夜によせて
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高い三脚の天辺に脚をかけた、壮年にやや近付いた大柄な男は、困ったように下を見、今にも泣きそうな声で自身の友人へと抗議を申し立てていた。
当のケルッツアはといえば、友人の、この鬼! と言わんばかりの情けない顔と手だけは何とか動かし本棚へと本を納めていく涙ぐましい姿を見上げて、心底申し訳なさそうに頭を掻きつつも指示の手を休めない。
「すまんなぁ…僕もソフィーレンス君もそこは手が届かなくて……。
あ、そこ、それは三つ目だ。先に『精神構造の』そう。それを、うん。
それで……」
下で両手を合わせつつも指示を出すケルッツアに、彼の友人、グルラドルン文化庁長官は震える足元を踏ん張り、おっかなびっくりの中腰でどもった声を下にかける。
「き、君は何で三脚新調しないんだ!? 手が届かないって三脚の意味無いじゃん!!
第一このテキスト全部出すときどーしたの!!!!」
天井近く、九メートルほどの高さで必死に喚きつつも指示された本を棚に納めてゆくグルラドルンの涙ぐましい姿を首を痛くしながら見上げ、そのときは第三図書館長がいた、とケルッツアは苦笑した。
「で、奴、マルスは……今は、ロウドンナ諸島に調査旅行中だから呼び出すに呼び出せなくて……。
奴ほど高い背はほら、この図書館にはいないだろ?
グラン、本当に狙ったようなタイミングで来るから……つい。」
グラン、と愛称で呼ばれたグルラドルンは、口調が学生時代に戻っているケルッツアの返答を耳の端っこで聞きつつ、つい。じゃない! と怒鳴り返した。
それでも次々と棚の中へ本を押し込んでゆく。
「だいたい! だいたいだケルズ!!
なんで! な・ん・で! 若返る前の身長に合わせた三脚をまだ使ってる!?!? おかしいだろ!!?!? 効率わるすぎだ!!!! 」
ぼくまちがってる?!!? 涙声の壮年近い男性――――グルラドルンの、振り乱した白髪交じりの赤毛を罪悪感に苛まれつつも見、ケルッツアは、やはり指示を止めなかった。
さすがに申し訳ないかと、交換条件を出しつつも。
「ほんとうにすまん! あー…今度…今度天球儀と……秘蔵のネガをやるから…な?」
苦渋の選択で微笑んだケルッツアの顔を、霞む目元で見やって、グルラドルンは反論を返す。
「今度っていつだよ!!! 今だ!!!
あと現物のがいい!!! どーせキレイな状態で額に入れてあるんだろ!?!? 写真も五枚ぐらいよこせ!!!!!」
たくさん持ってるだろ!?!? 涙交じりの声は禁書庫の広大な空間に空しく吸い込まれてゆく。
それから五分後のこと。
グルラドルンは、しばらくは魂の抜けたような顔でだらしなくも床の絨毯に手足を投げ出していたが、ケルッツアの持ってきた写真の納まった五つの額を見て、がばり、と起き上がり、さっきの様子とは打って変わって浮かれ調子に額を抱き締め頬擦りしていた。
ケルッツアは反対に、浮かない顔で天球儀を回している。
生き生きとした声と沈んだ声はどんな奇遇かまったく同じ言葉を紡ぎ出し、見事なはもりが生まれた。
「メラーノ彗星にトロナ流星群。トールの皆既日食とテラー星、ソレツナ恒星の赤色巨星……飛び切りのセレクトだ…」
