112、隠神一期
目を開けると、ザァッと桜吹雪が降り注ぐ。俺は桜並木の中に、一人で立っていた。
視線を落とすと、ジャージだった服が制服に変わっている。
「一期」
不意に背後から声をかけられ、振り返ると祖母が穏やかに微笑む。彼女は見たことがない桜柄の着物を着ており、凛とした佇まいによく似合っていた。
「もう、お前と会えないと思っていた。こうしてまた会えて、ばあちゃんは嬉しいよ」
「ばあちゃん……」
俺の方に歩み寄ってきた祖母が、手を伸ばす。
「さあ、ばあちゃんによく顔をお見せ」
そう言われ、彼女の背丈に合わせて屈むと、そっと顔に祖母の手が触れる。しわしわの指はとても温かく、微かに震えていることに俺は気付いた。
「ああ、大きくなったねぇ。一期はおじいさんの若い頃によく似ているよ」
「じいちゃんに?」
「ああ。あの人も若い頃はお前みたいに男前で、そりゃモテたもんだ」
懐かしいというように目を細める彼女は、俺越しに別の人の面影を見ているようだった。
「一期。お前と一会の名前は、ばあちゃんが付けたんだよ」
「そうだったのか?」
「そうさあ。ばあちゃんの一番好きな言葉を、お前達に付けたんだ」
そう言うと、彼女は手を離して代わりに俺の手を取った。
「一期一会。一生に一度しかない出会いを、大切にしなさい。一期って名前は、立派な名前だよ」
ギュッと握られた手の感触と共に、その言葉が胸の中にスッと入ってくる。祖母は手を離すと、背を向けて歩き始めた。
「ばあちゃん!」
咄嗟に俺が叫んだ声に、祖母が振り返る。その姿が桜吹雪に飲み込まれ、風が落ち着いた時には彼女の姿はなくなっていた。
「お兄ちゃん!」
その瞬間、聞き覚えのある声に呼ばれて振り返ると、一会が勢いよく俺の胸へと飛び込んできた。
俺と同じ高校の制服に身を包んだ彼女は、泣き声を上げながら俺の身体にしがみつく。
「どうして、急にいなくなっちゃったの⁉ お兄ちゃんがいなくなって、皆すっごい悲しんでる。たくさんの人が探してくれて、それでも見つからなくて、学校の人達も、あたし達もずっと泣いてる!」
「一会……」
涙声で叫ぶ一会の声に、胸が締め付けられる。彼女の身体を抱き締め、俺はただひたすら謝罪の言葉を繰り返した。
「ごめん。一会、本当にごめん。ごめんな」
「嫌だよぉ! 家に帰ってきてよ、お兄ちゃん‼」
悲痛な声で泣き叫ぶ一会を強く抱き、宥めるように頭を撫でる。
「……ごめん、じゃないよぉ」
「うん」
「無事に帰ってくるまで、許さないから」
「うん」
やがて落ち着いてきた彼女がしゃくり上げながら俺のことを睨み、身体を離す。
「絶対絶対、帰ってこなくちゃダメなんだからね!」
そう叫び、一会が背中を向ける。
「一会!」
その背中に声をかけると、彼女は振り返った。
「俺は、お前のメイクとかしてない方の顔のが好きだぞ!」
「――ばかっ!」
俺の言葉に一会が毒づき、手の甲で顔を拭いながら駆け出す。その背中が桜の花びらに覆われ、次の瞬間彼女の姿はなくなっていた。
「「一期」」
その時、二人の重なり合った声に名前を呼ばれ、俺はハッとして振り返る。
桜吹雪の中、寄り添う父と母の姿があった。
「父さん……母さん……」
その姿に、一歩二歩と足を進める。彼らが手を広げたのを見て、堪らず俺は駆け出した。
二人の腕の中に飛び込み、抱き締められる。母の手が優しく背中を叩き、それに促されるように叫んだ。
「俺、今帰れないところにいて、でも皆いい人で、大丈夫で」
「うん」
「だから、全然心配とかしなくていいから、だから――」
「一期」
必死に言い募っていた俺は、父の声に思わず口を止める。彼は、どことなく哀しそうな表情の中で笑っていた。
「我が子を心配しない親なんていない。父さん達にも、お前の心配くらいさせてくれ」
「父さん……」
父の言葉に言葉を失っていると、「そうよ」と母が口を開く。
「一期はかわいいかわいいお母さんの子だもの。いっくら大きくなったって、心配するなって言うのは無理な話よ」
「母さん……」
もう、我慢ができなかった。喉の奥で「んぐっ」という変な音が鳴り、目から涙が流れ落ちる。
「ごめ、ごめんなさい……ごめんなさい……!」
幼い子供のように泣き喚き、俺はひたすら二人に謝った。
「一期、だいじょうぶだいじょうぶ」
「お前なら、何とかなる。父さん達は、一期のことを信じてるからな」
優しい言葉をかけられ、更に涙が止まらなくなる。しばらく二人にしがみつき、俺は泣き続けた。
やがて、泣き止んだ俺は二人から離れる。
「父さん、母さん。俺、行くよ」
「うん。ちゃんと、お母さんに『おかえり』って言わせてね」
「じゃあ、父さんには『おかえり』って言って出迎えてくれ」
二人の言葉にまた涙が込み上げそうになるのを堪え、俺は背を向ける。
「「一期」」
瞬間、二人に呼ばれて振り返ると彼らは、優しく微笑んだ。
「璃穏によろしくね」
「璃穏によろしくな」
二人の左手の薬指で繋がった赤い糸が、風に揺れる。目を見開いた刹那、父と母の姿が桜吹雪に飲み込まれ、それが止んだ時には、彼らはいなくなっていた。
俺は背を向け、桜並木の下を歩いていく。やがて目の前に線路が広がり、一つの汽車が停まっていた。
俺が近付くと自動で扉が開き、中に乗り込む。
ボックス席に座っていた少年は、俺の姿を認めると笑みを見せた。