第6章 積徳経済(Accumulate Virtues Economy)
一
ジン・ミツルは遺書を残していた。
それにより、アバン・キャピタルの代表は山剛猛が引き継いだ。
が、ACU(アバン資本連合)のCEOにはミン・ムーチェン大統領が就任した。
ジン・ミツルに準ずる地位として世界から認められていたのはUSAN大統領だったからである。
そして、ムーチェンがその地位につくと、ロシア、イラン、トルコ、韓国などもACUに加盟することとなった。
「恭喜恭喜」
と、ムーチェンに頭を下げたのは、中夏の国家主席であった。
「多謝!(ありがとう)」
と、ムーチェンCEOは国家主席に言葉を返したが、その語調は尊大であった。
ムーチェンが実質的に世界の皇帝となったことで双方の立ち場は逆転していた。
「天将様たちも、よくやった、とおっしゃられています」
と、国家主席が言うと、ムーチェンは表情を曇らせ、
「そうか」
と言ったきり沈黙した。
これにあわてた国家主席は、
「失礼しました。わたしがお伝えするようなことではありませんでした」
と謝罪した。
翌日、国家主席は更迭され、後任にはムーチェンの手の者が就任した。
ちなみに、ACUはグレート・フジの中に本部オフィスを構えることになっていた。
が、ジン・ミツルが死んだことにより、状況は一変した。
ムーチェンはUSAN大統領を辞任するという条件でACUのCEOに選ばれたのであるが、
「即座に辞任するわけにはいかないので当面の間は大統領職とACUのCEOという立ち場を兼務する」
と言っていた。
このため、ACUの本部オフィスは暫定的にロサンゼルスのホワイトハウス内に併設された。
「あいつが辞任などするわけがない」
と、山剛は配下の者たちに言った。この件はグレート・フジの高僧たちの予知情報を視るまでもなかった。
アバン・キャピタルの代表となった山剛は、ムーチェンがACUのCEOに選出された段階でACUから手を引くことを決めていた。
「ジンさんの遺産をなぜあんな男にくれてやらねばならんのだ」
と、山剛は何度も口に出して言っていた。
そして、ACUが発足するまでの1ヶ月の間にその資産の9割をチベット国に移した。
その9割の資産の内訳は、グレート・フジの所有権、リチウムの先物市場における保有権とマニ発電の特許権および発電所建設における設計監査料の受給権、それから、チャンタン高原の巨大加速器の使用権と、それに付随する量子演算機能の独占ライセンスであった。
で、それらは新たにチベット国に創設されたジン・ミツル財団の所有とした。
アバン・キャピタルには天文学的な額の現金と不動産などが残っており、一見するとすべての資産がACUに移譲されたようになっていたが、それらは時間の経過とともに消えていく資産であり、100年後にも残るような資産ではない。
ちなみに、高僧たちの予知情報では、
——ACUは悪魔の統治機構となり、世界の産業をことごとく踏みつぶす、
と、なっていた。
二
ACUが発足してまず行ったのは世界の基軸貨幣の創設であった。
DENと人民元とユーロを統一し、
ABN、
という名の貨幣をつくった。
これは、それまでBIS(国際決済銀行)が各国の中央銀行と連携しながら研究していたCBDC(中央銀行デジタル通貨)を発展させたものであった。
BISとは第一次世界大戦のあとにつくられた最古の国際金融機関で、敗戦したドイツの賠償金を徴収して戦勝国の中央銀行に分配するための組織であった。が、その後、世界の中央銀行同士の決済を取り仕切る組織として存続していた。その資金源は各国の中央銀行からの出資であり、ムーチェンはBISの最大の出資者であった。新たに発足したACUはそのBISを支配下に置いて加盟国の中央銀行をその下部組織とした。そして通貨を統一し、それによって加盟国の市民のデジタル通貨を一手に支配し、人々のカネの使い方をコントロールする機能をつけ加えた。
これはジン・ミツルが意図していた経済政策ではなかった。
が、アバン、という通貨の名称があたかもジン・ミツルの構想を実現したもののような印象を与えた。
これに対し、
「ユーロを創設したときの地獄を忘れたのか!」
と、一部の経済評論家は騒いだ。
