彼の見解
***
国立図書館最上階、屋上。
今、ソフィレーナは、展望部屋の奥の小振りな鉄製の螺旋階段の先、広々とした屋外に立ち尽くしていた。
一体、何が起きてる・・・の、かしら。
ウィークラッチ島から眺め遣る夜空に、一片と月の光はない。新月。
彼女の頭上を覆うのは、満天という言葉が馬鹿らしくなるほどの、星の絨毯。
「っ………結界結びの赤光…は、まったく、みえないんですね!」
私に今、何がおきてるの…?
ソフィレーナは、内心の動揺を押し隠し、中天を見上げたまま声を出した。妙なテンションの高さが耳について、頬の熱さがさらに増す。
彼女は、現実を認識しようと必死で頭を働かせていた。
遺跡技術をエネルギーとしたものには、必ず出るとされる特色『ルール』がある。
だから当然、ウィークラッチ島の結界にもルールがある。結界の頂点に結び目の様な赤い光が出るのだ。
でも、その光が見えない。
結界の頂点の灯りを消すなんて理論、みたことないけど・・・
つまり、これは。
夢だ! どこかで寝ちゃってるんだ目覚めなくては! 何処までも逃避したいソフィレーナがそう思う間もなく、馴染んだ子供の声が誇らしげに真っすぐかけられた。
後ろから。
「綺麗だろう? 折角星が見えるのに、あの光は邪魔だったから消させてもらったんだ。
まあ、原理はその内の月一論文にでも出すよ」
ソフィレーナの数歩後ろ、己の分の毛布を担いだケルッツアは、横に来るとそう言った。
満足げに笑っている気配がして、ソフィレーナは堪らなくこそばゆくなる。
無理矢理、星屑に全意識を注いだ。
先ほどケルッツアの告げたとんでもない――――まだ発表されてない技術のことも、無視した。
あーほしがきれいだわーあの星は確かイオルネだったかしら銀河帯の側だから分かりやすいのよねうん他にも……
逃避のはずだったが。
今まで見たこともない星々の輝きに、瞬く間、感動で言葉を失くしていく。
すごい。
きれい・・・
藍色の空に一面、彩り豊かな輝きが無数に煌めいている。距離感のまったく掴めない深遠の星星に、吸い込まれ落ちていくような錯覚。
ソフィレーナは、怖さをまったく感じなかった。むしろ、心の中をほどかれていくような。
ああ・・・・・・。
ずっと・・・・・・見ていたいわ。
「…ソフィーレンス君?」
ケルッツアが、ソフィレーナを呼んだ。
けれど、彼女はいまだ天を仰いで立ち尽くしている。
ケルッツアは。
青白い星明りを浴びてそらのあちこちに視線をやっているソフィレーナに、満足そうだった顔をうずうずとさせたかと思うと、彼女との距離をさらに半歩ずつ、縮めはじめた。
褐色の顔には、何歩目で気づくかな、と書かれている。
「………え?、あ、何でしょう? 」
ケルッツアが三歩目を踏んだところで、ソフィレーナがようやっと気付いた。
彼は、そんな彼女の、普通の状態では考えられぬ秒数遅れに、ますます嬉しそうな顔をする。
「これだけいっぱいの星は、今まで見たことがない?」
答えが分かってる調子でソフィレーナに問いかけ、彼女が素直に頷くのを見て、ふふふ、と。得意げに笑った。
ついで、まだ星々に釘付けになっているソフィレーナに倣って、自分も同じ空を見上げた。
そうしていながら、同じように空を見ているソフィレーナの星光に浮かぶ表情を――――普段滅多に見ることのない、ぽっかりと開けられた口と、見開かれた眦の瞬く回数の少なさを――――ほころんで見ていたが。
少し名残惜しげに顔を俯かせると、じゃあそろそろ用意をしようか、と声をかけた。
「・・・え?」
ぽかん、としたソフィレーナは、ゆっくりケルッツアを見。
はたと我にかえる。
「あ、ええ! そうですよね!!! 残業!!!!