文句はなかろう、と拗ね気味に聞くケルッツアに、もちろん! とグルラドルンは答えた。
ケルッツアは、どうにか辞退してもらうことのできた天球儀を抱き締めながら、駄目押しのようにグルラドルンに念を押す。
「メラーノは百年に一度! トロナは六十三年周期……テラーなんて次いつ見えるか……。
トールは問題外で?」
「ソレツナはもう確認できず。常識だよケルズ! 墓の中まで持っていくとも!!」
グルラドルンの申し分ない返答に同意の意志を投げやりに贈って、ケルッツアはもう笑っている。
それを見たグルラドルンはやっと友人を訪ねた当初の目的、今夜一夜限り公演のオペラッタへの出席の有無をケルッツアに尋ねるに至った。
ケルッツアの返答はにべもない。
「せっかくだが遠慮しておく。
……やりたいこともあるし。何より、僕はそういうものが苦手だということは知っているだろう? 確かに凄い話だとは……」
グルラドルンは、何やらごねて複雑な顔をする友人の反応をうろんな目で見ていたが、ホンモノには敵わない? と、目元ににんまりとした弧を描く。
「ホンモノにあったことあるんだもんねーケルズ。
確かマリアーナ様シスター時代で? ロザリオ掛けてもらったんだったっけ」
笑いを含んだ調子で問いかける声に、異世界に行く前にね、と、しかしケルッツアは至って冷静に答え返した。
「流民出の学者風情に良く皇家の姫君が出てきてくれたものだと思ったよ。
教会での当番とはいえ、真摯に安否を気遣って加護を授けてくれた。
背が届かなかったから彼女の前に膝をついてかがんだけれど」
天からの使いのようだった。
言葉とは裏腹に頬も耳の一つも染めず、淡々と、まるで暗記した数式を口に出すような声で語るケルッツアの調子に。
グルラドルンは小さく朴念仁、と毒づき、何やら思案気に、その、遥かな記憶よりも縮んでしまった、未だ見慣れぬ背中を見上げる。
「……そのテンシサマに貰ったロザリオ、異世界に置いてくる?
……ちんこい双子の魔術師君たちにあげちゃったんだっけ? あり、えないくらいの朴念仁。
……その点」
白々しい声音の友人に悪寒でも感じたか、ここでやっと知恵者の顔が何だか嫌そうに歪んだ。
「……グラン?」
グルラドルンは、嫌そうな顔のまま振り向いたかつての学友の姿を目の端で捉え、悦に入った調子で、にたり、と狐のように笑う。
「やっぱ人間、四十にもなると色々変わるんだ。
その姿でお得なのって、犯罪に見えないことだよね?」
グルラドルンは、昼の白い光が差し込む青く毛足の長い絨毯に座り込み、逆光でも十分苦い顔をしていると分かるケルッツアに、楽しげに言葉を続けていく。
「凄―い猫ッ可愛がりしてるって評判だよ? かれこれ三年だっけ?」
犯罪、と言う言葉にしばし固まっていたケルッツアは、やっと質問の意図を読み取って、目を見開き、その顔のまま反論を返した。
「否、ソフィーレンス君は本当に優秀だ。
計算も速い、一度見たものは忘れない、頭の回転も速いし機転も利く、粘り強い。
……僕は彼女の学者としての素質を買っているだけであって」
ケルッツアは、何を必死になっているのか、自身でも分からないまま早口で続けたが。
彼にかかったグルラドルンの声は、多分に胡乱さと、揶揄を含んで楽しげだった。
「へぇえ?
なんかさぁ、焦ってない?