ドイツやフランスが底なし沼に足を踏み入れたのはユーロの創設によるものだった。通貨が統一されて自国の通貨発行権を失うと、経済の悪化を自国の通貨で補うことができなくなるのである。ドイツの場合、当初はユーロの恩恵が大きかった。EU全体の経済力が低下してユーロがあがらない状況が続き、ドイツはユーロが安いことによって中国との取引で大きな利益をあげつづけた。が、ユーロがあがりだし、中国の経済が急落したときにドイツは自力でその穴から這い上がることができなかった。
当時のことを覚えていた経済人は皆でそのことを言ったわけだが、しかし、ムーチェンはそれらを無視した。
尚、ジン・ミツルが意図していた経済政策の骨は、ACUの加盟国の国債発行を一手に引き受けて、その投資を調整する中央銀行の創設であり、通貨の統一ではなかった。
このとき、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ギリシャなどはすでに経済が極度に悪化してきていて、デフォルトを起こす寸前の状態であった。ユーロをABNに変換してその通貨の発行権をACUが握るということになると、そこにできあがっている巨大な負債はACUが引き受けることになる。自力ではどうにもならなくなっていた国々としてはACUにぶら下がって自国経済を延命できるというのは願ってもないことであったわけだが、ぶら下がった時点で自力による復興を放棄したことになる。
経済に疎いムーチェンはそのことがわかっていなかった。
貨幣を統一してその発行権を握るということは巨大な権力を握ることであり、そのことばかりに気をとられていた。
そして、貨幣の統一が行われた翌年、まず、イギリス政府がデフォルトした。
イギリスは産業革命が終わった時点でメインの産業を金融にしてしまい、製造業をほとんど消失させていた。ところが、EUから離脱したためにロンドンの金融業界はユーロの取り扱いからはずれてしまって極度に疲弊した。そこにDENが登場した時点ですでに一度デフォルトしていた。IMFなどの資金供与で持ちなおしてはいたが、イチジョー・ショックの際にまたデフォルトし、このときもIMFの資金提供を受けていた。ABNによる通貨統一には参加したのだが、そのときに起きた金融業界の再編に耐えられなかった。
「イギリスの負債は大きいですよ」
と、ムーチェンに言ったのは財務長官であった。
「まあ、仕方がなかろう」
と、ムーチェンは他人事のように言った。 USANの財務長官はそれ以上何も言わなかったが、ACUの筆頭執行役員は黙っていなかった。
「3000兆ABNの負債が判明しましたけども、どうします?」
「IMFになんとかしてもらうしかなかろう」
「IMFはそんな大金を出せません。3000兆ABNはIMFの年間の資金調達額の半分以上です」
「・・・・・・」
「ACU加盟国の財務についてはACUが保証するしかありません。なにせ、通貨を統合したのはACUですから」
「そんなバカなことがあるか?」
「そういう約束で通貨の統一が行われております」
「ACUはいくら出せる?」
「出そうと思えば全額出せますが、フランスやドイツもデフォルトしそうですから、それらの負債も背負い込むとACUも立ち行かなくなります」
「ならば、負債を補填するのではなく、自力で復興するための援助をするという程度でおさめるしかないだろう」
「どんな援助ですか?」
「そんなことをわたしが考えるのか? オマエたちは何のためにいるんだ?」
このときの筆頭執行役員の名は、
ジョシュア・ブルームバーグ、
といった。
45歳のユダヤ系アメリカ人だった。
ジョシュアはムーチェンが採用した役員であり、アバン・キャピタルから移行してきた者ではなかった。ハーバード・ロースクール出身で法律には明るかったがビジネスについては素人であった。
そのジョシュアが出したアイデアはお粗末なものであった。
——支払いをしぶる、
というのがそのアイデアであった。
これにより、その半年後にはイギリス国内でかなりの数の餓死者が出た。正確な数字は公表されなかったが、数千人という話が出ていた。そして、その半年後にはアイルランドもデフォルトを起こした。
アイルランドはEUに残り、ロンドンが引き受けていた取引を引き継いで金融業だけは好調を維持していたが、実体経済は疲弊していた。イギリスと同じく製造業が空洞化していたのである。そこに、イギリスのデフォルトによる影響が出て金融業も立ち行かなくなった。
「このままですと、ACUの加盟国はみんな離脱するかもしれません」
と、ジョシュアはムーチェンに助言した。
