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イリウスの空  作者: RUKA
第三章 悲劇の連鎖
25/36

正直逃げたい

 数人での徒歩移動から騎乗しての行軍となり、アスカは慣れぬ空気にむずがゆさを感じていた。そろう足並み、きっちりとした隊列。しかも自分は仮にもお姫様であるエレナと同じく中央配置。ちなみにクルセルドは左翼、ミシェルは右翼前方に配置されている。

 クルセルドは「魔族に魔王軍以外まともに統率の取れた組織はない」と言っていたが、これはどこからどう見てもがちがちの軍隊だろう。盗みでヘマをやらかして軍警にでも連行されているような気分だ。

 息が詰まるな、とアスカは空を見上げた。本日は薄曇り。だが、アスカの目にそう映っているだけで、もしかすると仲間たちには清々しい快晴に見えるのかもしれない。

 湿地を西側から大回りをして、今度は乾いた地平を行く。幾度か魔物に襲われたが、アスカが何をすることもなく、竜騎士隊があっさりと退けてしまった。竜人族は武芸、特に槍術に秀でた一族であると、ソフィアが胸を張ったのを、アスカは大して興味も抱かずに「へー」と聞き流しただけだった。

 やがて日が西に傾き、ソフィアは部下たちに野営の準備を指示した。てきぱきと動く竜人たちをしり目に、エレナは「馬に乗ったの久しぶりだからお尻が痛い」などと嘆いている。

 簡易テントを組み立てる竜人に混ざって重たい資材を軽々担いでいるミシェルの周りでは控えめな拍手が起こっていた。その様子を見やって、悲鳴を上げるエレナに苦笑いしていたソフィアが首を傾げた。


「そういえば、あれは聖族か?」

「……半分な」


 エレナ程ではないにしろ、こちらも疲れた様子のアスカがぼそりと答えた。竜の髭がピンと伸び、もとより大きな爬虫類の目はさらに大きくなったようである。しかしそれは徐々に緩められて、髭はゆらゆらと揺れた。


「なるほど、それでか」


 ミシェルの少し後ろ、様子を窺うようについて歩いているのはクルセルドだ。彼女のことが気になるのだろうか。「何してるんですか」と尋ねてきた竜騎士をひと睨みした彼はいつぞやのごとく、ミシェルに向けて弱めた風の精霊魔法を放った。それは僅かに彼女のスカートの裾を揺らしたが、寸でのところでウォールが発動された。

 ミシェルが振り返った拍子に肩に担いでいた資材が傍にいた別の竜騎士の顔面に直撃。場には小さな混乱と笑い声が起こったようである。


「クールめ。女性には優しくしろと言い聞かせておるだろうが」

「気になる子はいじめたい年頃なんじゃないですかねえ」


 怒りを見せたソフィアの隣でザッシュがのほほんと答えた。これに対して先ほどまで唸っていたエレナが元気になって目を輝かせた。


「え、何。あの二人そんな感じなの?」


 きらきらと輝く美しい瞳。ザッシュは視線を逸らしたが、アスカは見下ろして渋い顔を作った。手を伸ばして置いた先は、エレナの頭。ぐい、と押さえつければ自然と彼女は下を向く。


「あんたの思っている気になる、とは別物だ」

「え、え?」

「ザッシュ……」

「俺にそのあたりの機微は分からん。期待しないでくれ」


 はああ、と深くため息をついて、アスカはクルセルドとミシェルを見やる。またプチ魔法合戦をしつつ野営の準備はそれなりに手伝っているようだ。


「面倒な……」


 しかし、そればかりも言っていられない。アスカはとりあえず完全に日が落ちてミシェルがひとりになるだろう時間を待つことにした。

 夕食は、簡易的な軍用食であった。干した肉や木の実を、クルセルドはげんなりして「俺、これ嫌いだ」と言った。彼の隣にはソフィアとエレナ。ザッシュは他の竜騎士と話しているようである。アスカはその様子を見て、ミシェルを探す。案の定、アスカと同じように輪から少し離れたところで静かに木の実を咀嚼していた。

