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ソフィーとケルズのあれこれ

 



 ソフィレーナ・ド・ダリルには四つのケチがつく。


一つ目。

ソフィレーナは、この国の建国神である女神の血を引くとされる唯一の皇家、ダリル家の落ちこぼれとして生まれてきた。


 輝くような栗色の髪は、文句の付け所なく美しい。

 国で唯一の女系であるダリル皇家の、当主と唯一の配偶者の子のみに現れる、特徴的な――――一等濃い紫水晶に、下から、ほんのわずかに栗色が窺えるような眸の虹彩も持っている。


 しかし、非の打ちどころなく美男美女揃いの血を引くにしては微妙にネックを抱える容姿と、丸く大きな一対の眸の、下から現れる栗色の淡いが香るように煙るようにあって見た目がよろしくないという判断で。


 ソフィレーナは、女神の血が極端に薄い存在として国から扱われてきた。


 この国を絶対的に治める国王の有難いお言葉と名誉。


――――この国に生まれた者はみな我が家臣なり――――


 ダリル家が国王の臣下の筆頭であるにも関わらず、このお言葉と名誉から外れている。




二つ目。

 一度見た物聞いた事はなんでも覚えて忘れない絶対記憶脳保持者。


 歴代の落ちこぼれ姫は、使用人たちからも同情や愛情は受けられたようだが、ソフィレーナは気味悪がられた。




三つ目。

 名前が、ソフィレーナ。


 ソフィー。ソフィスト。フィロソフィー。

 この国でもこれらは哲学を意味するが、不幸な事に、彼女の通った淑女学校の誰と言わず陰口が上手かった。


 ソフィレーナに配慮した家族は、せめてと身内での愛称を、ソフィーから、レーナ、に変えている。




 四つ目。

 趣向がカビ採取や菌糸胞子カビの研究。


 彼女はその名の由来の元、テュフィレ――――この国で英知を現す古い言葉――――に従ったように、淑女の道より、学者の道を選んだ。




 以上の理由で、十九歳で学校を卒業した彼女は、家の世話になるよりも働き口を探した。

 働きながら、二十五から受けられる学者用の試験を受けると決めたのだ。


(ダリル家の落ちこぼれでいたくない!)

(納税すれば、この国にお金を収めてるって、胸は張れるわ!!)

(カビちゃんの研究だって! もっとちゃんとやりたい!!!)


 彼女の強い意志に負けたか。両親は、本土から西に船で一時間離れた孤島を彼女の就職先として斡旋した。


 ウィークラッチ島に聳え立つ、巨大な石造りの塔、国立図書館。

 職員は皆なにがしかの学者を目指しているか学者であるか。

 利用者も所蔵される本の種類もそちらの方面にどっぷり浸かっている。



 その最上階に棲みつく、異世界に行って若返って帰ってきた、という無茶苦茶な経歴を持つ総館長、いいや。


 この国随一にして、他に類をない称号を与えられている者。

 ワイズレッテッティス――――栄光誉れ高き賢者。

 ケルッツア・ド・ディス・ファーン。


 この国の生まれでない褐色の肌を持つ、少年の補佐役。助手の仕事である。




 初顔合わせの日。国立図書館は最上階展望部屋。


大勢の大人(後で各館の館長達だと説明された)に囲まれた、十四に満たないだろう背格好の少年は、『ソフィレーナ』という名前に反応したか、戸口に佇んでいた彼女に振り向いて、見る間に灰色の三白眼を黒くした。


『ソフィー…? ソフィレーナというの?

 良い名だ…


 哲学という意味だね』


 伝承にある魔術師のような黒い服を引きずって足早に、真っ直ぐに近寄ってくる彼に、ソフィレーナは驚きと、経験した事のない強い強い鼓動の高鳴りと頬の熱さを覚えた。


(名前・・・褒められた・・・・・・)


 彼女が唯一褒められていた自身の長い栗色の髪を、図書館勤めには必要ない、とばっさりと切り落としたのは正にこの夜。


(家族以外で・・・・・・

 名前、褒められたの・・・・・・はじめて)



 これが、ソフィレーナの(友達からはそれで!? と言われた)運命の出会い。

 ソフィレーナはその日から、光り輝く栗色の髪をずっと短髪にしている。

 部分によっては切り込み刈り込んだ髪型を維持している。




 そして、出会いからもうすぐ三年。





 白く塗られた馬鹿デカい鉄の扉をやっとの思いで閉めて、彼女はそのまましばらくその扉に寄りかかった。両肩をせわしなく上下させ、息を整えるよう荒く深呼吸を繰り返す。


 ぜい、ぜい、という気管から漏れる嫌な音は、しかし彼女の入った国立図書館の最上階、禁書庫の薄暗い空間に大して響きはしない。


「…ァ…」


 何事か呟こうと動かされた口はろくだ音を発する事無く。

 しかし、彼女はやけに据わった目で滴り落ちる汗もそのままに、前方の本棚の奥に覗く、巨大すぎて白い光しか感じ取れない窓辺りへと向かって、声を張り上げた。


「ケルッツア!

 ケルッツア・ド・ディス・ファーン!?

 ケルっ、

 ツ

 ア・ド

 ディ

 ファーン!」


 呼吸の乱れで切れ切れに、がなったにしては不思議と奇麗な声が乱暴に辺りに響き渡った。まるで名簿のような呼び方で、彼女は続ける。


「何処にいるんですかケルッツア・ド・ディス・ファーン!!! 

 ここにいるのは、分かってるんですよ!?  