すると、ムーチェンは、
「離脱はゆるさん」
と言った。
そこで、ジョシュアは、
現金給付、
という手段に出た。
イギリスやアイルランドが貧窮している根本原因には手をつけず、その場限りの福祉政策によって貧困層の人気を集め、それによってACUからの離脱を防ごうとしたのである。
が、ムーチェンの人気はなかなかあがらなかった。
ジョシュアは悩んだあげく、ムーチェンの彫像を多数つくらせてヨーロッパの主要都市のメインストリートなどに立てさせた。
すると、それらの地域で暴動が頻発するようになり、ムーチェンの像を破壊する者が続々と出現した。
ムーチェンはこれに怒り、自分の像を厳しく監視させ、手を触れる者はことごとく拘束させた。そして、それらの者たちの家族や親族や友人にいたるまで、ABNの支払いに厳しい制限をかけた。移動にかかわる出費や爆発物に加工できるような化学製品の購入がほとんどできないようにしたり、罰則として娯楽に関する支出も制限した。
CBDC(中央銀行デジタル通貨)として使われるようになったABNはモスコンをさらにアップグレードした超高速超大量統合演算機=通称クラコン(クラーケン・コンピュータ)によってほぼ完全にコントロールされており、人々の消費活動を個別に監視し、かつ、制限できるのである。
これにより、ある日突然に映画館に入れなくなったり、洗剤や肥料などが買えなくなったり、電車やトラムに乗れなくなったりした者たちは大いに怒り、暴動はさらに拡散した。
ムーチェンは、もともと暴動を鎮圧することで権力を握った者である。イチジョー・クラッシュの際にUSAN全土に広がった反政府運動を人民解放軍によって鎮圧したことが最大の業績であった。このため、ヨーロッパで拡散していった暴動の鎮圧には大いに力を入れ、ロボット兵の投入を積極的に行った。
これにより、暴動は鎮圧された。
暴動に参加していた者の多くはイスラム左翼系市民であったのだが、それらのほとんどが死滅した。
三
フランスとドイツがデフォルトした、というニュースを聞いた山剛は、グレート・フジにあったジン・ミツル財団のメインオフィスをチベット国に移し、STE(Space Time Engineering Co., Ltd. / 株式会社 時空エンジニアリング)のビル内に農業部門の研究所を新設した。そして、ダライ・ラマ15世に言った。
「アバン投資連合からは離脱したほうがいいですよ。ムーチェンはもはや後戻りできませんし、ACUの資金が枯渇するまで使いつづけるでしょう。これにつき合う必要はありません」
ダライ・ラマ15世は山剛の進言に同意し、即刻手続きを開始した。
チベット国が離脱したことを知ったジョシュアは山剛に面談を求めてチベット国までやって来た。
山剛は、ラサ市の空港に降り立ったジョシュアを出迎えた。
「こんな遠くまでご苦労さまです」
と、山剛は言った。
ジョシュアは山剛に礼を言い、ダライ・ラマ15世が用意した黒塗りの公用車に乗り込むと、
「なぜ、USANを去ったのですか?」
と、山剛に質問した。
これに対し、山剛はずばり答えた。
「ムーチェンCEOの下にいるのは危険だと考えたからです」
山剛はACUのCEOには選ばれなかったが、ジン・ミツルの後継者ということでEO(経営責任者=Executive Officer)のひとりにはなっていた。ただ、ムーチェンは自分がCEOに選ばれた後は一度もEO会議を開いたことがなかった。
「危険と言いますと?」
と、ジョシュアは怪訝な顔をした。
「あなたは側近のような立ち場にいらっしゃるから何も感じていらしゃらないのでしょうね」
と、山剛は笑った。
そして、
「あなたも今のうちはいい暮らしをさせてもらえてるのでしょうけども、いつどうなるかわかりませんよ」
と言った。
ジョシュアはどんな顔をしていいのかわからず、
「そのようなことを言うのはたしかに危険ですよ」
と言った。
山剛はジョシュアをそのままSTEまで連れて行った。
2時間ほどのドライブとなったが、会話ははずまなかった。
STEの来客用宿泊施設に入ったジョシュアはシャワーを浴びてすぐに山剛のオフィスを訪問した。
山剛は食事を用意していた。
ワインで乾杯をすませると、
「これは食べものなのですか?」
と、ジョシュアは困った顔をした。
山剛は笑った。
「これはツァンパという食べものです。チベット人の主食です」
「粘土のように見えますけど」