私、何をすればいいかしら?」
「……流星群を見る心の用意、かな?」
「……え?」
ソフィレーナは、また、ケルッツアの信じられないような言葉に声をなくす。
どう…
どうしちゃったの?
星を眺めていた驚きとは別の驚きで、ソフィレーナは素直に――――困惑でケルッツアを見返した。今更ながらケルッツアがとても近くにいることに息を止める。ほぼ真横。
いつの間…に……?
ケルッツアが笑っていることが分かる、その眸の色が良く分からないことだけが、ソフィレーナはとても有難かった。
流星群を、見るって…肉眼……で?
今夜、流星群が流れることはソフィレーナも知っていた。
けれど残業だと聞いていたから、本当に残業のつもりだった。
お仕事のつもり、だったのに……これじゃあ。
彼女の心拍数が勝手に上がっていく。足裏の感覚がなくなった気すらした。
脳髄から、いとも簡単に麻痺していく錯覚。
「残業も頑張ってくれたソフィーレンス君へ。
…………ちょっとした、僕からのお礼だ。」
さあ、もっとよく見えるところへ行くよ、と。今やケルッツアは彼女分の毛布も持って、屋上よりさらに高い場に続く簡素な階段に片足を乗せていた。
そんな上司である者の言葉に対して。
本当は、夢なんじゃ、ないかしら・・・
ケルッツアが、流星群を肉眼で見るための用意を手際よく整えていく。
見上げた先の彼の心底楽しげな姿に、ソフィレーナは鼓動の高鳴りが、高跳びが制御できない。
「…っ」
結局、なんとか現実なのか夢なのか判らない曖昧な足裏の感覚から、踏みしめた抵抗を最大限に感じ取り、彼女はケルッツアの後へと続いた。
そして、星明りに慣れはじめた視界の中、簡素な食材などを機械的に確認しながら、如何していいのか分からなくなっていた。
頭を緩く振ってわざと髪を乱し、その栗色の柔らかさで目元を隠しても、今回はそう簡単には、熱も、自身で感じ取る煩い脈の音も立ち消えてはくれない。
せめて、会話だけでもなにか。
ええと、夢ですよね?
夢、夢ですよね? そんな言葉ばかりが頭を巡って、ろくに思考回路が働かないということだけ分かったので、黙っていることにした。
それを口に出すのが失礼だという認識だけは、辛うじて崩れなかったのが幸いだった。
まだお礼を言ってないということにも、気付けないまま。
ソフィレーナの状態などお構いなく、ケルッツアはコンクリートの上に二人分の毛布を敷き終えて、準備万端、とばかり。
外見に似合いの子供然とした顔で彼女を振り返る。
「さあできた!
…いいよ。おいで? ソフィーレンス君」
その言葉と、軽く手招きをする手、そのあまりの普通さ加減に。
ソフィレーナは。
「あ、すみません任せきりで!
あの、他に何かすることは……」
「いいんだ。
……だって君は、こういう観測はしたことがないって言ってただろう?
知ってる奴がやればいい。当たり前のことだ」
別に業務でなし。謝ることもないよ。ごく軽く言われた言葉に絶句。
仕事でないと、彼女は今はじめて、明確に、上司から聞いた。
ええと・・・残業代が、出ないってこと、よね?
色気のないことを思い、間違いなく、否応なく、理解できないけれど理解するしかなかった。
これは。
知恵者から、助手への。
このひとから、わたしへの。
おれい。
労い。感謝。ありがとうソフィーレンス君。そういうことなのだと今更ながらに。
何に対してのお礼なのかまでは、分からなかったけれど。
ますます心臓も高鳴ったし熱いぐらい体が火照っている気がするし、脳みそももうどこかからすでに融けだしているのではないかと思うほど、頭が働かない。
ええと。だから。つまりは。
・・・だから!