 聞こえているなら…」


 白く塗られた馬鹿でかい鉄の扉の真ん前で、ずらりと果てなく立ち並ぶ本棚を前に。



 可愛らしい声で怒鳴り散らす彼女に、黒いコートの裾を引き摺りながら近づく者がある。

 それは、彼女の向いている方向の丁度真後ろから、彼女の着ている茶色のベストの裾を、くい、と。軽く引いた。


 「……下階に聞こえるよ? ソフィーレンス君」


 ソフィレーナが、ぐりん、とベストの引かれた方向に首を転じれば。

 そこにはソフィレーナより少しだけ背の高い、黒いコートを着込んだよわい十四の背格好の、灰色の短髪と褐色の肌を有した少年が佇んでいた。


 おっとりと、しかし賢そうな眼差しで彼女を見ている。


 「ケルッ」


 そのお目当ての人物に、思わずソフィレーナは声を詰らせた。


 彼女の目の前、褐色の肌に灰色の髪と涼し気な三白眼は少し見開かれ、筋は通っているがひしゃげた鼻が、なに、と言わんばかり。ゆっくりと傾いでいく。


 彼女はそれに、なに? じゃない! 等と内心思いつつも。


「私はソフィレーナです! ケルッツア・ド・ディス・ファーン!!

 ッお昼ですよ! とっとと食堂に…」


 行きますよ!!! ソフィレーナはそう続けたかったが、食堂に、の辺りで目の前の少年は考え込むように、ゆっくりと禁書庫の天井を見上げた。


 彼は、ふうむ、と。ひとつ唸ると、これまたゆっくりとソフィレーナと顔を合わせる。


「まだ、腹の虫が喚かないから、なあ……。

 折角で悪いけど、ソフィーレンス君。僕は、昼食を、摂らない事にするよ。

 それより、出しっぱなしにしてあった、本を。

 そろそろ、片付けなくちゃあ……。

 君も、前に言ってたじゃないか。さて、どのぐらいあったか・・・?」


 そんな事を、ソフィレーナの心情からすればいけしゃしゃあと言い放ち、既に目の前から禁書庫の奥へと移動しかけている男に。


 毎回、毎回だけど、と。彼女は痛みを覚え始めた頭に両手をやり、勝手に想起される約三年分の苦悩の記憶が鬱陶しいと首を振って。


 搾り出すように、こう答えた。


「腹の虫っ……て・・・・。

 おなかすいたら、食べるって・・・いつも、いつも言うから!!

 じゃあって信じて放っておいた結果が!!!



 っこの!!! 四日間もの飲まず食わずなんじゃないですか!!!!!」




***




 国立図書館職員、十五時の休み時間の事である。


「なんと言うか、よくもつわねぇソフィレーナ」


 はい、と。給仕室の机にだらしなく突っ伏したソフィレーナの近くに、カップが置かれた。


 彼女が無言で顔を上げると、そこには金髪を片側でお団子にし端を垂らしたつり目美人、同期のレティシアが、呆れたように、しかし緑の眸にどこか心配の色を滲ませて机に腰掛け、彼女を見下ろしている。


「……」


 ソフィレーナが、無言のままカップを引き寄せ机にあごを付けた状態で中身に口を付けようとすると、こら、とその人物は彼女からカップを取り上げ。


「お姫さまお姫さま? まあまあ礼儀を習わなかったのかしらね。

 ダリル家の美しい姫君?」


 カップの中のココアを零さないように掲げながら、小鳥のさえずりの様に高く澄んだ声で、今夜王都で盛大に演じられるオペラ『ダリル姫』の中の、召使の歌を謡い始めた。


「! それ厭!」


 その歌にソフィレーナは酷く眉を寄せて飛び起き、やめてよぅ、と、気弱に抗議の声を寄せる。


「それはウチのママに当てた歌。私は美しくなんかありませんよーっだ」


 返してもらったカップに口をつけ、レティシアのいじわるぅ、とごねて又背を丸めたソフィレーナに、まあシスターだった時のあんたのお母様に比べりゃアンタは落ちるけどね! 、とレティシアは鼻で笑う。


「あったり前でしょー。」


 しかし、何故か威張った調子で返された返事にも覇気は無い。


 いつもならばもっと豪快に減っていくはずのココアの量。

 その様子にレティシアは、はじめこそ今夜の事に浮かれてオペラ口調で振舞っていたが、ソフィレーナがその冗談にも乗ってこないので本気で心配し始めた。


「……つかさ、本当にソフィー元気ないわね? …大丈夫?」


 芝居がかった動作のまま目を覗き込んでくるレティシアに、ソフィレーナは放心したかのように、ぼう、と空を見つめながらココアを舐めるのみ。


「レティー……今日は…今日はねぇ……。ほんとうに、本当にきつかったのよ…………。


 要請があったから一階の書庫整理手伝ってたらお昼になって……その足で…あれ、ドクター・? ……プロフェッサー・? 



 ………何でもいいけど、あの最上階に棲み付いてらっしゃる……名声高き、あんのケルッツア・ド・ディス・ファーンサ・マッ! を小脇に抱えて、地下の食堂まで連れて行って……一時間かけて、ご飯食べさせて・・・・・・。



…またあの天辺…展望部屋に戻して…。


 一階の書庫整理の残りを終わらせてきたの。


 ふふ、言葉で言うのは簡単だわ……そうよね。簡単な事だったのよね…。

 じゃあ私、どうしてこんなに疲れてるのかしら………」


 レティシアは、ソフィレーナの台詞を聞いて、何によらん、整った顔立ちの片頬をぴくりとさせた。


 ソフィレーナは、今にもその口につけたカップの端からココアが零れ出そうな虚ろさで笑っている。


「…あのッ……テェレル・ド・イグラーン第二図書館長様は…ま・た!!