「ハダカコムギという古い品種の麦を粉にして練ったものです。スープにつけて食べます」
ジョシュアは手をつけるまえに質問した。
「ポークは入っていませんよね?」
山剛はジョシュアがユダヤ人であることを思い出し、
「ご安心ください」
と言った。
一口食べたジョシュアは、
「おいしいです」
と言ったが、表情はすぐれなかった。
その顔を見た山剛は、ウエイターに合図してチーズバーガーを持って来させた。
ジョシュアの顔はようやくほころんだ。
そして、空腹を満たしたジョシュアは切り出した。
「チベット国には、もう一度ACUに加盟していただき、通貨もABNに切り換えてもらいたいのですが、可能ですか?」
山剛は即座に、
「可能だと思いますけど、それはダライ・ラマ15世の判断です」
と言った。
腹ではACUに加盟する気などさらさらなかった。
ジョシュアはそこを見抜き、
「了解しておいて引き延ばすおつもりですね?」
と言った。
「おぉぉ、それはACUのお得意とするところですよね」
と、山剛は笑った。
が、ジョシュアは笑わなかった。
そして、
「ACUへの加盟は国力バランスの問題もありますから無理かもしれませんが、せめて、リチウムの権利の半分と巨大加速器の使用権と、量子演算機能の独占ライセンスをACUに譲っていただけないでしょうか?」
と言った。
「ACUにはジンさんの遺産のほとんどをお譲りしました。まだ足りないのですか?」
「フランスやドイツまでがデフォルトするのは想定外でした。今ある現金だけでは足りないのです」
「通貨統合を白紙に戻して、それぞれの国が独自に自国の通貨を発行できるようにしてあげればよろしいのでは?」
「それをするとACUのコントロールが効かなくなります。ACUのリーダーシップで世界のマネーを正常化するというジン国師の構想が空中分解してしまいますよ」
山剛は黙った。
それ以上何かを言うとムーチェンの無能ぶりを批判することになり、それを補佐しているジョシュアをも責めることになるからである。
が、ジョシュアは返答を迫った。
仕方なく山剛は回答した。
「ジンさんの構想とおっしゃられましたけど、あなたたちがやっておられることは基本的に真逆の方向を目指していますよ。たしかにジンさんはリーダーシップをとるつもりでおられましたけど、世界をコントロールしようなどとは考えてませんでした」
ジョシュアは当惑した。
「リーダーシップをとるということはコントロールするこではないでしょうか?」
これを聞いた山剛は笑いだした。
「それはきわめてアジア的な考え方ですね。暴力による支配で国をつくる、という古代の遊牧民の思想ですな。遊牧民の支配を受けなかったヨーロッパや日本ではリーダーシップというのはそういうものではないんですよ」
ジョシュアはやや顔を赤らめ、
「その日本のリーダーシップというのはどのようなものですか?」
と言った。
「個々の存在を尊重しながら皆で足並みをそろえてよりより方向を目指す、というようなものが基本にあります。リーダーは取りまとめ役であって支配者ではないのです」
と、山剛は質問に答えた。
ユダヤ人と日本人は同祖だというような説があるが、ユダヤ人は遊牧民の末裔であり、日本人とはそのあたりの考え方が根本的に異なる。
「あなたのお考えはよくわかりました」
と、ジョシュアは言い、そのあとは世間話をしただけで帰国した。
四
ムーチェンはジョシュアの報告を聞いて怒った。
そして、
「チベット国をACUの直轄領にする」
と言った。
「しかし、チベット国には核兵器がありますよ」
と、ジョシュアは言った。
「そんなことを心配する必要はない。向こうが核を使えば、こちらも使う。そのことはわかっているだろう」
と、ムーチェンは笑った。
チベット国を占拠するため、USANはロボット兵を500万ほど用意して揚陸艦に乗せた。ムーチェンはさらにフランス、ドイツ、イギリス、ロシア、イラン、インド、中夏にも参戦を要請した。
経済的に貧窮していた国々の首脳たちはその要請を嫌がったが、ACUによる貧困層への現金給付が止まると自分たちの政権を維持できなくなるために従わざるを得なかった。
チベット国を包囲したロボット兵の数は1000万を超えた。 航空部隊は2万のロボット戦闘機と5千のロボット爆撃機で編成された。
作戦の指揮はホワイトハウス地下のバンカー内で行われた。