いっそ、ほんとうに夢だと思えば……取り乱さずに対処できる、かな。
色々なぐるぐるが頭の中で廻ったが、ソフィレーナはそう決めた。
そう、心に決めて。
やっと。
ケルッツアに応じることができた。口も勝手に動きだす。
「じゃあ、その、楽しみます。ありがとうございます!
私本当にこういうのはじめてだから、し、しっかりいろいろ教えてくださいね?」
やっといつものような憎まれ口も飛び出した。ケルッツアの手際の良さから、どのぐらいなさってることなの、と聞いてもみる。
ケルッツアは唸って首を傾げた。
「うぅん……? 気が向いたときは、いつも外に出て見てるからな・・・。
……どのぐらいになるんだろう」
時々は学友同士で酒飲みながらもやるよ、とあっけら言われた。
ソフィレーナは、彼の故郷では十四が成人で、この国に来たときすでに彼は飲酒していたということは知っていた。異世界から帰ってきた後の身体検査、一年による経過観察のまとめ論文に備考として書いてあった。
なにより、実年齢が四十四だ。飲酒は、肉体的には本来ならこの国の法律では許されないのだが――――諸々の事情を加味して、特例で許されている。
とはいえ心配がないわけではない。彼女は素直に聞いてみた。
「お酒って……そんな、酔いつぶれちゃわないんですか?」
「もちろん、潰れない程度に抑えるよ。
……冬の良く晴れた日なんかは特別に寒いからね。ある程度身体をあっためないと動けないときもある。
寝ない程度に。一瓶ぐらいのものだ」
一瓶。彼女はその響きに、充分危ないじゃない、と思った。まして、片手の親指と人差し指だけで高さを示せる瓶の度の強さは推して知るべし。
だからわざと意地悪げに釘をさす。
「ケルッツア・ド・ディス・ファーン。
私に、変な記憶を植え付けないで下さる?
ただでさえ私、忘れられないんですから……凍死体なんて見たくないですよ?」
「ソフィーレンス君のいじわる。
きちんと気をつけてるっていってるじゃない。
まだやりたいこともあるし……。無駄に解剖されてやる義理もないからね。
眠るにしても凍死しない準備で出るし。
・・・・・・・なんなら、また冬に似たようなことしようか? いつか」
憎まれ口をたたきつつ、叩かれつつ。
ソフィレーナは、ときめいた心に蓋をして、いつか、いつかですね、と。そっけなく返した。
いつか、ほんとに叶ったらいいな。
そんな柔らかでほのかな想いはおくびにも出さず。
そんなやり取りの後、彼女はケルッツアにならって毛布の上に土足で上がりこみ、とりあえず端に座った。
すぐにケルッツアからもっと中央に来るように言われたので、緊張を心の奥底に無理に押し込めて、逡巡、ケルッツアの近くまで膝で歩み寄ってみる。
ケルッツアは、斜め下手を見た。
「ふむ。まあ支障はないか」
ソフィレーナの遠慮がちな様子を見、何を思ったか、彼は彼女に背中を向けるように指示を出す。足は延ばせるか、毛布から出ないか、そんなことを彼女にも確認し。
ソフィレーナの背中に、自分の背中をくっつけた。
「っ!? ドク」
「じゃあ、僕はこちらを観測するからソフィーレンス君には反対側をお願いしよう!
まだ流星群には時間が有るけど、小さいのも結構流れるから、多分飽きはしないと思うよ?」
驚いた彼女の言葉を遮るよう、観測はこうやるものだと言わんばかり。
そう言うと、コートの端と、敷いた毛布を折り返して足に掛け、すでに頭上を眺め出している。
そういうもの……なの?