……ごめんケルズ。それ全部言い訳にしかきこえない。
能力ったって、初っ端のあれは関係ないよなぁ……。
…確か初顔合わせのときだったよねぇ?」
五つの額を後生大事に抱え込みその額に顎を乗せたグルラドルンは、含みのある顔でケルッツアを見る。
ケルッツアは、知れず目をそらした。
「話がみえない……」
思ったよりもごねた響きに自身でも驚いたか、言った途端口元に手をあて、そのまま横手を苦々しく眇め見ている。
その反応に益々気をよくしたグルラドルンは、うそぶくように、先ほどまでは背伸びをすればすぐに届いただろう広くでかい天井を眺め、心底楽しそうに笑った。
「話題になったってハナシ。シルドのこともびっくりしたけど。あのときもびっくりしたんだって。
…『ソフィー? ソフィーっていうの?』」
そして件の台詞を、学友だったときはもう少し低かったケルッツアの今の少年の声を真似て、なぞってみる。
途端友人の背が益々縮んだ。
「あれは純粋にいい名前だと……でも本当に良い名じゃないか。
僕はただそう思っただけで……」
天球儀に顔を隠すように縮こまった顔は明らかに焦っている。
その焦り具合をやはり自身でも不思議がっているのだろう、表情はなんとも複雑そうだった。
楽しがっていたグルラドルンは息をつき、先ほどのような子供じみた顔から一転、幾ばくか年齢を感じさせる顔に戻った。
「ほーら言い訳っぽい。……はじめはそうだとしてもさ…ねぇ?」
揶揄の響きがなくなったことに恐る恐るグルラドルンを見返す横目は、降参、と語っている。
「…なに……?」
まだ何かあるのか。
言外にそんな意図を含ませて、早くこの話題から離れたそうなケルッツアを、飛び切り子供じみた笑顔で覗き込んで、グルラドルンはとどめを刺した。
「可愛いこだもんねー? 構って欲しくなるんだよねー?
この朴念仁にもやっと……。
まあ生きているうちに在るだけ良かったよ……青春! 純情!
うんうん。いい傾向いい傾向」
一人頷く学友に、ケルッツアは酷く計算のたがえたときのような、それが論文発表の段階で発覚したかのような調子で、深々と息を吐いた。天球儀を抱きしめる。
「……言ってろ…」
返ってきた声はさらに調子がいい。
結局ケルッツアは。口の中でそんなこと、という単語をぐるぐる回していただけ。
やけに滲む嫌な汗の正体を掴めないでいる。
***
コーヒーの香ばしい香りが展望部屋に漂っていた。最上階以外は誰もいない館内。展望部屋は今、傾く日差しの赤が全てを包み、その裏には既に闇が濃くわだかまる。
今しがた容れたばかりのポットの頭に片手を乗せて、ソフィレーナは一つ、息をついた。机には厚手の毛布とコートがお行儀良くたたまれ、その横に用意された簡単な食品は二人分、荷としてまとめられている。
『ソフィーレンス君、惑星周期の観測を行いたいんだけれど、しばらく良いかね』
その言葉に二つ返事で了承したのは、丁度この場所にて一週間ほど前。その日から毎夜、二時間交代で望遠鏡に張り付き、四つの惑星の周期及び軌道を探る日々が続いた事に、ソフィレーナは人知れず肩を回してため息をついた。こきこき、回すと軋む肩が何だか空しい。
『今日の夜は…なるたけ暖かい装備で来てくれるかな』
大方、最上階のその先、屋上にでも出るのだろう。
疲れた顔色で首を回し、そんな事を思いながら大きく伸びをして。
思考とは裏腹、嫌なわけではなかった。
どちらかといえば、幸福の只中。
自覚し、ゆるく笑みを浮かべて、彼女はそっと目を瞑る。
彼女が良く図書整理に借り出される理由の一つに、書の全ての登録番号、コードを覚えてしまっている、というものがある。一瞬目を通しただけで、その記憶は違われることがない。
この特異な才能と、回り過ぎる頭、そして、”ソフィレーナ”という名前。その全てによって、ここに来る前までの彼女に居場所はなかった。
『詭弁屋の”ソフィー”がまたなんか言ってるわ』
『屁理屈ばっかり言っていると、誰からも相手にされなくなりますよ?』
学校では、生徒と言わず教師と言わず、ソフィレーナにかかるのは冷たい声ばかり。一生懸命説明しても誰にも相手にしてもらえなかった。
それが。
そんな、灰色の毎日が。
自分は、何と恵まれた場所にきたのだろう、と、国立図書館に勤めて早三年、ソフィレーナは思う。一日中、本にまみれてドレスの代わりにズボンで館内を駆け巡り、数字と計算、雑用と研究に埋もれ日々を過ごす事、それがソフィレーナ・ド・ダリル、あるいは”ソフィーレンス”と言う人間の幸福。
「ママに、感謝しないとね…」
大きく息を吸い込んで、気合を一つ。
彼女は用意した荷物を後に、展望部屋を出る。
***
夕闇は紫のヴェールを掛けて空を覆っていた。
潮風のざらついた匂いは、船着場で今日の最終便に乗り込むレティシアの頬を撫で、闇に光る金の髪を幾筋かなびかせている。
レティシアは、風に押されたように後方、針葉樹の林の向こうに聳え立つ国立図書館を見やって、一歩前のテェレルへと声をかけた。
「……おお! 流れゆく幾千の星よ!