 わざと足音をさせて近づくと、彼女はすっと顔を上げて「あら」と微笑んだ。


「あちらでお話しせずともよろしいので?」

「馬鹿言え。あんな数の魔族に囲まれたいわけないだろう。しかも、ドワーフみたいに非力じゃない」


 ミシェルはほんの僅か停止したようであったが、すぐに微笑みを取り戻す。


「まあ、すぐにあなたの配下になる方たちですわよ」

「そうなんだろうが……、違うだろ、やっぱり。俺もあんたも、ここじゃ異質だ」


 アスカは肩をすくめて、ミシェルの隣に腰を下ろした。相変わらず面白みのない表情で、彼は手にしたカップを傾ける。中身は野草のスープだ。少し、青臭い。


「で?」

「え?」

「あんたは、何を怒っている」

「……胸に手を当てて考えられたらいかがでしょうか」


 にこにことした穏やかな表情に、刺々しい声音。やはり彼女はウィリアムの屋敷を発ってからこちら、ふつふつと怒りをたぎらせているらしい。アスカはまた一口スープを飲んだ。

 心当たりがないわけではない。ミシェルの顔色が変わったのは、ウィリアムの屋敷でアスカがエレナに薬の準備をするようにと指示した直後だ。クルセルドはすぐに気付いたようで、どこか落ち着かなさそうであった。


「……エレナを連れてきたのがそんなに気に入らないか」

「この先の戦いに彼女は不要です」


 きっぱりとした物言い。アスカは頭を抱えたくなったが、行動することも、また表情を変えることもなかった。ミシェルの言い分は分からなくないし、むしろ強く同意する。


「クルセルドたちには言ったが……。あくまでエレナ自身の意志だ。俺にとやかく言う権利はない」

「……そうやって彼女のせいにして、曖昧なまま逃げるおつもりですか?面倒だと、そう言って」


 ミシェルはアスカの方へ顔を向け、まっすぐに彼を見つめていた。彼はそれから逃れるようにまた視線を外した。


「あなたは彼女の気持ちに気付いているはずです。どっちつかずの態度では、余計に彼女を傷つけて――」

「あー……」


 かくん、と。アスカはうなだれた。ミシェルは驚いて瞬きをする。


「面倒くさい」

「アスカさん……」

「勇者とか、魔王とか神とか不老不死とか、急に壮大すぎる。全部面倒くさい。正直逃げたい」


 淡々と、流れる川のごとくに零すアスカにミシェルはやや呆れを含んだ眼差しを向けた。しかし、「でも」と彼の言葉は続く。


「助けてほしいと言うなら。俺は、仲間を見捨ててはいけないと教えられている」

「!」

「だから、逃げやしないが。それ以外のことまで処理できる程、俺の許容量は大きくない」


 ミシェルは先日カトレアが言っていたことをやっと理解できた。アスカは、見た目にまったく反映されていないが、かなり混乱しているし、余裕がないのだ。それでも最大限エレナの意志を尊重しようとしていて、エレナはそれを理解している。


「……私では、勝てそうにありませんね」

「?」


 小さな、小さな呟き。聞き取り損ねたアスカは顔を上げたが、ミシェルは首を横に振った。何かを諦めたような、それでいてすっきりしたような表情であった。


「分かりました。もう結構です。新しい魔王は結構なヘタレです、と聖王様には報告いたしますわ」

「あんたな……」

「ふふ。ところで、やきもち妬きのお姫様がお怒りのようですが」


 見れば、「アスカ!」とやや引きつった笑顔のエレナがこちらへ近づいてきていた。げんなりとしたアスカにミシェルはまた笑みをひとつ落とし、腰を上げた。


「ミシェル?」

「この場に留まるほど、私は野暮ではありませんわ」

「むしろいてくれると助かるんだが」

「私、エレナさんの味方ですので」


 うふふ、といたずらに笑った神官の法衣と銀髪が揺れる。「何の話してたの」などと聞いてくるエレナは華麗に無視をして、アスカは暫くその背中を見送っていた。



 ミシェルに勇者の補佐および魔王討伐が命じられたのは、十年前のことである。魔王に自分と同じ年頃の娘がいることもその時聞いた。幼心に、羨ましかった。彼女にあって自分にはない「お姫様」という肩書が。

 神官養成校でどんなに好成績をたたき出しても。レックスに褒められる程度には棒術を修めても。ミシェルには決して手に入れられないものであった。

 魔族のお姫様は、きっと、苦労など知らず安穏と暮らしているに違いないと思っていた。何も知らず何もせず、綺麗に着飾っているだけなのだろう、と。けれど。


――ちょっと!女の子一人相手に卑怯じゃない!