 一年分の書庫整理を言いつけて下さるし。」


 テェレル。その言葉にレティシアの緑色の目が座った。あんのズボラ豚めと毒づいた彼女には直属上司への親愛が欠片も見られない。

 そんな友達の横で、ソフィレーナは続ける。


「まぁそれは良いのよ…。」

(は?)


 レティシアは大きく目を見開いてソフィレーナを見た。

 去年も一昨年も、のーんびりとした声で、やってなかったーごめーん、と言ったテェレル。あの第二図書館長の何を許せるのか。レティシアには分からない。


 ソフィレーナは、そんな友達の様子も知らず、殊更重くため息をつく。


「……でも。でも、でも!!!

 ねぇレティー……あのくそぼけどアホケルッツ」


 思わず口を滑らせたか、ごほん、とカップを口から離して声の調子を整え。


「……もとい、あのひとったら、また四日間も飲まず食わずだったのよ?!

 お腹すいたら食べるっていつもいつも言ってたから!!!

 じゃあって、信じたら、四日よ!?!?


 どうして不調が出てても気づかないの!? あのひと?!?!


 ちょっとミスしてる計算書とか見る度に!!!! こっちは心臓が止まりそうになるのに!!! 動揺隠して必死で直すのに!!!!!


 もしかしたら解剖されちゃうかもしれないって気が気じゃないのに!!!

 変な論文出したら身が危ないって、本当に分かってるのかしら!?!?」


 ソフィレーナが焦がれている相手は、月一で国に論文提出が義務。その内容で頭の度合いを図られて、生存価値の精査をされる。

 そのことはレティシアも知っている。

 ソフィレーナは、いまや涙交じり。まるでオペラの虐げられている令嬢宜しくカップを抱きしめて悲嘆に暮れている。


 知っているうえでレティシアは、別にいーんじゃない? あんたの目も覚めて。と心の底から思った。


 しかし、目の前でさめざめ悲しんでいる、盲目な恋に両足突っ込んでるオヒメサマからしたら、自分の仕事量の増加と負担と場合によっては体調不良より、恋のお相手の体調と生存の方が重要のようだった。


(ほっときゃいいのに。この子ったら……)





 本日の昼休憩も終わりに目撃した光景が、レティシアの眼窩、悲しげなソフィレーナの姿と重なって、回想として流れ過ぎて行く。


『そ、ソフィーレンス君……! 無理強いという言葉を…』

『うるっさいですよケルッツア・ド・ディス・ファーン!!!

 あなたもう四日も飲まず食わずなんですからね!?!?』


『いや……。だって面倒臭い』

『知りません!!!! ちょっと痛い目見て貰います!!!!!

 さあッ! 死にたくなかったら大人しく口閉じる!!!!!』


 たまたま、業務者専用の石階段の隅で休んでいたレティシアは、上から突如降ってきたやけに上ずった子供の声と、どすの利いた女の声のやり取りに、ああ、と。踵で石畳を数度蹴ってから、壁際に移動した。


 途端、物凄い速さでどたばたと階段を駆け下りる音が近づいてくる。


 そして、鬼のような形相の友達と、その小脇に抱えられ、振り落とされないように彼女のベストに死にそうな顔でしがみ付く、この国随一の知恵者を見送った。


(ついに、実力行使に出たのね。ソフィー)


 折しもレティシアは、丁度四日ほど前、恋焦がれる相手が不摂生を止めてくれない、心配。そんなようなことをソフィレーナに言われた。


『次に、似たような事したら。もうね。

 ちょっと強引に食堂に連れて行って不摂生した日数分のご飯、一回で食べさせようかと思っているの。


 その位しないと、あのひと、分かってくれないんじゃないか

 って、考え過ぎかしらね?』


 その時は少し茶化して言っていたが本気だったようだ。レティシアは思う。


 四日ほど前も、確かそいつが何日だか飲まず食わずだった為、じゃあ、と二人分の夕飯を、食堂から最上階に甲斐甲斐しくも運んでいる最中だったことも思い出した。


 それで、本日のお昼の暴挙である。


 レティシアはその暴挙の様子を、自身は目撃してこそいないものの、同僚から聞いている。


 暴挙後、そいつを負ぶって最上階に連れて行くソフィレーナの姿も。




「これで懲りてくれれば、いいんだけど・・・」


 疲れた哀しげな吐息と共に落とされたソフィレーナの声に、レティシアはやっと現実に帰ってきた。


 レティシアは今、無性に踵で石畳の床を蹴りたいと思った。踵で意味なく宙を蹴る。言ったって無駄だと分かっているが、それでも言わずにいられない。


「…ねえ、ソフィー? いい加減、あんな奴見放したら?」


 落とした言葉で石造りの休憩所の空気が変わったことに、やっぱりね、とため息をついた。


 ソフィレーナはといえば。

 持っていたカップをぐっと掴み、残りのココアを一気に流し込むと、愚痴聞いてくれてありがと、と。レティシアに笑いかけつつ、席を立った。


「泣き言言ったら元気出たわ! ココアも美味しかったし!

 仕事頑張りましょ!!!」


 そういって足早に休憩所の給仕スペースへと進んでいく友達に、苦い苦い思いを禁じえない。


(あんたの献身に、あのケンジャサマは応えてくれてる?)

(あんた、何も報われてないかもしれないのよ?)


