118、オキャクサマ
遠くから運ばれてくる汽笛の音を捉えて振り返ると、周りの景色が一変した。
その場にいた人間達は掻き消え、時計塔が消失する。いつの間にか目の前に敷かれていた線路を辿るように、列車が滑り込んできた。
中に入ると、先程と変わらない席に少年が座って窓の外を眺めていた。俺が向かいに腰掛けても、視線をこちらに向けようとはしない。
やがて列車が動き出し、俺は口火を切る。
「さっきのは、お前の記憶か?」
「うーん、厳密に言うと少し違うな」
ゆるりと俺を見た少年の目が細められた。
「時間はある。ゆっくりと話そうか……僕の知る全てを」
その言葉に、俺は固唾をのんだ。
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屋敷の中に漂うどんよりと澱んだ空気に、ルイーゼは人知れず溜息をつく。深く息を吸い込んで、数分と経たない内にもう一度溜息をついた。
重い、嫌な空気だ。どんなに吸っても足りないように感じるのに、肺はおおきく膨らんで胸を圧迫させる。
彼女はこの空気を知っていた。微かに混ざる死の気配は、屋敷の住民を少しずつ蝕む。
皆がイツキの死を恐れ、抑えられない不安が伝染していくようだった。
せめてもと窓を開けて換気をしていたルイーゼの聴覚は、森の中から木霊す妙な物音を捕まえた。
「……何?」
こちらに向かっているのか徐々に大きくなる音と共に、微かに地響きが伝わってくる。巨大なものが移動しているのかと怪訝に思ったルイーゼが目を凝らすと、やがてその姿が見えてきた。
「あれは、馬、でいいの?」
思わずそう呟いてしまうほど、その馬は異様だった。
普通を遥かに凌ぐ巨体。後ろに括りつけられている馬車や周囲の木々との割合がおかしくて、遠近感が狂いそうになる。盛り上がった筋肉を惜しみなく発揮し、猛然と駆ける速度は尋常ではなく、石畳を割り砕きそうな勢いだ。
異変に気付いたリクエラがドアから顔を覗かせ、目が合ったルイーゼに問う。
「この音はなに? 竜巻?」
「多分、お客様」
簡潔に述べ、出迎えのために玄関に向かう彼女の背中に、「え? お客様?」というリクエラの呆気にとられた声がかかる。
扉を開けて外に出ると、丁度速度を落とした馬車が敷地内に入ってくるところだった。
御者台で手綱を操るのは年若い少年。服装からして従者というわけでもなさそうだ。車体も質素な造りで、一目で貴族ではないということが分かる。
ならば誰なのだろうと顔に出さず内心首を傾げていると、馬車が止まるなり中から勢いよく扉が開かれた。
「まったく、酷い乗り心地だね! いくらドワーフが頑丈だからって、女に気を使わない男は振られるよ!」
「それ今関係なくないですかー⁉」
文句をつける乗客に少年がいかにも気が弱そうな悲鳴を上げる。その聞き慣れた声に、感情の乏しい少女が目を見開いた。
「トーリス?」
中から降りてきたのは、背の低い三つ編みの逞しい女性。育て親とも呼べる人物の登場にルイーゼが驚いていると、彼女に気付いたトーリスも声を上げた。
「おやまあ、どこの嬢ちゃんかと思ったらルイーゼかい。ちゃんとした格好してりゃあ、それなりに見えるじゃないか」
「げっ、トーリス⁉」
ドワーフが少女のメイド服をまじまじと眺め感想を言っていると、対応のために出てきたスカイルが潰れた声を上げた。
「げっとはなんだ、スカイル。お前は……うん、似合わないな」
早足で近付く少年の執事服姿を、彼女は一言で切り捨てる。
「何だと⁉ オレだって好きでこんな窮屈な服着てるわけじゃねー!」
「おうおう、少しくらい大人しくなったかと思っていたが、相変わらず変わらないなぁ」
「うるっせえ!」
気心が知れた同士のポンポンと弾むような会話に、御者台を降りた少年は目を白黒させていた。
「それで? ご用件は何でしょうか、オキャクサマ?」
「うわ、話し方気持ちわる」
「用がないのならお引き取り下さい、オキャクサマぁああ?」
渋々と事務的に対応しようとしたスカイルの言葉遣いにトーリスが反応すると、ビキリと青筋を立てた少年がメンチを切りながら迫る。
「用件は、ミュンツェと話がある。それと、イツキ君の見舞いだ」
その言葉に、二人の動きが止まる。咄嗟に何も言えなくなる獣人達に、彼女は意地の悪い笑みを浮かべた。
「自分の副業をお忘れかい?」
親指で自身を指差すトーリスに、ルイーゼは本日何度目か分からない溜息をついた。
『トーリスの武器屋』店主として鍛冶屋を営む一方、客との他愛無い雑談を集めて情報を売る『裏』の顔を持つ女。
目配せをするとスカイルは頷いて屋敷の中へ戻っていく。
「今、旦那様に取り次いでるから少し待って」
「はいよ」
待機するように言う少女にトーリスが頷くと、「あ、あの」と恐る恐る少年が話しかける。
視線を向けると、彼は意を決したように切り出した。
「イツキの具合はどうですか? 大丈夫なんですか?」
額から心配という文字が透けて見えそうなほど黒髪の少年のことを気にする少年に、ルイーゼは何と言えばいいのか分からない。
動揺を無表情の下に隠し、彼女は代わりに質問を返した。
「貴方は、どちらさまでしょうか?」
感情の籠らない声に、少年はハッとしたように口を開く。
「失礼しました。僕はベネ、イツキの……友人です」
どこか不慣れなように関係性を伝えるベネに、ルイーゼはただ「そうでしたか」と無機質な声を重ねる。
その時、屋敷の中からスカイルが出てきて、二人の会話を断ち切った。
「旦那様が通せって。先に馬車だけ厩舎に入れてもらえ」
「了解。ベネ様、ご案内します」
「は、はい」
ベネが御者台に腰掛けたのを確認して、ルイーゼは巨大な馬の前を歩いていく。
自分の前を歩く小娘が気に入らないとでも言いたげに鼻を鳴らす馬にたじろがず、淡々と案内をするルイーゼはふと、トーリスとベネはどこで知り合ったのだろうか、という疑問を覚えた。