうことするのね。最近はエニシダ教授とも懇意にしてるそうじゃないの。あなた、調子こいてんじゃないの?」


「そんなことは――」


ガンッ!


否定しようとしたプリムラであるが、ジャスミンの手に持っていた扇子で頭を思いっきり叩かれた。彼女は、その勢いで地面に尻餅をついた。


「ジャスミン、顔や頭は、およしなさいな。傷つけると人目についてしまうわよ」


マーガレットが一応は世間体を気にして助言するのだが、その声は非常に冷たい。決して同情しての言葉ではなかった。そして、気が済んでいないジャスミンは声を荒げるのみである。


「フン!貴族の娘が使用人を叩いたところで、何か問題があるかしら!しかも、土臭い農家の虫を!」


「まぁ、そうね」


マーガレットは簡単に引き下がった。ジャスミンは悔しさを抑えきれず、プリムラに憤激した。


「いい?次、生意気なことしたら、叩かれるだけで済まないからね!その、そばかすだらけで野暮ったい顔がジャガイモみたいになるまで殴り続けてやってもいいわ!あんたみたいな虫!二度とダチュラさんに近づくんじゃないわよ!フン!」


吐き捨てるように叫びきり、彼女は振り返って去ろうとした。マーガレットも一緒に歩き出す。


ところが、この時のプリムラは、それを黙ってやり過ごせるほど穏やかではなかった。ジャスミンをキッと睨みつけたかと思うと、いきなり彼女に向かって突撃した。


「うっ!うああぁぁぁぁぁっ!!!」


「えっ!?」


驚いて振り向いたジャスミンの襟元を掴むプリムラ。

その目は血走っている。


「な、何よ、あなた……!」


「あたいは……!あたいにはもう……失うものは何も無いのよ!!!」


「ちょっ!何するの!こいつ!力強っ!」


ジャスミンが振りほどこうにも、プリムラは驚くほどの力強さで、抵抗することができない。農村で生まれ育ったプリムラは、遊び暮らしてきた貴族令嬢とは比較にならないほど体が鍛えられているのだ。


「だっ!誰か!!!誰かぁーー!!」


これに仰天したマーガレットが、咄嗟に助けを呼んだ。


ちょうど道外れにある建物の陰に隠れていたため、今まで人目につくことなくプリムラに焼きを入れることができていたのだが、逆に誰の目にも止まらないため、反撃にあうことになった。


そこで、暴漢に襲われた、か弱い女子のごとく、マーガレットは悲鳴を上げたのだ。


「なんだ!」


「どうしたどうした?」


声を聞きつけた男子学生数名が、物珍しそうに駆けつけた。しかし、プリムラはマーガレットが叫んだ時点でマズいと判断し、ジャスミンから手を離して足早に逃走していた。


「あの女が!庶民の分際で!このわたしを!」


到着した男子学生たちにジャスミンは訴えたが、既にプリムラの姿は見えなくなっていた。


「えーーと……どの子だ?」


「名前なんて知らないわ!あんな虫けらの呼び方なんて!」


彼女たちはプリムラの名前すら把握していなかった。それが幸いし、彼女のことが悪評として広がることは防がれた。


だが、これをキッカケとして、プリムラは試験会場に向かわなくなってしまった。




さて、このようなイザコザがあったことなど、やはり僕たち一行は知る由もない。


ただ、試験を前にして不安に苛まれている嫁さんを優しく激励するのみであった。


試験会場は、いつもと同じ講義室である。


試験日は、普段と異なり、自分たちの好きな席に座ることはできない。この日だけは講義室に事務員が配置され、それぞれカンニングできないよう、間を開けて座らされた。


入室した順番に席を決められてしまうため、たまたまタイミングの悪かった嫁さんは、僕と離れた位置に座ることになった。可哀想なことに、この時の彼女は、連れて行かれる子犬のような目をしていた。