 痛い目見ないうちに、目を覚ましなさいよ。

 レティシアは、その言葉もなんとか飲みこんで、しばらくソフィレーナがカップを片付ける様子を見つめていたが、軽く肩をすくめた。


(ま、突っ込み過ぎか。……話題変えましょ)


「ソフィー、今日は帰るの?」


 軽く伸びをして気分転換にと掛けた言葉に、ううん、とソフィレーナは、レティシアから見たら嬉しそうに、首を横に振って答える。


「今日も星の観測会。

 当分帰れそうも無いから、もうお泊りセット持ってきちゃってるのよ」


(星の観測って、またアイツの研究の手伝いじゃない!!!)

(アイツ!!! 

 この子に朝から各館の手伝い行かせてるけど、仮眠とかちゃんとさせてんの!?!?)


(ホントに、この子大丈夫かしら……)


 レティシアは、苦虫を噛み潰したような顔をなんとか上品に整えるので精いっぱい。そのまま、気合と共に給仕室を出て行くソフィレーナの小さな背を、心配そうに見ている。




***




 ケルッツアのお気に入りの銀の懐中時計をして、時刻は十四時四十五分。


 国立図書館最上階。ずらりと本棚が立ち並ぶ禁書庫の中ほど。

 積読してある書籍の塔を足元に大量に従え、ケルッツアは見上げても詮無い高さにある、本棚の隙間を見ていた。


 今は横に持って来てある彼専用の三脚を使っても、届かない位置を定位置とする大量の積読の塔は、ここ二カ月で彼が用いた論文の参考資料の山。


 片付ける段になって、あ、僕の背丈も助手君の背丈も足りない、と気付いたのである。


「さて、どうしようかな」


 独り言をつぶやき、もう一つ、今抱えている小さな三脚を見やる。

 二重三脚――――大きな八メートル大の三脚の頂点で、小さな五十センチ程の三脚に乗って作業をすれば片付けられない事はない。


(でも、ちょっと今は体が重すぎる。無理だな・・・)

(……この間、ソフィーレンス君が渋い顔してたんだよなあ……)


 彼女が重ね三脚をしようと思う前に片付けなくては、と漠然と焦っていた。なぜなら落下したら危ないからだと、つらつらと考える。


(絶対的な脳が失われてしまう可能性は排除しないと)

(怪我したら業務に支障が出るかもしれない)

(辛いだろう)


(最悪死んでしまったら?)

(いけない目も当てられない。大きな損失だ)


 誰にとっての何の損失なのかは曖昧に、うん、と一人納得。胃の痛みやら吐き気やらでもはや倦怠感の塊と化しているケルッツアは、意外に、機嫌はそれほど悪くなかった。




 ケルッツアはぼんやり回想する。

 去年の何時の頃からか、一日、二日も経てば助手が最上階に昼食や夕食を届けてくれるようになった。一緒に食べる事もあったし、一人で食べる事もあった。


 ケルッツアとしては、助かる反面、こう頻繁だと助手君も大変だな、と。確かにそう思ったのだ。


『ソフィーレンス君。そんなに頻繁に持ってこなくてもいい。

 ……僕だって、おなかすいたら適当に食べるくらいはする』


 だから、いつからかそんな事を何度か言うようになった。


『信用してないの?

 ソフィーレンス君のいじわる。』


 とも、もしかしたら付け加えたかもしれない。




 本日の昼食前、石畳階段で振り回されて助手のベストの腰辺りにしがみ付き、細いな、折れないかなと思った事と一緒に、ぽいっと、思い出した。


 確か夕飯。確か、四日前のことだった。


『うーん、あなたのご意見、これで十回を超えたから…。

 じゃあ、あなたを信用して。……暫く放っておくことにします。

 お望みが叶って嬉しいでしょう? ドクター?』


 向かい合って食べる助手が、そんな事をちょっと意地悪く作ったような笑顔で言った。

 急に食べていた物が美味しくなくなった、のと、面白くない、と思った。




と。本当にぽいっと。本日昼間、助手と一緒に螺旋の石畳階段の重力に何度目か振られて思い出したのだ。





(まあ、自分で言ったツケなら、仕方ないか)


 連れ出された石造りの職員専用の地下食堂片隅、そのことを思い出した後のケルッツアは、助手の手痛い仕打を概ね受け入れる気持ちだった。

 テーブルの向かいに席を取ってにこにこしている助手に。


(ねえソフィーレンス君。

 四日分一気に摂るより、別けて摂った方が明らかに効率的じゃないかね?)


 とは、最後まで言わなかった。それは彼の彼によるケジメ。

 とはいえ、料理の選択権は欲しかった、と今でも思っている。




 彼の記憶を辿ること、一時間と四十五分前。

 ソフィレーナの、満面の笑みを真正面に。


 ケルッツアの前には、大皿に積み上げられたナポリタンパスタの塔と、銀のボールいっぱいの添え付けサラダの山。同じくボールに盛られたコンソメスープの黄色い湖が鎮座していた。