そういうもの、なの・・・・・・かしら…
ならば倣うのがいいのよね。だって私は教えてもらう立場だもの。
ソフィレーナは、背中の熱がとても、ほんとうに落ち着かなくて気になったけれど、極力考えないようにした。
ケルッツアと反対側を眺め、それでもまだ引かぬ熱には、少し強めに頭を振って払いのけようとする。
相変わらず今にも落ちて来そうな幾万もの星の光。洪水。渦。
頭も心も、全部を、天体観測に向けた。
寄りかかってきていた重みが若干動いた後、落ち着いた、その黒いコートの背の温かさや感触はなかなか無視できなかったが、無視した。
ほぼ意地だった。
膝を抱え込み、首から、肩口、靴の爪先まで持参した厚手のコートを掛けて暖を取るように丸まる。
背中、温かいわ。
これは良い暖の取り方よね……。
あったかいな・・・
自分の背から脈の速さは伝わるものだろうか? そんな懸念も考えない。考えないように極力務める。
けれど、如何にも落ち着かず勝手に騒ぎ立てる血流と体温の上昇は止まらず。
止むに止まれず、ソフィレーナは俯いた。
赤い顔の口の中で、そっと言葉を掻き消す。
これは、天体観測のただしいやりかた。
それだけ。
「……………それだけよ。」
***
それからソフィレーナは星を見ている振りで、現実様々なことに思考を廻らせ自身の落ち着きのなさに呆れと理性をぶち込み続けた。
そして、その呆れと理性のストックがどの辺で切れたのか、ふと。
「ねえ、ケルッツア・ド・ディス・ファーン?
なんで…遺体の譲渡契約なんて……結んじゃったんですか?」
幾つか星が流れ落ちてから少し、そう聞いた。
自分の声が響いた途端、彼女はしまった、と身体を固くして急いで取り消そうと、あの、と背を向きかけたが。
「ああ……あれは僕も、少し早まったとは感じてるよ。
まあでも、異世界に行くための条件の一つだったから。飲まない訳にもいかなくてね」
ケルッツアは、何でもないことのように答えた。
夜の気配はいつの間に防寒用のコートに忍び込むと熱を奪ってゆく。ソフィレーナは、失敗したなと思いながら、幾度も暖気を逃がさないよう厚手のコートを引き上げていた、その手を止めた。
そんな背後の気配に気づいているだろうに、星の闇の中、ケルッツアは続けた。
ソフィレーナは、背中合わせの後ろからわずかに首を傾げる動作と、声の振動を感じとる。
「…この国の王の前でね……。というか、まあエルグ…エメラルグラーレン現国王は友達でもあるんだけど。
さすがに、あのときばかりは、略処理にはしてくれなかったなあ・・・・・・」
懐かしさに押されたか、ケルッツアの声はほぼ独り言のようだった。
「ああ、そうだ、エルグが怒ってたんだった……。
それに、奴はとても友達思いな奴だけど……まあ、王家だけの話じゃなかったから、仕方ないか。
ほんと、何が面白いのか、見世物になったような気分でサインさせられたよ。
……若返りなんて無茶をする代わり、生きて戻ったらこの国に一生を捧げることと、サンプルになることと…。色々。
実際自分でいうのもおかしいけれど、僕のこの呪いがかりの体は、僕自身、貴重なサンプルになるだろうとは、僕も思っている、し。
……君も、嫌いだと思うけど。
人体解剖組の強硬派の面々は、この体のどの部分を誰が解剖するかで密かに揉めているそうだ。
…まあ、この中に」
ケルッツアは、まるで他人事のように語り、最後、何やら動いた。
ソフィレーナが振り向くと、視界の中で、彼が自身の側頭部をつついているのが分かった。
ただ事実を述べるように、ケルッツアは続ける。
「どこまで知識が詰め込めるか。
最後に開いたら、僕のこれはどうなっているか。……そういうのに興味のある連中ばかりだから。
助かってることもあるな……。
猶予があるだけ、良心ってもの、ってね。
体だけで能力伴わないなら、即解剖台送りだからね。あの、僕が頼りにした話の、男のようにさ。
最も。
……考えることができない、できなくなるだなんて。
そんな思いをもう一度するくらいなら、今度こそ、潔く死んだ方がマシだ」
それは確かな慈悲だろう。ケルッツアはそう閉じた。
星空の下の会話に何とも似合わない事柄を淡々と話し終えたケルッツアに、ソフィレーナは、複雑なものを感じる。
ずいぶん、勝手なのね…?