 目の前で揺れた金髪。はっきりとした声と言葉。誰もが見て見ぬふりをする中で、動いてくれたのはエレナだった。当然、ミシェルがひとりで対処できなかったわけではない。それでもあの時、彼女は間違いなく嬉しかったのだ。そして、一部始終見ていたレックスにあれが「エレナ姫」であると聞いた。

 羨ましいと思っていた。ミシェルの持ちえぬ肩書を簡単に手に入れているから。ただ王宮でのんびりしているのだろうと勝手に思っていた。

 そんな相手は、自らボローディアを脱して勇者を探していた。ミシェルが半聖だと言っても驚きこそしたが拒絶しなかった。徐々に狂っていく魔族を憂い、そして止めようとして、身体も心も傷ついていた。ミシェルは「お姫様」が背負ったものを知った。

 エレナは優しい。優しいのが過ぎる。本来口を利くこともないだろうミシェルにも。そして、魔王である父親を倒す存在であるアスカにも。どうしたって届かない相手なのに。

 ミシェルは竜騎士隊の掲げた松明からは離れて膝を抱えた。どうにも、感情というものは彼女の身体になじまないらしく、持て余す。そしてそれは透明な雫になった。


「おい、んなとこで何やってんだ」


 小さな足音と、橙色の光。はっとして振り返ると、掌に小さな炎を灯した少年がいた。彼はミシェルの顔を照らすと「は?」と声を上げた。


「お、お前、何泣いてっ……、はあ?」

「な、泣いてなど……!」


 ぐい、と目元をこすったが、それこそが自身の言葉を否定する行為である。ぽかんと口を開けて固まっていたクルセルドは、やがて小さな炎を握り消した。ゆっくり、戸惑って一歩。躊躇いつつ二歩。近づいた少年は少女の前に膝を折った。

 ぽすん。頭に置かれた掌。銀色の髪が揺れた。


「……俺は、嘘つきは嫌いだ」

「え」

「聖族も、嫌いだ。お前のことも、まあ、好きじゃねえよ」


 だけど、とクルセルドはミシェルの頭を軽く数度叩いた。


「エレナを好きになってくれてありがとう。守ってくれてありがとう」


 ラテムでも聞いた言葉であった。やはり、嫌いなら嫌いと表情を変えて、その時々の気持ちを表面に出すクルセルドは、ミシェルにすればとてもまっすぐだ。

 ぽつり、ぽろり。零れて流れた。それはミシェルの膝の上に落ち、布に吸い込まれる。


「私、だったら……。エレナさんを、これ以上傷つけないのに。悲しい思いはさせないのに」

「……」


 クルセルドは何も言わない。おそらくは、これ以上何を言えばいいのか分からないのだろう。適当な慰めの言葉を吐かないあたりが彼らしいと思いながら、ミシェルはぎこちなく頭を撫でる掌を受け入れた。



 暗い簡易テントの中、アスカはゆっくりと身体を起こした。周囲の気配が多いせいか、どうにも緊張が解けずに眠れない。ふっと息を吐き、立ち上がろうとして止まった。服の裾を掴んでいるその手は、クルセルドのものだ。就寝まで姿をくらませていた彼は、ミシェルとともに戻ってきた後、何故かアスカの傍を離れない。

 アスカはぺしん、と成長途中の少年の手を弾き、立ち上がった。仕切られた幕の向こうでは女性陣が眠っているはずである。


「夜這いは駄目だぞ」


 剣を隣に立てかけて座ったまま目を閉じている剣士の声。アスカは「誰が」と呆れ交じりに言った。

 テントを出れば、入り口で見張りに立っていた竜人が驚いて声をかけてきた。


「勇者様、いずこへ」


 アスカは思わず顔をしかめそうになったものの、堪えて「別に」と答える。


「寝つきが悪いから近くを散歩してくるだけだ」

「では誰か供を」

「いらない」


 そのあたりの魔物にやられるような勇者では、可哀想なのは彼ら魔族自身だろう。大群なら流石に逃げるが、建物のなく見通しの良いこの周囲に、今、その気配はない。


「そんなことより、こういうのは見つからないように持つべきだな。あんたらの大将はうるさそうだ」

「え、あ!」


 アスカは、それまで竜人の腰にあった小さなボトルを手にしていた。コルクの栓を抜けば、ほのかにアルコールの香り。弱くはあるが酒である。いつの間に、などと驚く相手に返してやるはずもなく、アスカはひらりと手を振って歩き出した。