 ソフィレーナは遥かに少ない量の同じ献立を食べながら、料理に手を付けないケルッツアを、疑問の顔で見ている。


『どうなさいました、プロフェッサー? 貴方の怠った四日間分の料理です。

 遠慮せずに、どうぞ胃に収めて下さいな』


 客は時間帯が大幅にずれた為か、二人の他に見つける事は出来ない。


 目の前の料理が何人前になるのか、助手が、お願いします、と厨房の奥に告げて出てきたのがこれなので、ケルッツアに正確な所は分からなかった。

 ので、一応確認した。


『ソフィーレンス君。

 僕が……元々三食は摂らない主義…なのは……』

『勿論存じてますよ二食で計八食分です。 何か問題ございますか? プロフェッサー?』


 彼の助手は、口元ばかり笑みを張り付かせてそう言い切ると、自分のサラダの中のプチトマトに、ぶち、とフォークを突き刺した。


『うん……。十二食でなくて良かったよ。

 でも、ちょっと……。砂漠の夫婦神も、引いていそうだな、と』


 人間は果たして八食分を一気に取ることが出来るのだろうか? 但し、胃下垂を含めないものとする。ケルッツアは考えて暫しの現実逃避を図った。


 向かいのソフィレーナは、サラダをもう少し食べて、すました顔で続けた。


『貴方の大切な神様達は分かりませんけど。

 でも、どんな神様も食を疎かにすると、御怒りになるのではないですか?』


 ソフィレーナはその後黙々とナポリタンパスタを平らげた。


 ケルッツアの目の前の料理が冷めてゆく。麺もくっつく。スープにオレンジ色の油が浮き始めた。


 しかしケルッツアはやはり、赤い塔と緑の山と黄色の湖に、砂漠の守護神への祈りを捧げる気に。


『プロフェッサー・ワイズ? 「はい、あーん」をしてでも食べさせますからね。最後まで』


 ケルッツアの躊躇している様子にだろう、助手の、特徴的な光彩の眸がすい、っと細められた。おまけに、単なるプロフェッサー、から、賢者の称号まで付けて呼びはじめる。


(これは・・・・・・本気だ)


 ケルッツアは、観念した。

 重い息を吐き出し、目の前の料理と眼前の助手に、降参、と目を閉じた。


『…分かった。

 一つ宜しいかね……『図書館勤めのダリル姫』』


 常日頃学者にしては穏健である知恵者の口から、『ダリル姫』という、今夜の演目の美姫に掛けた、ささやかな皮肉が紡がれる。


『……窺いましょう? 栄光と誉れも高き、偉大なるプロフェッサー・ワイズ?』


 同じく、その助手からも、大げさな褒め文句とプロフェッサー呼びに称号を被せた皮肉が返ってきた。


『僕の料理の選択権は…』

『好物でしたでしょう? この組み合わせ』


『…否、僕はだねソフィーレンス君、好きは好きでもトマト味に香草を効かせた鳥の煮込みが』

『ナポリタンパスタもトマト味ですわね? プロフェッサー・ワイズ? 

 香辛料もお好きにかけてお召し上がりくださいませ?』


 ソフィレーナは、流れる様にのたまうと、これまた流れる様に自分の食器を片付け、一人分のコーヒーを片手にケルッツアの隣に座りなおす。


 「はい、あーん」も、冗談ではないんだな、とケルッツアは悟った。


(まあ……ゆっくり食べよ)


 心の中で決意すると、おもむろにナポリタンパスタの細いピーマンを横に除け始める。


『…………ピーマン除けない』


 狙った通り助手が元に戻したので、今度は半月型の半透明な玉ねぎを除ける事にした。


『……タマネギ避けない』


 こちらもすぐさま助手が戻したので、極めつけ。


『膨れっ面もしないッ!

 あなた、一体何歳ですかッ!!!』


(君より沢山生きてるけど、それはあんまり関係ない)


 等と内心思いながら。


 ケルッツアは、見た目には渋々、内心はそうでもなく彼の故郷の夫婦神に祈りを捧げた後、サラダとパスタとスープを順に食べ始めた。


 ほぼ固形物にして重いナポリタンスパゲッティが残り三分の一で入らなくなったので、少し休んでから、スープと一緒にサラダを消化する。


 休憩をして、また少し食べてパスタも時々つまんで御手洗い休憩。

 パスタは、三分の一の更に半分まで減らした。

 スープは平らげた。

 そこで限界だった。


『も、もう勘弁という訳に、行かないかね』


 ケルッツアは口先だけは聞いてみる。


『休憩ですね? どうぞ好きなだけお時間お取りください?』


 ソフィレーナはまだにこにこと、笑みを張りつけて優雅に応え返した。彼女の食後のコーヒーはほとんど手を付けられていない上、顔色も悪い。

 内心余裕がないのが誰にだって分かるな、とケルッツアは思った


『ソフィーレンス君の、いじわる』


 それでも助手は意地を通すのだと。この頃口にする事が多くなった台詞を返しながら彼は知っている。


(ソフィーレンス君は、そういう女性だ)


『なんとでも。

 次手が止まったら、「はい、あーん」ですからね?』


 そして今度こそ手が動かないので、助手の宣言通り「はい、あーん」で残りを食べた。


 どうしてもどうにも入らなかったサラダはといえば、見るに見かねた食堂の女将、ライディアズの提案でドリンクになった。


 スープ八食、スパゲッティ八食分を収めた胃で、そのドリンクを舐めるように消化した結果、食事に掛かった時間は一時間と十五分。


『済まない…。歩けない。タンカを・・・』

『何言ってんですか。皆来年の仮定図書目録作ったり、入れ替え書籍の整理で忙しいんです。

 私がおぶりますから、はい、乗ってください』


 膨れたお腹が苦しく、もはや椅子に凭れてなんとか吐き気を宥めていたケルッツアの横に、ソフィレーナは背を向けてしゃがみこんだ。


(うん・・・まあ、いいか・・・)


 細いし柔そうなのに意外と潰れないのは、不思議なものだ。何度かむけられた事のある背中に、毎度思う事をまた思いつつ、ケルッツアはどっこらせ、と彼女におぶさった。

 ソフィレーナは、見た目とは裏腹に危なげなく立ち上がり、一度ケルッツアをおぶりなおす。


『おなか、大丈夫ですか? この姿勢、おなか圧迫してません?