少し腹立たしくなった彼女は、ふうん? と。やや乱暴に返した。なんだかむかむかするが、なぜかはわかるような、わからないような。
確かに、異世界から、きちんと記憶を持って帰ってきた人間、しかもマジナイ、が掛かっている体持ちなら、様々なことを知りたくなるだろう。ソフィレーナもそう思う。
別に、細胞が生きてさえいればいいのだから。彼という人間の人格が抹消される事態になっても――――バラバラにされて、培養液の中で、生かされた組織でもなんら問題はない。
どころか、下手に抵抗されない分、やりたい放題だ。
なんか……嫌だ、なあ・・・
このひとがいなくなるのは・・・嫌だ。
「じゃあ、脳も、体もサンプルなら……。
遺体としてのケルッツア・ド・ディス・ファーンって、残らないんですか……」
ソフィレーナが、むかむかの思うまま、気付けばそう聞いていた。
しばしの沈黙。
「いや、幾つになるかはしらないけど……研究所には残るんじゃない?
…解剖されて、培養液漬けか……。冷凍保存もあるかもだけど。」
ソフィレーナも納得の、至極真っ当といえる答えが返ってきた。
また、しばしの沈黙が訪れる。
ソフィレーナは、なぜか、むかむかをより大きくさせていた。
そうだけど。……そうじゃないのよ・・・
思うが、分からない。分からないから考える。
彼女は考えて、考え。
ケルッツアの顔をわずか伺い見る形、問いを切り出した。
「……………あの。
……私も申請すれば、髪とか、爪とか貰えます……?」
確認する彼女は、確かに一つ答えを抱いていた。
そんなことなど知る由無く、当のケルッツアは闇の中でも尚分かるほど、喜色満面。
「え!
…ソフィーレンス君もこのサンプルに興味があるの?
なら、髪ぐらいなら今」
格段に明るさを増した声質と、次いで右ポケット辺りを探る仕草を感じ取って、条件反射、ソフィレーナは有難い話ですが、と言葉を被せた。ついでのたまう。
「頂くなら、頭皮ごと頂きたいわ。現時点でいただける分ごっそり。」
途端、彼女の後ろの気配が、背合わせでも分かるほど落ち込んだ。
「それじゃあ今は無理だ……。僕が僕である限りは、頭皮は剥がれたくない・・・
因みに、僕のこの、マジナイ掛かりの頭皮でソフィーレンス君は何をするつもりなのかね?
頭髪育毛の研究にも、興味があったりするの?」
どこか拗ねたような声のケルッツアに、さあ、とソフィレーナはむかむかのままそっぽを向いた。
後ろの気配があまりに真剣に考えこんでいる様子なので、ひとつため息をつく。
「秘密です。言っておきますが。
カビちゃんのご飯にもしませんからね。妙に勘ぐるの止めていただけます?」
思いついてそうなことを先回りして潰すと、違うの? と。どこまでも純粋な子供の声が返ってきた。
ソフィレーナはなぜかはわからないが、なぜか。頭を抱えたくなった。彼の考えることだ。大方。
「マジナイ掛かりの組織だろ? 多分培養すれば、人体に強力に寄生するタイプの菌糸の開発も夢じゃない。餌にも困らないだろうに……」
考えるだろうなー、と思っていたことを口に出され、ソフィレーナはこれまたなぜか、今度は泣きたくなった。だいぶずいぶんな言い草だと思った。私にもちゃんと倫理あるんですけど! と情けなくなる。
「なんで私が、そんな殺人的なカビちゃんを生み出さなきゃならないんですか……!
