111、食卓
「お父さんは今日も遅いのかい?」
「先に食べててーって連絡きてたから、食べちゃいましょ」
祖母と母の会話を聞きながら、母の手によって整えられた食卓につくと、スマホに目を落としながら一会がリビングに入ってきた。
「こら、一会。歩きスマホはダメよ、危ないでしょう」
「ちょっと見てただけだし」
エプロンを脱ぎながらキッチンから出てきた母に見咎められ、一会が唇を尖らせる。スマホをソファーに放り投げると、彼女はいそいそと俺の隣の席に座った。
「肉じゃがだ。やったー」
「お前、肉じゃが好きだっけ?」
「肉と芋は正義でしょ」
当たり前じゃんと言いたげな表情で俺を見上げる一会の、女子高生らしからぬ言葉に思わず苦笑を浮かべる。そういえばこいつ、フライドポテトのバーベキュー味とか好きだったな。
母が椅子に座り、皆が自然と両手を合わせる。口々に「いただきます」と言い、桜の箸置きの上に置かれた箸を手に取った。
油揚げと小松菜が入った味噌汁。炊き立ての白米。大きめの器に入れられた肉じゃがと、レタスのサラダが入った小鉢。グラスには麦茶が注がれ、振動でゆらゆらと微かに揺れていた。
俺は肉じゃがの器を取り、芋の塊を口に運ぶ。歯で押しつぶすと、ほろりと崩れる食感。たまねぎの甘味と豚肉のうま味が染み込み、甘めの味付けに舌が歓喜する。
ふと一会が俺の方を振り返り、ギョッと驚いたように目を見開いたのが視界の端で分かった。
「ちょっと、お兄ちゃん。何、泣いてんの……?」
「え?」
戸惑ったように彼女に言われ、ようやく俺は自分の頬に涙が伝っていることに気が付いた。
「あれ、何でだ……?」
「あら大変。一期、どうしたの?」
手の甲で拭っても、新しい涙が線を残していく。慌てて母が差し出してくれたティッシュで目元を押さえ、俺は席を立った。
「ちょ、ちょっと顔洗ってくる」
リビングを出て、洗面所に向かう。ゴミ箱にティッシュを捨て、蛇口から水を出すと、何度もそれで顔を洗う。
ようやく涙の感触がなくなり、俺は水道を止めて新しいタオルで顔を拭った。ふと、鏡を見つめ、白目が赤くなっていることに苦笑する。タオルを洗濯機に放り込み、リビングへと戻った。
俺がリビングに現れると、一瞬視線が集まる。再び食卓につく俺に、母が何気ないように聞いた。
「大丈夫?」
「ああ」
「ならよし」
そう言って、母は食事に戻る。俺は勝手にこの人のこういうサッパリしているところは、かなりの美点だと思っている。
改めて箸を手に取ると、玄関の鍵が開けられる音が聞こえた。
「おーい、ただいま」
「おかえりなさーい」
疲れたような父の声に、母が答える。のしのしという足音と共に、父がぬっとリビングに現れた。
最近白髪が混ざり始めた直毛の黒髪はかなり伸びてきており、そろそろ散髪が必要だろう。眼鏡をかけた穏やかな顔立ちは人柄の良さを表しているようで、よく知らないひとに道を聞かれることが多いらしい。くたびれたスーツとネクタイは今の彼の疲労具合を示しているようだった。
「すぐご飯にする?」
「うん」
「じゃあ、準備するわね」
母と会話をし、父が廊下へと引っ込む。着替えるために自室へと向かったのだろう。すぐに階段を降りてくる音が聞こえた。
父が手を洗っている間に母が彼の分の夕食を食卓に並べる。リビングに戻ってきた父は食卓につくと、顔を綻ばせた。
「肉じゃがかぁ。嬉しいな」
「お父さん、肉じゃが好きだもんね」
「肉と芋は正義だろ」
缶ビールを出しながら父と話していた母が、彼の言葉に噴き出す。思わず俺も噴き出した。
「え? 何か変なこと言った?」
「いや、ただ親子だなーって。ねえ、一会」
「知ーらないっ」
キョトンをした顔をする父に母は一会に同意を求め、彼女はプイッと顔を背ける。
俺達は父よりも早く夕食を食べ終え、「ごちそうさま」と挨拶をすると先に片付けを始めた。
一会はソファーに行儀悪く寝転がり、スマホを弄っている。祖母はテレビの前の特等席に座ると、お茶を片手にニュースを見始めた。洗い物をしている母は、まだ夕食を食べている父と和やかに会話をしている。
「なあ、皆」
俺が呼びかけると、家族が俺の方を振り返る。
「俺、全部思い出したよ」
そう言った瞬間リビングがぐにゃりと湾曲し、視界が暗くなった。