僕は彼女に手を振って、元気づけた。


自分の席に着き、周囲を見渡す。遠くの席にシスルを発見した。やがてバジルたち貴族学生も入室し、着席した。


しかし、プリムラは見つからない。


そう思っているうちに試験が開始された。



試験問題は、壇上に上がった講師エニシダが黒板に板書した。


「精霊神殿の祭壇に祀られた精霊と、世界各地に存在する精霊について、その関係性を述べよ」


というものであった。


これは精霊魔法を扱う人間にとって常識的な知識を問うものであり、さほど難解なものではない。むしろ普通に講義を受けているだけで解答できる内容である。


かつて僕も何度か解説させてもらったことがあるが、この世界の『精霊』とは、自然現象を概念的に人格として捉えた呼称であり、現実に人格を有した『精霊』が存在するわけではない。


言い換えれば、『精霊』とは、世界のどこにでも存在する『自然』そのものであり、それにマナと術式を仲介することで、人の思い通りの働きを起こさせるのが『精霊魔法』である。


一方で、『精霊神殿』の祭壇には、『精霊』の働きを映像化する術式が構築されている。つまり、『精霊』そのものが祀られているのではなく、『精霊』という概念的な存在を人間が認知するための特別な技術が施されているに過ぎない。


ゆえに『精霊神殿』の『精霊』は、世界全土にあまねく実在する『精霊』を象徴的に具現化したものと言える。


以上のことを、平易な文章でもよいので論述することができれば、この試験は簡単にパスすることができよう。


そして、この問題は、既に僕が練習問題として嫁さんやダチュラに実践させておいたものでもある。僕の試験予想は完璧に当たったのだ。



僕は小論文を淡々と書き上げた。


時間が余って仕方がないくらいであった。


後ろにいるので見れないが、おそらくラクティフローラとシャクヤも余裕で解答を終えていることだろう。


一席開けて隣に座っているダチュラは、眉間にシワを寄せて必死にペンを握っている。


あまりキョロキョロするわけにもいかないので、僕は室内の前方を見渡してみたのだが、未だにプリムラの姿は見当たらなかった。


結局、そのまま試験時間は終了した。


解答用紙を事務員が回収し、それらを束ねて講師であるエニシダに渡す。受け取った彼は、そのまま無言で講義室の脇から出て行った。これにて、完全に終了である。


その間、僕は後ろの席も確認したのだが、プリムラは、最後まで講義室に姿を現さなかった。


周囲では、各地でザワザワと賑やかな談笑が始まった。試験終了後の瞬間というものは、何とも言えない解放感に包まれるものである。


「ダチュラはどうだった?」


僕も隣にいる男装女子に声を掛けた。

すると、彼女は安堵した表情で、ハニかんだ。


「論文なんて絶対無理って思ってたけど、何とかなったかも。練習したとおりには書けたわ。これもレンのお陰よ」


「ダチュラ、ダチュラ、素が出てる」


「あっ!ウ、ウン!レンのお陰で何とか書けたぜ!」


どうやら僕との特訓の成果が出たようで、教えた身として、とても嬉しく思った。僕たちはすぐに遠くの席に座っている嫁さんを迎えに行った。


ところが、そこには萎れたように机に突っ伏している彼女がいた。


「終わった……」


「どうした百合ちゃん」


「自分でもよくわかる。小学生の作文みたいのしか書けなかったって。そもそも文字を書く時は、こっちの言葉で書かないといけないから、いくら頭の中に翻訳機能があったって、ちゃんとした文章を書くなんて無理ゲーなんだよ。蓮くんは、どうしてそんなにスラスラ書けるの?」


