115、セイン
その時、俺の耳にジジッというノイズが聞こえ、メリアの座っている位置が瞬きの間に微妙に移動する。感覚的に、時間がスキップされたのだということを察した。
彼女はまた一人で泣いていた。悲痛な泣き声を上げていたメリアが、何かに気付いたように目を上げる。
「また泣いてんのか」
「……また来たのですか」
呆れたような顔をする少年から顔を背け、メリアが手の甲で顔を拭う。何気なく隣に座り込む少年に、彼女はジトッとした目を向けた。
「貴方、何を勝手に座っているのです?」
「まーまー、今日はいいもん持ってきたから」
彼はメリアの視線を気にせず、ポケットの中を漁る。目当ての物を見つけ、それを引っ張り出した。
それはガムのボトル程の大きさの小瓶だった。中には幾つかの飴玉が入っており、カラカラと軽い音を立てて転がる。少年は一つ飴玉を取り出して口に含むと、小瓶をメリアに差し出した。
「お前にもやるよ」
「結構ですわ」
「遠慮すんなよ」
「結構です」
押し問答を繰り返し、彼は諦めたように小瓶をポケットの中に仕舞い込む。そうして胡坐をかくと、ぐすぐすと鼻を鳴らすメリアの方を向いた。
「お前、名前何て言うの?」
「……言いません」
「ちなみに、僕はセインっていうんだけど」
「聞いてませんわ」
その名前を聞いて、俺はハッとした。
ツンと顔を背ける彼女のつれない態度に苦笑し、少年は立ち上がる。
「じゃあな。また明日」
「もう来るんじゃありませんわ」
メリアに横目で睨まれた少年は、手を振るのをやめて階段を降りていく。瞬間、また時間がスキップした。
少年は氷結塔に足繁く通い、メリアに話しかけ続けた。最初はつれなかった彼女の態度も段々と軟化していき、少年と話す時間も長くなっていった。
「なあ、お前名前何て言うんだ?」
ある時、少年は再び彼女に名前を訊ねた。
「……言えません」
「ちなみに、僕はセインっていうんだけど」
俯くメリアにそう言い、少年は悪戯っぽく笑う。その笑顔に彼女は逡巡し、口を開いた。
「あ、っ……メリア。わたくしの名前は、メリアですわ」
「メリアか」
何かを言いかけた彼女が口を閉ざし、もう一度開いた唇がメリアと名乗る。恐らく、彼女はアルストロメリアと言いかけたのだろう。少年は彼女の名前を口の中で転がすと、パッと晴れやかな笑みを浮かべた。
「うん、覚えた。メリアな」
「別に、覚えなくても構いませんわよ」
「いや、そんな訳にはいかないだろ」
彼は立ち上がり、メリアを振り返ってまた笑った。
「じゃあな、メリア」
「ええ」
またある時、少年は少女に訊ねた。
「なあ、なんでいつも泣いてんだ?」
「それは……」
「まあ、言いたくなかったら言わなくてもいいけど」
珍しくグイグイと聞かない少年の態度に、メリアは口籠る。やがて、彼女は意を決したように少年と向き合った。
「わたくし……わたくしの本当の名前は、アルストロメリア。ドラゴン、アルストロメリアとはわたくしのことですの」
「へえっ! 驚いたな」
衝撃的な告白に目を見開く少年に、メリアは驚いたような顔をする。
「……信じて、くれますの?」
「そりゃそうだろ。逆に何でメリアの言うことを疑うんだ?」
彼の言葉に、彼女は顔を歪めた。
「わたくし、クオンに大事な人を任されていたのですけど、彼女を守り切れなかったのです。そればかりか、暴走したクオンを止めようとして、誤って彼を……っ!」
その先を続けることができず、メリアは声を詰まらせる。彼女の感情に魔力が高まり、熱気が立ち昇ってメリアと少年の髪を翻した。
不意に、少年はメリアを抱き締めた。重なった二人の身体から波紋が広がり、彼女の魔力を打ち消していく。
瞠目するメリアの背中を叩き、少年が囁いた。
「大丈夫。僕がいるから」
彼の言葉にメリアは目を細め、その目尻から涙を伝わらせる。
「わたくしはっ、この手でクオンを殺しました。この魔法で、仲間を燃やしたのです!」
しゃくり上げる彼女が少年にしがみつき、泣き叫ぶ。小さな子をあやすように背中を撫でながら、彼はひらすら「大丈夫」と繰り返した。
その時、初めてメリアは心から泣けたのだということが分かった。
やがて落ち着いた彼女が少年から離れ、きまりが悪いというようにそっぽを向く。そんな彼女に、彼は声をかけた。
「メリア。自分を赦せなくてもいい。でも、自分を憎むことだけはするなよ」
「え……?」
意味を図りかねて聞き返すメリアに、少年は告げた。
「自分を憎むことほど悲しいことはない。メリアが自分を赦せないというのなら、僕が赦そう。自分を憎むというのなら、僕が愛そう」
そうして、少年は笑った。
「そして、僕を愛してくれ。そうすれば、お前は自分を愛せることができるんだよ」
メリアが息を呑み、目を見開く。止まっていた涙が再び溢れ、彼女は顔を覆って静かに泣いた。
ある時、メリアは訊ねた。
「貴方は、どうしてあの日時計塔へ来たのです?」
「僕、月に一度時計塔の魔力の調節をしているんだ。あの日は調整の日で、中に入ったら泣いてる声が聞こえたから何かと思った」
余計な事まで言う少年を小突き、メリアは微笑む。初めて見た彼女の笑顔に彼は目を瞠り、少年もまた笑顔になった。