ともかく、違いますから」
本当は、あなたの身体で今から取れる所は全部欲しいぐらいなのよ……!!!
人体解剖の実地なんてないけど……!
ほんとの、ほんとは・・・
ソフィレーナは、頭皮ごと欲しい、と言ったときとは違う感情が湧き上がってくるのを、自分の中の欲望を。内心持て余している。
倫理があると言った口で、胸の中、真剣で冷たく、しかし奇妙な熱を帯びた声が確かにある。
解剖だって。
ぜんぶ、私が。
心の声は、妙に抗いがたかった。ソフィレーナは、本当は、解剖だってやりたいとは思わない、とも思う。でももしどうしても必要だというなら、そのときは全て、自分が負いたいとも、思う。
冷たい灼熱のようだった。ソフィレーナは、己の本心がどこにあるのかなんなのか、分からない。
そんなソフィレーナの複雑な心など知らず、ケルッツアは彼女が思うに不服も不服そうに、教えてくれたって良いじゃないか、と相変わらず拗ねた調子で聞いてきた。
「まさか、何も考えてない、なんてことはないんだろ?」
「ええ、考えてるわ。だから秘密です」
ソフィレーナが、怒り半分悲しみ半分、にべもなく返すと。後ろの気配は思い切り動いた。ソフィーレンス君、と呼ばれた彼女が星明りの下、肩口に見たものは。
「………………」
「膨れっ面しても駄目です。」
「………・・・・・・・・」
「キュー、の字書くのもヤメテクダサイ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「睨んでもだーめー」
ケルッツアは、全て無言だった。圧も強めに不満を訴えている。
彼の実年齢を知っているなら一体何歳だ、と思うであろう拗ねた仕草をして、本当に気に入らないのだろう、彼は眉を歪めた。
ついで、悲しそうに下を向く。
「…いいじゃないか教えてくれたって……。
…僕が君を解剖するときは、ちゃんと教えるよ……?」
やはり何気なく語られた言葉に、今度ばかりはびくり、と大きく反応して、ソフィレーナは喉の奥、絡まって出てこない言葉から、一文字、掠れた音を洩らした。
「……・・・・・・・・・え?」
本当に今自分は座っているのか。いかんせんまつわりつく不思議な高揚感に見開かれた瞳の中では、理想を語るよう空を見上げた格好の、星闇の中でさえわかる、知性の目をしたケルッツアがいた。
ソフィレーナが恐れる。
焦がれる。
優しいバケモノの眸があった。
その目が、わたしに向けられたら?
彼女の視界の真ん中で、心底焦がれたように眦を細めて、バケモノは無邪気に言葉を紡ぎだす。
「何故見たものを忘れないでいられるのか、とか、主に頭の回線…情報量に関しての限界とか…
ああ、あくまでも自然死の場合だけだから。生きている間にどうこうはないよ…?
勿体無いし。
そんな顔をしなくても、もしそんなことが起こったら大丈夫。…全部僕一人でやるつもりだ。
他の連中には触らせない。……君は、不思議だもの」
幾度も恐怖し、そして焦がれ求めたはずの漆黒に染まった目は、やはり彼女の思う以上に優しく、しかし有無を言わせぬ底なしの知識欲を内にわだかまらせてソフィレーナを捕らえた。
どうして、この人の目にだけは、こんなにも・・・
痺れだす思考の片隅、ソフィレーナは漠然と認めた。
認めざるを得なかった。
ついで、サンプルとして、実験動物として、否、物として自分を見る目が、本来は確かに恐怖と嫌悪の対象でしかないはずなのに、とつい先日の記憶をほじくり返す。
先日、この国で解剖組と呼ばれる人体解剖専門機関の面々に会わざるを得なかった折。
向けられるその視線に我慢ができず、お手洗いで全て戻してしまったことは、耐えがたい屈辱としてソフィレーナの記憶の中で鮮やかだった。
いつか、いつか学会から締め出してやるッ!!!!!