25名ほどのオペレーターが個々のディスプレイに向かっており、ムーチェン他の幹部たちは円形のテーブルの肩側に腰かけながら正面の大きなスクリーンを視ていた、
「GO」
と、ムーチェンは上機嫌でマイクに向かって言った。
全てのロボット戦力を統括していたのはバンカーの下に設置されてあったクラコン(クラーケン・コンピュータ)で、ムーチェンは直接そのクラコンへ命令できるようになっていた。
が、ロボット航空部隊もロボット兵も動かなかった。
「動きません!」
と、統合参謀本部議長が言った。
「どういうことだ!」
と、国防長官はスクリーンを凝視しつづけた。
ムーチェンは、再度、
「GO」
と、マイクに向かって言った。
すると、
< コントロール機能停止 >
と、スクリーン上に大きく表示された。
「ミスタ・プレジデント、ダライ・ラマ15世から電話が入っています」
と、首席補佐官がムーチェンの顔を見た。
「スピーカーにつなげ」
と、ジョシュアは首席補佐官に命じた。
「ミスタ・プレジデント、ごきげんよう」
と、ダライ・ラマ15世は落ち着いた声で言った。
「おはようございます。どうしました?」
と、ムーチェンは返答した。
ロサンゼルスは午後1時であったが、ラサ市は午前4時であった。
「おや、それはわたくしの方がお尋ねしようと思ったところです。何か不穏な動きがあるようですけども、どういうことでございますか?」
と、ダライ・ラマ15世は言った。
「あなたが降伏なさるなら攻撃は中止いたしましょう。どうですか?」
と、ムーチェンは余裕のあるふりをした。
「降伏ですか? どうしてでしょう?」
と、ダライ・ラマ15世は問い返した。
「我々はすでにあなたの国を包囲しています。わたしがGOサインを出せば3時間以内にあなたの国は滅びます」
と、ムーチェンは言った。
「それは無理でございましょう」
と、ダライ・ラマ15世は笑った。
そのとき、統合参謀本部議長がムーチェンに向かって自分の首を手刀で切る合図をした。 電話を切れ、という意味だった。
ムーチェンはいきなりスピーカフォンのスイッチを切った。
挨拶なしのその行為には皆ギョッとした。
「なんだ?」
と、ムーチェンは統合参謀本部議長に問うた。
「クラコンがハックされています。チベット高原のどこかから衛星回線を使って侵入している模様です」
「そんなバカな」
「チャンタン高原の巨大加速器に付設されている大型量子演算機能調整機を使っていると思われます」
「なんのことだ?」
「ジン・ミツル財団のSTEが使っているコンピュータです」
ムーチェンがふてくされたような顔をしつつ、
「敵にそんなコンピュータがあることははじめからわかってただろう!」
と言った。
統合参謀本部議長は大汗をかきながら、
「その件は何度もお伝えしましたが、ご理解いただけていなかったようで、申し訳ありません」
と言った。
そのとき、首席補佐官が再度口を開いた。
「ダライ・ラマ15世からまた電話が入っております」
ムーチェンは顔をしかめたが、それでも、電話をとった。
ダライ・ラマ15世は停戦を提案した。
クラコンのハックをやめる代わりに、ロボット兵とロボット航空部隊を撤退させよ、ということだった。
「尚、この件はわたくしたちからは一切公表いたしません。いかがでしょう?」
と、ダライ・ラマ15世はつけ加えた。
「CEO、この件を公表されますと、ACUへの各国の信任が崩れます。そうなると、ACUから離脱する国がどっと増えますよ」
と、ジョシュアはムーチェンに耳打ちした。
ムーチェンはそのジョシュアの顔を見ながら、
「わかった。撤退しよう」
と、マイクに向かって言った。
すると、国境線に並んだまま静止していたロボット兵たちが一斉に動きだし、それぞれ母国の揚陸艦に向かって歩きだすのがスクリーンに映った。
「おい、まだ命令は出していないぞ」
と、ムーチェンが周囲の者に言うと、
「命令を出したのはわたくしです。そちらのお船に乗るところまではこちらの指示で動いていただきます」
と、ダライ・ラマ15世が言った。
五
——ジン・ミツルには勝てません、
と、心筋梗塞を起こしたスン・チョンが言っていたのを思いだしたムーチェンは、チベット国の件についてはすべて忘れることにした。
その2日後、ジョシュアは山剛に電話をかけた。
「ミスタ・ヤマカタ、お見事でした。わたしたちは負けました。わたしは、あなたに将来を託したい。ご指示をただければ何でもやりますよ」
というジョシュアの申し出に対し、