我はお前たちの輝きにかけて願う! この美しい人をどうかわが腕の檻へと!!
……とまではいいませんけど。
・・・オンナノコ口説くのに絶好の機会ですよねぇ? 孤島に朝まで二人きり。
………どうなんですか? その辺」
これから正に見るはずの『ダリル姫』の喜劇の一節に声を乗せて、辛辣に、最後の方はドスを利かせて問う声に、さあねえ、と、彼女の手をとりつつ、船の甲板に足をかけたテェレルは軽く苦笑する。
「まず、ケルズ、と言う時点で、心配するだけ損だから。
あれ? でもそういえば本当に二人きり、って、今日がはじめてだったか……?」
でもケルズだしねぇ、とぼやく巨体を押しのけ、甲板へと足を踏み出したレティシアは、不機嫌そうに、なら、いいですケド、と低く嘆息した。
一瞬彼らの足場は大きく揺れ、汽笛が体を震わすほど近くで鳴ったかと思うと、わずかの助走をつけて、すぐに船は波の上を軽快に滑り出す。
あたる潮風に複雑そうに、しかしどこか険を抜いてその長い金髪を押さえていたレティシアに、でもどうだろう、と。
テェレルの無責任な声が、突如、やけに大きな声で続けられた。
「ダリル嬢には、例のアレがあるからさぁ!
内輪で賭けがあったぐらいびっくりした、ケルズの”くどき文句”!」
睨む第二図書館職員と、睨まれる第二図書館長。
その間にいつの間にか割って入った銀髪の少年は、にこやかに無責任な声を引き継いだ。
「『ソフィー? ソフィーっていうの?』でしたっけ? 俺くっついて欲しい派なんで、むしろドクター・ワイズの甲斐性に期待してるんですよねー!!!」
期待!? と二人にも増した大声をあげたのはレティシアで、感心したように頷いているのはテェレル。
そのふたりを気にする事無く、少年は話を続ける。
「ああ、ソフィレーナ先輩が押し倒しちゃってもいいや。
見てるとあの人たちって、くっつかないの可笑しいくらいだと思うんですけど!
…実際……こっちとしては才能と能力の桁が違い過ぎて……
……くっついて、互いに溺れて。体よく潰れあってくれでもしないと追いつかないじゃないか……」
少年、サリウルは最後の不穏さを上手く風と船音に紛れさせて、甲板で喚く先輩、レティシアを軽くいなしつつ、遠ざかる島を、国立図書館しか主だった建物のないウィークラッチの孤島を眺めやった。
ジジ、と、電波のずれる音が彼らの耳につく。
相変わらず孤島は然と彼らの目に見えていたが、しかしすでに空間は違えられている。
かつてデラッノという考古学者が発見し、最近ではケルッツアの利用した遺跡の技術。
希少なその力によってもたらされる結界は、今日も事無く。
ウィークラッチの孤島と、ケルッツアと、そして今回はソフィレーナを外界から遮断した。




