一五〇〇年の虚
妙典寺の地下施設から、葵、徳彦、そして七瀬七海の三人は、龍理の波動で満たされたトンネルを通って地上へと帰還した。
彼らが辿り着いたのは、櫛田神社の地下通路の入り口。王が龍理を流し込み、硬質な結界を張って彼らを待っていた場所だ。夜明け前の神社には、七海の霧龍の龍理によって一時的に作り出された濃密な霧が、まだ微かに漂っていた。王の姿は、地下への入り口の前に静かに立っている。彼の周囲の空気は揺らぎすらせず、その存在自体が、極度の混乱を抑え込むための均衡そのものだった。
徳彦の懸念していた最悪の事態――福龍の最終演算による博多全域の龍理の大混乱――は起きていなかった。それは、彼らの地下での迅速な行動に加え、この地上で王が龍理の法則を用いて、大規模なエネルギーの暴走を未然に鎮圧していた証拠だった。
地下通路から躍り出た三人の姿を見て、王の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「よう、よく戻ったな、小龍ども」
王は、七瀬七海の姿を一瞥し、静かに頷いた。
「三人になったか。それもよし」
王は、徳彦の氷龍の龍理による極度の冷気を纏った顔と、葵の応龍の龍理による疲労を隠せない顔、そして錫杖を携えた七海の冷徹な顔を、順に見つめた。彼らの体には、激しい戦闘の痕跡が残っている。
王は、三人に向かって、両手を広げてみせた。
「福龍の連中が試みた**『人造龍理の暴走演算』**は、わしの想定の範疇じゃ。奴らは、理論構築に必要なデータが足りんかった。ましてや、龍理の力の理を理解しない者たちが、それを操るなど、赤子に大学入試をさせるようなものじゃったわい」
葵は、安堵から全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。
「くそっ、助かったぜ、王様。ノリがいなかったら、俺たちじゃ、あの霧と雷龍には勝てなかった」
「ご老体。あなたが、ここで何をしてくれたのか、教えていただけますか」七海が、感情を込めずに尋ねた。
王は、その問いかけに、静かに首を横に振った。
「わしは、人の世の小さな争いに興味はない。ただ、龍理という、天地を巡る気が人の身に宿りしモノの、**理**を護っておるだけじゃ」
王は、それ以上、自分の行動について詳しく語ることはしなかった。彼は常に、必要な情報しか与えない。特に、現代社会において龍理の技術や法則が解明されることを、極度に避けているかのようだった。
徳彦は、冷徹な視線を王に向けた。
「福龍の実験の裏には、やはり龍理の知識があった。あなたは、それらの知識を、現代の人間が利用することを、恐れているのですか?」
王は、ただ静かに微笑むだけだった。
王は、七海が錫杖を地面に突き立てているのを見て、再び言葉を続けた。
「七瀬七海よ、お主の霧龍の龍理は、情報と誘導に特化しておる。福龍の連中のデータも、お主の手で完全に霧散させたようじゃな。それも龍理の理から見て、最も効率的な結果じゃった」
七海は、初めて感情の波を見せず、王に頭を下げた。
「私の行動は、福龍の非合理的な計画を阻止するための、合理的な手段に基づいたものです」
王は、三人に向かい、少し身をかがめた。
「さて、わしがお前たちを労う時間は終わりじゃ」
王は、神社の境内の大銀杏を見上げ、目を細めた。
「お主ら、この人界は狭いと思わんか?」
葵と七海は、互いに顔を見合わせた。徳彦は、冷気を纏ったまま、黙って王の次の言葉を待っていた。