「ミスタ・ジョシュア・ブルームバーグさん、いいお話をありがとうございます。心に留めておきますよ」
と、山剛は返答した。
その年の秋になると、イラン、ロシア、トルコが次々とデフォルトした。
イランとロシアでは凄まじい数の餓死者が出た。
フランス、ドイツではイスラム左翼系の住民がほとんど死滅したせいで福祉関連の政府支出が大幅に減り、犯罪も減って経済がやや上向きかけていたのだが、ロシア、トルコのデフォルトの影響を受けて再度奈落の底に落ちた。
ACUの加盟国で最低限の経済力を維持できていたのはUSANと中夏とインドだけとなった。
対照的にチベット国は東南アジア諸国やアフリカの国々と連携しながら強大な経済力をつくっていった。農業面でもあらゆる作物の品種改良に着手し、乾燥や風や冷気に強い品種を限られた水の量で効率よく育てられるようになり、不毛の地であったチベット高原を穀倉地帯に変貌させた。
そのような情勢下で、ある日、ダライ・ラマ15世が崩御した。
遺言によれば、ラサ市内の商人の子として生まれ変わる、ということだったので、そのとき以降にラサ市内で生まれた赤ん坊はすべて次のダライ・ラマ候補としてリストアップされた。
六
ムーチェンの治世は8年目に入った。
世界の人口は半分になっていたが、餓死者も出なくなり、暴動も起きなくなっていた。与えられた現金給付の範囲内で細々と生きる者のみが生き残っており、それらは余計なことにエネルギーを使わなくなっていたのである。
ただ、チベット国とその周辺地域だけは活気を維持していた。
そして、ラサ市にひとりの少年が現れた。
ミクマル、
という名前であった。
これは、火曜日という意味であった。火曜日に生まれたのでそういう名前になった。
ちなみに、チベット人には苗字がない。
ミクマルはラサ市内でスーパーマーケットを営んでいた者の息子であった。
2歳で仏教の経典を読むようになり、3歳で説法をはじめた。
ダライ・ラマ16世にふさわしいと、だれもが思った。
パンチェン・ラマ12世はさっそく鑑定のための僧たちにミクマルの家を訪ねさせた。
僧たちは、まず、ダライ・ラマ15世が生前に使っていた種々の物品を見せた。ミクマルはそれらを手にとって眺め、経本には強い興味を示した。
また、ダライ・ラマ15世が親しくしていた者たちを引き合わせると、そのうちの何名かに対してミクマルは旧知の者を見たような態度をとった。
「ミン・ムーチェンを知っていますか?」
と、僧のひとりが尋ねると、
「知っている。愚かな男だ」
と、ミクマルは言った。
パンチェン・ラマ12世は自らミクマルの家を訪ねた。 すると、ミクマルは嬉しそうに微笑み、
「ずいぶん歳をとったようだな」
と言った。
しかし、ミクマルはダライ・ラマ15世が経験したことなどを我が事のように話したりはしなかった。
「あなたは、どなたです?」
と、パンチェン・ラマ12世は尋ねた。
すると、ミクマルは、
「わたしはミクマルだ」
と答えた。
「その前はどなたでしたか?」
と尋ねると、
「それを言わせるのか?」
と言った。
パンチェン・ラマ12世は話題を変え、
「ジン・ミツルさんをご存知ですか?」
と尋ねた。
すると、ミクマルは意味ありげに笑った。
だが、それだけだった。
「では、ヤマカタさんをご存知ですか?」
と尋ねると、
「もちろんだ」
と言った。
その話を聞いた山剛は急いでミクマルのところを訪ねた。
ミクマルは山剛の顔を見ると嬉しがった。
そして、日本語で異様な話をはじめた。
「貨幣制度を改めねばいかん。カネには善悪の色がない。数量があるだけだ。数字だけを追い求めて人々は右往左往する。そのために悪いこともする」
と、ミクマルは言った。
「貨幣経済をやめろというのですか?」
と、山剛は尋ねた。
すると、
「そうだ。貨幣ではなく、ポイントにするのだ。しかも、そのポイントは徳を積んだときに得られるものにするのだ。たくさんポイントを得た者にはそれなりの地位と待遇を与えるシステムにするのだ。そのポイントはSTEの加速器に付随させた量子演算機能で計算させるのだ。あれならば100億人ぶんのポイントでも計算できる。そして、積んだ徳をカウントする経済を構築するのだ。そうすれば、人々は徳を積むために働くようになる」
と、ミクマルは言った。
——積徳経済、
という言葉をミクマルは使った。
山剛は稲妻に打たれたような衝撃を受けた。