 なるべく、ゆっくり進みますからね?』



 石造りの地下食堂を出る時、ソフィレーナに肩越しにそう声をかけられたと、この辺から、彼の記憶が少し曖昧になってくる為、確か頷いたような? と、ケルッツアは思った。


 そして、馬鹿に長く大きな石柱に巻きつく石畳の職員専用階段を、ゆっくりと登っていった。


 どれだけ螺旋を回ったか。

 ソフィレーナが独り言のように、少し悲しげにケルッツアに語り掛けた言葉だけは、ケルッツアは、意外とはっきり覚えていた。


『今回は・・・かなり手ひどい事をしましたけど……。

 この位しなくちゃ、ケルッツア・ド・ディス・ファーンは、骨身に沁みては、判って下さらないでしょう…?


 月に一回出してる、論文に…………ミスがあったら、命に関わるんです。

 もう少し、ご自分に頓着、してくださいな・・・。


 毎日、食事しろっては、言いません。…けど。

 けど、あなたの限界は、三日……六食抜きぐらいって、もう断言するわ。


 一昨日までなら、星の演算も、ちゃんと紙の上でも成せてました。

 けど……それを超えると…………危ない、んです。そう思って下さい。』


 かつん、こつん。迷いない静かな足取りで、ソフィレーナはゆっくりと石畳の階段を上っていく。

 ケルッツアは、薄い肩越しに聞く柔らかなで染みるような声を、言葉を、ゆっくりと聴いて、理解した後、苦しい息をおして聞いてみた。


『・・・きのうの、計算式は、どれだけ、狂ってた・・・・・・?』

『軌道の計算式、五つつ書いてたでしょう?最後の式で、簡単な数字ミスが十個。

 それに段違いで計算している箇所が二つ。です。

 答えの桁が他の四つと明らかに違うのに、あなた、気付いてなくて

 ……焦りましたよ』


 応えられた内容の酷さに、ケルッツアはから笑い。そんな論拠と論文を出したら、狂ったと思われて即解剖台行だろう、と。苦めに笑った。


 助手の声は、もう少しだけ、続いた。


『私が気付いた時には、もうあなた、爆睡してて。

 急いで直し終えたら、図書館業務の時間になってしまって……。


 本当…………っもう少し、自分を大切に、しないと駄目ですよ!!!』


 やたらとぼう、としていた時間が長かったり、酷く動きたくなかったりという、心当たりはある。

 そして、最上階禁書隣の展望部屋のお気に入りのソファーに、毛布を掛けられて寝かされていた彼の記憶は、冒頭の本棚整理へと繋がってゆく。

 不摂生は限度三日、そんな事を頭の隅で考えていると、ふと、重い鉄の扉が開けられる音が彼の耳に届いた。

 広く薄暗い国立図書館最上階のほこりを吸った絨毯に、ゆったりとした歩調が僅か交じり、微かに、呼称を呼ぶ声がする。その声に、ケルッツアは意外そうに目を丸くして、声のした方へと歩き弾ける様に笑った。


「…やあ…グラン…! 久しぶりだなぁ!」





***






 高い三脚の天辺に脚をかけた、壮年にやや近付いた大柄な男は、困ったように下を見、今にも泣きそうな声で自身の友人へと抗議を申し立てていた。


 当のケルッツアはといえば、友人の、この鬼! と言わんばかりの情け無い顔と手だけは何とか動かし本棚へと本を納めていく涙ぐましい姿を見上げて、心底申し訳なさそうに頭を掻きつつも指示の手を休めない。


「すまんなぁ…僕もソフィーレンス君もそこは手が届かなくて……。

 あ、そこ、それは三つ目だ。先に『精神構造の』そう。それを、うん。

 それで……」


 下で両手を合わせつつも指示を出すケルッツアに、彼の友人、グルラドルン文化庁長官は震える足元を踏ん張り、おっかなびっくりの中腰でどもった声を下にかける。


「き、君は何で三脚新調しないんだ!? 手が届かないって三脚の意味無いじゃん!! 

 第一このテキスト全部出すときどーしたの!!!!」 


 天井近く、九メートル程の高さで必死に喚きつつも指示された本を棚に納めてゆくグルラドルンの涙ぐましい姿を首を痛くしながら見上げ、その時は第三図書館長が居た、とケルッツアは苦笑した。


「で、奴、マルスは……今は、ロウドンナ諸島に調査旅行中だから呼び出すに呼び出せなくて……。

 奴程高い背はほら、この図書館にはいないだろ? 


 グラン、本当に狙ったようなタイミングで来るから……つい。」


 グラン、と愛称で呼ばれたグルラドルンは、口調が学生時代に戻っているケルッツアの返答を耳の端っこで聞きつつ、つい。じゃない! と怒鳴り返した。

 それでも次々と棚の中へ本を押し込んでゆく。


「だいたい! だいたいだケルズ!! 

 なんで! な・ん・で! 若返る前の身長に合わせた三脚をまだ使ってる!?!? おかしいだろ!!?!? 効率わるすぎだ!!!! 」


 ぼくまちがってる?!!? 涙声の壮年近い男性――――グルラドルンの、振り乱した白髪交じりの赤毛を罪悪感に苛まれつつも見、ケルッツアは、やはり指示を止めなかった。


 流石に申し訳ないかと、交換条件を出しつつも。


「ほんとうにすまん! 

 あー…………。

 今度……今度天球儀と……秘蔵のネガをやるから……な?」


 グルラドルンは、苦渋の選択で微笑んだケルッツアの顔を、霞む目元で見やって反論を返す。


「今度っていつだよ!!! 今だ!!!

 あと現物のがいい!!! どーせキレイな状態で額に入れてあるんだろ!?!? 