「お主らが胎内で得た龍理の卵は、十二年の時を経て、龍理となり宝貝になった。だが、それは龍理の力のほんの一部に過ぎん。人の身に宿った龍理が、更に進化し、骨の髄となった状態。これを、わしらは仙骨と呼ぶ」
葵は、驚きを隠せず、思わず声を上げた。
「仙骨……俺たちの龍理が、体の一部に……?」
「その通りじゃ」王は、静かに頷いた。
「お主らの体は、龍呑みという奇跡的な現象で、通常の人間を遥かに超える龍理の力を養う器となった。そして、その器が完成し、龍理を骨の髄まで宿した者――仙骨持ちは、仙になるのが定めじゃ」
王の視線は、遠く、博多湾の向こう、夜明けの空の果てを捉えていた。
「わしは、お前たちを、その定めの地へ導く。来ぬか、月の向こう、崑崙山へ。お主らの言葉で言えば、仙界じゃ」
七海は、錫杖を軽く持ち上げ、前向きに答えた。
「仙界。龍理の法則が、最も効率的に存在する場所ですね」
七海は、王に視線を向け、感情を伴わない冷静さで問いかけた。
「福龍の試みが失敗に終わった今、現代社会において、私たちW世代が安全に龍理の力を制御し、進化させる場所は、仙界以外にありません。それは、合理的な結論です」
「その通りじゃ」王は、七海を満足げに見つめた。
しかし、王はすぐに、徳彦へと視線を移した。彼の瞳は、何かを隠しているかのように静かだった。
「徳彦よ。お主とわしは、戸籍ではどうあれ、血は繋がってはいない。お主の力は、わしが龍理の理の枠組みの中で、お主に与えたものじゃ」
王の言葉は、まるで彼の出生に関わる、重大な事実を示唆しているかのようだった。しかし、王はそれ以上、深入りすることはなかった。彼は常に、必要な情報しか明かさない。
「仙骨を持ったW世代が、仙界へと旅立つのは定め。そして、約一五〇〇年毎に、仙界を襲う**『あれ』に流されるのも定め**じゃ」
王は、少し寂しそうな表情を浮かべた。
「だが、定めに逆らうか、天に唾するか……それもまた、小龍のお主らに与えられた特権じゃ」
王は、ここで徳彦の意思を問うことを一旦やめた。
葵が、ラーメンをすすりながら、緊張を和ませるように声を上げた。
「わかったぜ、王様。仙界か……ちょっと行ってみたい気もする。でも、正月には、戻ってこられるんですかね?」
葵は、この龍理の戦いに巻き込まれる前の、平和な日常を忘れていない。
王は、優しく笑った。
「仙界の時間の流れは、人界とは少し異なる。それは行ってみてのお楽しみじゃな」
七海は、錫杖を軽く持ち上げ、前向きに答えた。
「私は、仙界へ行きっぱなしで構いません。地上の非合理的な社会に、未練はありませんから」
徳彦は、ただ黙って、氷の槍を握りしめていた。彼の表情は、複雑な葛藤に満ちている。王の言葉、**「血は繋がってはいない」**という事実が、彼の心の中で重く響いていた。
櫛田神社の境内に、王が全身の龍理を解放した。その龍理は、極めて古く、地球の気とは異なる、清浄な光を放っていた。その光は、博多の街の上空で、夜明けの空と交じり合い、一筋の銀色の柱となった。
「これぞ、崑崙山への道じゃ」
王の宝貝が、空間の連続性を歪ませ、銀色の柱が彼らの足元へと降り注ぐ。それは、彼らの持つ龍理の力では到底到達できない、次元を超越した、仙界への超高速伝達の経路だった。
葵は、その圧倒的な光景に目を奪われた。
「すげぇ……ノリの超推進ブーストでも、こんな移動は無理だぜ」
徳彦は、その龍理の光の柱を、冷徹な銀色の瞳で見つめていた。彼の氷龍の龍理は、冷却に特化しており、空間を歪ませるような力は持っていない。王の力は、彼自身の龍理の限界を、遥かに凌駕していた。