「そりゃあ……練習したから」


「ひどい!何この差は!どうして夫婦でこんなに頭のデキが違うの!?」


「君は無敵の力を持ってるんだから、いいじゃないか」


「そんな慰め、要らなーーーーいっ!」


涙目で愚痴っていた嫁さんは、僕がフォローすると逆に不機嫌になった。そこに合流したラクティフローラとシャクヤが笑顔で励ます。


「お姉様!試験ごとき、大した問題ではありませんわ!」


「ユリカお姉様なら、大丈夫でございます!」


二人の美少女から盛んに鼓舞され、彼女たちに支えられるようにして、嫁さんは講義室を出て行った。僕もダチュラもそれに苦笑しながら付いて行った。



教室棟を出ると、牡丹とカエノフィディアが待っていた。また、そこにバジルたち貴族学生も加わった。


「やぁ、シロガネくん!試験も無事に終わったことだし、今日のランチはパァーーッとおいしい物を食べに行こうじゃないか!どうだい?」


「いいわね!今日は私、ヤケ食いしたい気分!!」


殊の外、バジルの提案に嫁さんが乗り気である。食べれば元気になるというのだから、簡単な女性で助かるとは思う。


「ユリカ嬢は、うまくいかなかったのか!まぁ、そんな日もあるよ!」


「ワタクシなんて、毎回、試験にはウンザリしますわ!」


「ダメなら、また講義を受ければいいのよ。何度でもやってくれるんだから」


留年という概念が無いためか、ペンタス、マーガレット、ジャスミンは呑気な言葉で嫁さんを励ましてくれる。これに嫁さんも顔を綻ばせた。


「そだね。また次、がんばろ」


ところで、そんな嫁さんよりも、今の僕は別のことを懸念している。教室棟から出た後も、ずっと周辺を見渡している僕をダチュラが気に掛けた。


「どうしたの?レン?」


「うん……プリムラが試験会場にいなかったのが気になってね……」


そう言いながら、ふとここで、僕は試験中と終了後の自分の行動を思い返し、カバンにインクの瓶を入れ忘れた可能性があることに気づいた。カバンの中身を確かめると、やはり無い。


「あ、ごめん。ちょっと忘れ物」


僕は、ほんの数十秒程度のことだと考え、一人で講義室に戻った。


皆が談笑しているためか、僕自身、試験終了直後の余韻になんとなく浸っていたためか、この時、僕はあれほど皆に言い聞かせておいたにも関わらず、短時間だと高を括って、単独行動をしてしまった。


講義室に入り、僕は自分が座っていた中央付近の席に向かった。


ところが、その席にインクの瓶は無かった。


「あれ?だとしたら、どこで落としたんだ?」


誰かが持って行った可能性も考慮しつつ、僕は念のために机の周囲を探してみた。床を見るため、しゃがみこんだ時、今頃になって宝珠システムが半径10メートル以内に存在する高レベル反応を検知した。


それと同時に声がした。


「こんにちはァーー、ガネくん」


「……はい?」


独特の呼称で僕を呼んだ声に反応し、恐る恐る立ち上がった。

しかし、相手の声はとても優しく、明るい笑顔を向けてくる。


「アナタが探してるのって、コレかなァーー?」


その手には、僕のインク瓶があった。

彼女が拾っていたのだ。


山吹色に染められ、ウェーブのかかった髪に、整ったルックス。背丈はウチの嫁さんよりも少し低いくらいの色白美人がそこにいた。僕は彼女の顔を以前に一度だけ、帝国で見たことがある。


「えっ!君は確か、山吹月見!」


「あ、覚えててくれたんだァーー、ワタシ感激ィーー」


身構えながら僕が名前を叫ぶと、彼女は上機嫌で自己紹介した。


「ってことで改めましてェーー、ワタシはァーー、世界中のミンナに嫌われる『飢餓の魔王』ォーー!その名もォ、ブーゲンビリアでェーーす!キュピーーン!」


右手のピースサインを横にし、右目の前に持ってくるという、一昔前のギャルのようなポーズを決めて、彼女は名乗った。


僕はドン引きしつつも、恐怖が安堵に変わるのを感じた。


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