 写真も五枚ぐらいよこせ!!!!!」


 沢山持ってるだろ!? 言葉の乱暴さに比例するかのように、涙の気配が色濃く反映されていった。


 作業をやり終え、ほうほうのていで三脚から下りてきたグルラドルンは、しばらく三脚の端にへたりこんでいた。

 ケルッツアが、天球儀と額入りの写真を抱えて佇んでいるのに気づくと、げっそりと、一言。


「…ぜったい、つぎはさんきゃくしんちょう……たのむ・・・・・・とおす

 とおすから・・・・・・うえ……しんせい……たのむ……」


 ケルッツアは、ひとしれずため息をつく。

 目の前のグルラドルンの姿と、愛称マルス、マーロルサース第三図書館長の嬉々とした笑みとを重ね合わせつつ、同じ位置に上った友人二人の、全く正反対な反応と、今持っている写真五冊を見、反省とともに頭を掻いた。



 それから五分後の事。


 グルラドルンは、暫くは魂の抜けたような顔でだらしなくも床の絨毯に手足を投げ出していたが、ケルッツアの持ってきた写真の納まった五つの額を見て魂を取り戻したのだろう、がばり、と起き上がり、さっきの様子とは打って変わって浮かれ調子に額を抱き締め頬擦りしていた。


 ケルッツアは反対に、浮かない顔で天球儀を回している。


 生き生きとした声と沈んだ声はどんな奇遇か全く同じ言葉を紡ぎ出し、見事なはもりが生まれた。


「メラーノ彗星にトロナ流星群。トールの皆既日食とテラー星、ソレツナ恒星の赤色巨星……飛び切りのセレクトだ…」


 文句はなかろう、と拗ね気味に聞くケルッツアに、勿論! とグルラドルンは答えた。


 ケルッツアは、どうにか辞退してもらう事の出来た天球儀を抱き締めながら、駄目押しのようにグルラドルンに念を押す。



「メラーノは百年に一度! トロナは六十三年周期……テラーなんて次何時見えるか……。

 トールは問題外で?」


「ソレツナはもう確認できず。常識だよケルズ! 墓の中まで持っていくとも!!」



 グルラドルンの申し分ない返答に同意の意志を投げやりに贈って、ケルッツアはもう笑っている。


 それを見たグルラドルンはやっと友人を訪ねた当初の目的、今夜一夜限り公演のオペラッタへの出席の有無をケルッツアに尋ねるに至った。


 ケルッツアの返答はにべもない。


「折角だが遠慮しておく。

 ……やりたい事もあるし。何より、僕はそういうものが苦手だという事は知っているだろう? 確かに凄い話だとは……」


 グルラドルンは、何やらごねて複雑な顔をする友人の反応をうろんな目で見ていたが、ホンモノには敵わない?と、目元ににんまりとした孤を描く。


「ホンモノにあった事あるんだもんねーケルズ。

 確かマリアーナ様シスター時代で? ロザリオ掛けてもらったんだったっけ」


 笑いを含んだ調子で問いかける声に、異世界に行く前にね、と、しかしケルッツアは至って冷静に答え返した。


「流民出の学者風情に良く皇家の姫君が出てきてくれたものだと思ったよ。

 教会での当番とはいえ、真摯に安否を気遣って加護を授けてくれた。

 背が届かなかったから彼女の前に膝をついてかがんだけれど」


 天からの使いのようだった。


 言葉とは裏腹に頬も耳の一つも染めず、淡々と、まるで暗記した数式を口に出すような声で語るケルッツアの調子に。


 グルラドルンは小さく朴念仁、と毒づき、何やら思案気に、その、遥かな記憶よりも縮んでしまった、今だ見慣れぬ背中を見上げる。


「……そのテンシサマに貰ったロザリオ、異世界に置いてくる? 

 ……ちんこい双子の魔術師君たちにあげちゃったんだっけ? あり、えないくらいの朴念仁

 ……その点」


 白々しい声音の友人に悪寒でも感じたか、ここでやっと知恵者の顔が何だか嫌そうに歪んだ。


「……グラン?」


 グルラドルンは、嫌そうな顔のまま振り向いた嘗ての学友の姿を目の端で捉え、悦に入った調子で、にたり、と狐のように笑う。


「やっぱ人間、四十にもなると色々変わるんだ。


 その姿でお得なのって、犯罪に見えない事だよね?」



 グルラドルンは、昼の白い光が差し込む青く毛足の長い絨毯に座り込み、逆光でも十分苦い顔をしていると分かるケルッツアに、楽しげに言葉を続けていく。


「凄―い猫ッ可愛がりしてるって評判だよ? かれこれ三年だっけ?」


 犯罪、と言う言葉にしばし固まっていたケルッツアは、やっと質問の意図を読み取って、目を見開き、その顔のまま反論を返した。


「否、ソフィーレンス君は本当に優秀だ。

 計算も速い、一度見た物は忘れない、頭の回転も速いし機転も利く、粘り強い。

 ……僕は彼女の学者としての素質を買っているだけであって」


 ケルッツアは、何を必死になっているのか、自身でも分からないまま早口で続けたが。


 彼にかかったグルラドルンの声は、多分な胡乱さと、揶揄を含んで楽しげだった。


「へぇえ?

 なんかさぁ、焦ってない?