お手洗いの鏡の前、顔面蒼白で憎悪に歪めた顔の恐ろしさは、彼女自身良く覚えていた。
のに。
「ソフィーレンス君? 」
知識欲をわだかまらせた両眼は、不思議そうに彼女を捉えて離さない。
ソフィレーナは、心の中で叫び、乱れる。なぜ、この人の目には、恐怖と同列、さらに強烈な快楽と恍惚をも感じてしまうのか。
抗えない。
ちがう。
抗いたく、なくなるの。
かつて、彼女がまだ学校に在学していたとき、臨時で雇われたモリウスという教師の言っていた言葉が彼女の内に蘇った。
『賢者は、恋人のようにサンプルと親しい……。心の底から研究対象を愛し、慈しむのだ…。
結果、彼らは心を開く…。であるから、これほどの研究結果が得られる……。
…羨ましいことだよ………』
思考が、巡った。
じゃあ、私もサンプルになったら、愛して貰えるのだろうか…?
慈しんで、大切に大切にされて……このひとに、いとおしんでもらえる……?
でも、それだけじゃ、いや。
私はあなたを。
あなたのひとみのおくをしりたい。
ぜんぶ……しりたい。
そのためなら、わたし。
空恐ろしい言葉も、思考も。覚えたものは容易と消えてくれなかった。
ソフィレーナは、今、バケモノの眸と、言葉と、自分自身の欲に囚われ、息すら上手くできないでいる。
辛うじて、一言。
「…………発見独り占め?」
「いや? 誰にも触らせたくないだけだよ?」
当たり前と言う顔で軽く首まで傾げているケルッツアに、現実、ソフィレーナは頭を抱えた。たとえブラックホールと同列に置かれているとしても、さすがに彼女は無反応ではいられない。
研究対象として、見られていても。
私は、一体、このひとに…どれだけ魅せられたら気がすむの……
涙の気配と同時、体中が沸騰しそうなほどの高揚と動揺。耳朶はかゆいほどの熱を持ち、耳の奥も、頚動脈も痛い。
息が上がらないようゆっくりと呼吸を吐き出しているせいか、体も、そしてなぜか心も苦しかった。
「そ、そんなこと、虎視眈々と狙ってたんですか……? …生憎、まーだまだ生きるつもりなんで。
・・・毒殺とか毒ガスとか、転落死とか自然死に見せかけてどうこうとか、止めてくださいよ?」
どもった口に叱咤をかけ、爆弾発言をしたバケモノを軽く睨んでみる。
バケモノは頬を膨らませた。
「そんなことしないってば…。ソフィーレンス君のいじわるっ」
頭に手を遣ってかきむしりたい気恥ずかしさと、いい得ぬ愉悦。全てにそっぽを向いて、ソフィレーナは膝をきつく抱え込み丸まると、上目づかいに星を眺めて逃げた。
「…なぁんとでもっ………星、流れないじゃないですか…」
彼女の丸まった背中にまた自分の背を寄りかからせ、ケルッツアもつられて天を見上げたようだった。
「否、小さなのは結構流れている…
最も今やっと十一時を切ったから…本番はこれからだね…」
疲れたら寝転がってもいい、と、ケルッツアは呟いたが、ソフィレーナの意識にその声は遠かった。
彼女からすれば、今まで起こっていたことの全てがあまりにも現実離れしていて、正直、明日の天気が心配だった。
槍、は言い過ぎだけど。
魚くらいは降るんじゃないかしら……
星の渦に沈む頭の片隅で、彼女は漠然とそう感じている。