「徳彦よ、お主の氷龍の龍理は、物を冷却するだけで、時間や空間、エネルギーを凍結することはできん。しかし、仙界では、その冷却の理を、極致まで高めることができる。仙界は、お主らの龍理にとって、最も効率的な修練の場じゃ」
王は、徳彦の心の迷いを正確に読み取っていた。
「お主は、龍理の知識を秘匿していることを、不満に思っているじゃろう。だが、わしは、龍理の知識を、現代社会では解明できないように護っておるだけじゃ。それは、龍理の法則を悪用しようとする福龍のような存在から、この世界を守るための、**最善の理**じゃ」
王は、徳彦と七瀬七海、そして葵を見つめた。
「お主らW世代は、人界の希望でもあるが、同時に、龍理の理から外れた、異端の存在でもある。このまま人界に残れば、福龍の残党や、新たな敵の標的になる。仙界は、お主らの安全を確保し、仙骨を完成させるための、最善のプロトコルじゃ」
七海は、錫杖を構え、銀色の柱に近づいた。
「私は行きます。私の霧龍の龍理は、情報の収集と誘導に特化しています。仙界の龍理を解析し、合理的な結論を出すことが、私の新たな使命となります」
七海は、葵と徳彦に、軽く頭を下げた。
「では、私は先に行く。福龍の残党が、この超高速伝達の経路を解析する前に」
七海は、迷いなく銀色の柱へと飛び込んだ。彼女の身体が光の中に溶け込むと、一瞬の閃光の後、彼女の姿は消え去った。
残されたのは、葵と徳彦、そして王の三人。
葵は、王に尋ねた。
「王様、本当に、W世代以外には宝貝と龍理は同時に発現できないんですか?」
「ああ。W世代という奇跡的な胎内の環境でなければ、天地を巡る気が人の身に宿ることはない。それは、龍理の厳然たる法則じゃ」
葵は、その言葉に安堵しつつも、徳彦の顔を見た。徳彦は、まだ迷いを抱えている。
「ノリ。王様が言ったこと、気にすんな。俺たちに血が繋がってるかどうかなんて、関係ないだろ。俺たちは、ずっとバディなんだぜ」
葵の言葉は、徳彦の冷徹な心を、一瞬で溶かした。徳彦の氷龍の龍理が、わずかに揺らぐ。
「……愚かだな、アオ。お前は、いつも非合理的な言葉で、俺の心を乱す」
徳彦は、氷晶の槍を地面に突き立てた。彼の銀色の瞳に、迷いは消え、決意の光が宿る。
「だが、お前の龍理は、いつも俺の合理性を超えて、最善の結果を導き出してきた。俺は、お前の直感を信じる」
徳彦は、王に向かって静かに頭を下げた。
「王様。俺は行きます。葵の応龍の龍理と、七瀬七海の霧龍の龍理、そして俺の氷龍の龍理。三つの力が仙界で調和すれば、一五〇〇年周期の**『あれ』**に対しても、定めに逆らうことができるかもしれない」
王は、静かに頷いた。
「それが、お主の**理**か。よし、来い」
王は、葵と徳彦の背中を、優しく押した。
「一つだけ覚えておけ。龍に王は存在せん。お主らは、己の道を征く、自由な小龍じゃ」
葵は、懐かしい博多の街の空気を目一杯吸い込んだ。
「正月には、必ず戻るぜ、王様。博多ラーメン、食いに行くからな!」
葵は、王に笑顔を見せると、徳彦と共に、銀色の光の柱へと飛び込んだ。
一瞬の閃光と、空気が震えるような衝撃音の後、二人の姿は、櫛田神社の境内に立つ王を残し、跡形もなく消え去った。
王は、空へと消えた光の残滓を、静かに見つめていた。
「さて、これでまた、しばしの静寂じゃな」
彼が手を振ると、銀色の光の柱は霧散し、彼の張っていた龍理の結界も解かれた。夜明けの陽光が、櫛田神社を静かに照らし始める。
葵と徳彦、そして七海の旅は、龍理の起源へと向かう、新たなステージへと突入した。彼らの闘いは、終わったのではなく、仙界という広大な舞台で、今、幕を開けたのだ。