 昼間出ていた雲が流れてさらに厚いものになっているのか、月明りはない。しかし、アスカには少しずつ離れていくキャンプの松明で十分であった。

 アスカは、先ほどクルセルドの手を払った己の手を見てみる。彼よりは一回り大きいが、ザッシュに比べると小さい。そして、竜人族のソフィアたちとは見た目からしてまるで違っていた。

 あの後。食事中、ミシェルが離れたあと。暫くしてクルセルドも姿を消した。その間、アスカが耳にしたのは気持ちのいい言葉ばかりではなかった。

 半魔が何を堂々としているのか。魔王軍に入れたのも部隊長の座も姫様のおかげなのだろう。精霊魔法だけは得意なようだが。魔導士部隊は辟易しているらしいぞ。しかも敵は皆殺しにしてしまうほど残忍極まりないらしい。今もきっと、勇者に取り入って地位を確保しようというのだろう。

 聞こえているのだろうに、ソフィアは止めなかった。ザッシュもだ。エレナですら、表情を曇らせただけで行動はしなかった。

 真面目そうな竜人族ですら――否、だからこそかもしれないが――このありさまだ。魔族、そして魔王軍においてクルセルドがどういう状況に置かれていたのかは想像に難くない。同じ混血のミシェルは自分のことをそれ以上話さないが、おそらく大した差はあるまい。

 はあ、と息をつき、先ほどくすねた酒を喉に流し込んだ。

 ウィリアムは、王を「単なる器」と言った。それは邪神の闇を受け止めるためのもの、と言う意味で、だ。しかし、そちらはともかくとして、アスカは己に「王の器」はないのだろうと思う。

 自分で立つので精一杯。人ひとり抱き上げれば、それだけで満足に身動きもとれない。それが今の彼だ。誰かの想い、目の前にある理不尽。それすら、彼は見て見ぬふりをするしかない。


「迷って、いるのですか?」

「!」


 気配のないところから、声。一瞬周囲に光が差したかと思うと、目の前には夜空の色をした髪の男がいた。白い法衣が揺れて、錫杖がシャラン、と鳴った。


「やあ、こんばんは」

「あんたは……」


 大神官レックス。なぜだろうか、彼の指示で動いているというミシェルは信頼できるのに、この男そのものはどこか信用ならない。まるで、彼自身がそう思わせるような空気をわざと纏っているかのように。


「君は女神と聖女に選ばれた。その時点で迷うことに意味はありませんよ。時間と精神力の無駄、君に言わせれば『面倒くさい』のではぁ?」


 両手を広げたレックスは間延びした調子で言う。声や動作が、どうにも癪に障る男である。


「どうかな。あんたの部下に言わせれば俺は結構なヘタレらしいからな。そんな奴が、例えば壊れかけのつり橋を絶対に渡らなければならないとして、躊躇わないはずがないだろう」

「勇者様が真顔で言う台詞ではありませんねえ」

「勇者が持つべき勇気は、そのつり橋を一緒に渡れと他人に言う勇気、なんだろう」


 鼻を鳴らしながら返してやれば、レックスは多少驚いたようであった。しかしすぐに元の読めない怪しげな笑みを浮かべてしまう。


「なるほど確かに。しかし、思ったより余裕があるようで、安心しました」

「は?」


 どこがだ、とアスカは自嘲する。他人の希望になって、期待されて、重くて仕方がない。前途には暗雲が立ち込めている。そんな今の自分のどこが、と。しかしレックスは薄く微笑んで見せた。


「迷う、悩む。それは停滞しない思考だ。本当に余裕のない人間と言うのはね、一切の思考を止める。示されたものに全身全霊で従う、それだけになるのですよ。楽ですからね」

「……」

「確かに君は流されてここにいるけれど。その理由を自分の中に見つけようとする。面倒くさいと言いつつ、さらに面倒な事態を避けるために考える。それは、きっと君の強さですよ」