 ……ごめんケルズ。それ全部言い訳にしかきこえない。


 能力ったって、初っ端のあれは関係ないよなぁ……。

 …確か初顔合わせの時だったよねぇ?」


 五つの額を後生大事に抱え込みその額に顎を乗せたグルラドルンは、含みのある顔でケルッツアを見る。

 ケルッツアは、知れず目をそらした。


「話がみえない……」


 思ったよりもごねた響きに自身でも驚いたか、言った途端口元に手をあて、そのまま横手を苦々しく眇め見ている。


 その反応に益々気をよくしたグルラドルンは、うそぶくように、先ほどまでは背伸びをすれば直ぐに届いただろう広くでかい天井を眺め、心底楽しそうに笑った。



「話題になったってハナシ。シルドの事もびっくりしたけど。あの時もびっくりしたんだって。



 …『ソフィー? ソフィレーナというの?』」



 そして件の台詞を、学友だった時はもう少し低かったケルッツアの今の少年の声を真似て、なぞってみる。

 途端友人の背が益々縮んだ。


「あれは純粋にいい名前だと……でも本当に良い名じゃないか。

 僕はただそう思っただけで……」


 天球儀に顔を隠すように縮こまった顔は明らかに焦っている。

 その焦り具合をやはり自身でも不思議がっているのだろう、表情はなんとも複雑そうだった。


 楽しがっていたグルラドルンは息をつき、先ほどのような子供じみた顔から一転、幾ばくか年齢を感じさせる顔に戻った。


「ほーら言い訳っぽい。……はじめはそうだとしてもさ…ねぇ?」


 揶揄の響きが無くなった事に恐る恐るグルラドルンを見返す横目は、降参、と語っている。


「…なに……?」


 まだ何かあるのか。

 言外にそんな意図を含ませて、早くこの話題から離れたそうなケルッツアを、飛び切り子供地味た笑顔で覗き込んで、グルラドルンはとどめを刺した。



「可愛いこだもんねー? 構って欲しくなるんだよねー?


 この朴念仁にもやっと……。

 まあ生きているうちに在るだけ良かったよ……青春! 純情!

 うんうん。いい傾向いい傾向」



 一人頷く学友に、ケルッツアは酷く計算のたがえた時のような、それが論文発表の段階で発覚したかのような調子で、深々と息を吐いた。天球儀を抱きしめる。


「……言ってろ…」


 返ってきた声は更に調子がいい。

 

 結局ケルッツアは。口の中でそんな事、という単語をぐるぐる回していただけ。

 やけに滲む嫌な汗の正体を掴めないでいる。




***




 夕闇は紫のヴェールを掛けて空を覆っていた。


 潮風のざらついた匂いは、船着場で今日の最終便に乗り込むレティシアの頬を撫で、闇に光る金の髪を幾筋かなびかせている。


 レティシアは、風に押されたように後方、針葉樹の林の向こうに聳え立つ国立図書館を見やって、一歩前のテェレルへと声をかけた。


「……おお! 流れゆく幾千の星よ! 

 我はお前たちの輝きにかけて願う! この美しい人をどうかわが腕の檻へと!! 


 ……とまではいいませんけど。

 ・・・オンナノコ口説くのに絶好の機会ですよねぇ? 孤島に朝まで二人きり。


 ………どうなんですか? その辺」


 これから正に見るはずの『ダリル姫』の喜劇の一節に声を乗せて、辛辣に、最後の方はドスを聞かせて問う声に、さあねえ、と、彼女の手をとりつつ、船の甲板に足をかけたテェレルは軽く苦笑する。


「まず、ケルズ、と言う時点で、心配するだけ損だから。

 あれ? でもそういえば本当に二人きり、って、今日がはじめてだったか……?」


 でもケルズだしねぇ、とぼやく巨体を押しのけ、甲板へと足を踏み出したレティシアは、不機嫌そうに、なら、いいですケド、と低く嘆息した。


 一瞬彼らの足場は大きく揺れ、汽笛が体を震わすほど近くで鳴ったかと思うと、僅かの助走をつけて、直ぐに船は波の上を軽快に滑り出す。


 あたる潮風に複雑そうに、しかしどこか険を抜いてその長い金髪を押さえていたレティシアに、でもどうだろう、と。

 テェレルの無責任な声が、突如、やけに大きな声で続けられた。


「ダリル嬢には、例のアレがあるからさぁ! 

 内輪で賭けがあったぐらいびっくりした、ケルズの”くどき文句”!」


 睨む第二図書館職員と、睨まれる第二図書館長。


 その間に何時の間にか割って入った銀髪の少年は、にこやかに無責任な声を引き継いだ。


「『ソフィー? ソフィーっていうの?』でしたっけ? 俺くっついて欲しい派なんで、むしろドクター・ワイズの甲斐性に期待してるんですよねー!!!」


 期待!? と二人にも増した大声をあげたのはレティシアで、感心したように頷いているのはテェレル。

 そのふたりを気にする事無く、少年は話を続ける。


「ああ、ソフィレーナ先輩が押し倒しちゃってもいいや。

 見てるとあの人たちって、くっつかないの可笑しいくらいだと思うんですけど!


 …実際……こっちとしては才能と能力の桁が違い過ぎて……

 ……くっついて、互いに溺れて。体よく潰れあってくれでもしないと追いつかないじゃないか……」


 少年、サリウルは最後の不穏さを上手く風と船音に紛れさせて、甲板で喚く先輩、レティシアを軽くいなしつつ、遠ざかる島を、国立図書館しか主だった建物の無いウィークラッチの孤島を眺めやった。


 ジジ、と、電波のずれる音が彼らの耳につく。

 相変わらず孤島は然と彼らの目に見えていたが、しかし既に空間は違えられている。



 かつてデラッノという考古学者が発見し、最近ではケルッツアの利用した遺跡の技術。

 


 希少なその力によってもたらされる結界は、今日も事無く。

 ウィークラッチの孤島と、ケルッツアと、そして今回はソフィレーナを外界から遮断した。

8月31日直しました。

2022年5月30日直しました。

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