――自分の理由をちゃんと考えてみろ。そういうのは、根っこになるぞ


 アスカがいつかザッシュに言われた言葉を思い出したほんの一瞬。レックスの表情から胡散臭さが消えた。儚げな青年のようでもあり、老成した隠者のようでもある。確かにそこにいるのに、実体がないかのような。とても不思議な雰囲気に飲み込まれたようで、アスカは次の言葉を失った。


「ところでぇ」


 シャラン。揺れた錫杖の音にハッとする。すぐ目の前にレックスが近づいていた。


「君、もしかしてゾアゴで何か見ました?」

「は……?」


 亡都ゾアゴ。かつての魔族の首都。闇の神ダーク封印の地。悪魔族の根城。アスカが思い起こしたのは、ミシェルの危険運転でも大勢の悪魔族の若者たちでもなく、ただの悪夢であった。そう、やけにリアルな、死と暗黒の夢。アスカがぐらりと足元の揺れたような感覚を覚えた、その時。


「アスカ!」


 ブン!とアスカの横の空気を斬った大剣は、高い金属音をさせて錫杖に受け止められた。


「っ、ザッシュ!」

「しっかりしろ!ていうか誰だこいつ!」


 珍しく、ザッシュは焦っているようである。ヴァイスと対峙した時ですら冷静であった彼なのに。アスカの様子がおかしかったからだろうか。


「いきなり斬りかかるなんて、吃驚するじゃないですかあ」

「吃驚するような奴は斬れてるはずなんだがな……!」


 ザッシュは押すが、相手が軽く受け止めてくるのでいったん身を引いた。


「彼は何だ。何を言われた?」

「ああ、いや……」


 剣を構えたザッシュはアスカの前に立ち、問われたアスカはと言えばその大きな背中を見て驚くばかりである。しかし暫くして、二人の間にある言い知れぬ緊張感に気付いた。


「待て、大丈夫だ。敵じゃない。味方でもないが」

「ひどいですねえ」


 けらけらと笑いながら、しかしレックスは否定しなかった。僅かに振り返ったザッシュは訝しげに瞬きをする。


「大神官レックス。ミシェルの上司だ」

「これが……?」


 ザッシュの頭上にはクエスチョンマークがいくつも浮かんだようであった。「そうですよー」などと相手がへらへらとしているのだから当然だろう。神官の上に「大」がつくような人物には到底見えない。

 剣を下ろす気配のないザッシュを見つめたレックスは、アスカやザッシュが気付くか気付かないかのほんの一瞬、たたえていた怪しげな笑みを消した。


「うーん。私があまり物語に介入しすぎるのはよくありませんねえ」

「物語……?」

「では、私はこれで退散します。そろそろ夜更かしのきつい身体になってましてねえ。あ、ミシェルによろしく」


 ひらりと法衣を揺らして二人に背を向けたレックスはそのまま歩きだし、やがて彼の身体は強い光に包まれたかと思うと、消えていた。

 レックスを見送ったアスカの前で、ザッシュが膝を折った。


「おい……?」

「何だ、彼は……、本当に神官か?勝てる気がしないぞ……」


 言葉通り、ザッシュの額には汗の粒がいくつも浮いていた。これに驚くのはアスカだ。確かに彼もレックスについては得体のしれないという意味で恐ろしさと言うか薄気味悪さを感じる。本人曰く魔法を使えば船一隻を沈めてしまうそうだ。けれど、ザッシュがここまで気圧されるほどだろうか。それとも単純に達人の域同士でなければ分からないようなやり取りでもあったのか。


「……悪い奴ではない、ぞ。たぶん……」


 あまりの自信のなさにアスカの声音はだんだんと小さくなった。確かにアスカに彼を肯定する材料は少ないが、ミシェルの上司だ。先ほど言った通り、味方ではないにしろ敵でもない。

 やっと立ち上がったザッシュは視線をさまよわせているアスカを見下ろして、へらりといつも通りに笑った。


「そうか。君がそう言うなら信じよう、アスカ」

「!」

「でもなー。本当に嫌なこと言われたわけじゃないのか?ひどい顔してたぞ」


 アスカの頭に手を置いて、んー、と覗き込んでくるザッシュ。アスカは大きな手を払いのけて「何でもない」と努めて平静に答えた。

 あれはただの夢。自分の不安が見せた夢だ。アスカはそう決めて、ザッシュに「ほら」と酒を渡してやったのだった。

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