110、桜の記憶
「絶ッ対痣できたってこれ。てか、骨折れてないよな?」
日頃のカルシウム不足を危惧しながら、俺は家への帰り道を特に急ぐこともなく気ままに歩いていた。
「っつーか、荷物クソおめぇ。あいつ、明日会ったらコーヒー牛乳奢らせてやる」
こういうのを逆恨みというのだろうが、あいつはきっと自動販売機の中で一番安い紙パックのジュースくらい快く奢ってくれるだろう。うん、そうに違いない。
そもそも最初から素直に教科書を持ち帰るか、日頃から机の中やロッカーを片付けていればこんな大荷物にはならなかったのだろうけど、なってしまったからには仕方ない。
「あ! てか、ちょっとずつ持ち帰ればよかったんじゃん」
今更気付き、俺は周囲に人が居ないのをいいことに決して小さくはない声量で思うままに喚く。
「ぁー……いいや。もーいーや、気にしない。気にしたらそこで人生終了だ」
どっかで聞いたような台詞を口にしながら天を仰ぎ、ふと夕焼けが暗くなってきていることに気付いて時間を確かめるためにスマホを取り出そうと制服に手を伸ばした。
しかし、ポケットの裏地に引っかかったのか中々取り出せず、丁度目の前の横断歩道も赤信号だったので足を止めて制服に目を落とす。
その途端、突っ張り感が無くなりするりと出てきたスマホにまごついた俺は、上手く掴むことができずにスマホを路上に落としてしまった。
「うっわ、マジか!」
すぐさましゃがみ込み、画面や背面に傷が付いていないかを確認したが幸いなことにフィルムに薄く傷がついただけで済んだ。立ち上がりながら一応一通りのアプリを起動させて、本体にダメージがないかも確認する。
特に変な挙動をすることもなく本当に壊れていなかったことに胸をなで下ろし、最後にカメラをタップする。インカメラもちゃんと使えることを確かめてから、外カメラに切り替えてレンズ越しに遠くを見つめる。
「よし、問題なし」
レンズの傷がないことも確認して、俺はカメラを閉じて時間を確かめた。
「げっ、もう六時かよ!」
時刻表示は六時ちょっと前を指しており、慌ててスマホを仕舞って帰り道を急ぐ。
自分の家である一軒家玄関で立ち止まって鍵を探していると、ガチャリと中から鍵を開けた音が聞こえた。
中から開かれる様子がないのでドアノブを掴み、恐る恐るドアを開ける。
「ただいまー」
「おかえりー」
返事はないだろうと思いつつ挨拶をすると、目の前から返事があり靴に向けていた視線を上げる。
猫のスリッパ。ゆったりとした部屋着に、薄っすらとバレない程度に染めたダークブラウンの髪はセミロングの長さに切り揃え、毛先をヘアアイロンで巻いている。
いつもはカラコンを入れている瞳は、外したのか元の黒目の大きさに戻っており、代わりに赤縁の眼鏡をかけていた。
アイプチだのメイクだの散々弄った顔はかなり派手なことになっているものの、教師に注意されても本人は一切気にする素振りが見られない。代わりに俺にしわ寄せが来るものだから、困ったものだ。
「鍵開けてくれたの一会? よく俺だって分かったな」
「たまたまインターホンで見えたから」
「ストーカーかよ」
「違うし! 荷物届くから待ってたんだよ。勘違いうざっ!」
妹の一会と軽口を叩いていると、廊下から洗濯物籠を持った母親がひょっこりと顔を出した。
身軽なショートヘアは黒々としており、本人曰く「毎日おやつに昆布食べてるから」とのこと。低い身長や童顔な顔立ちは年齢より年下に見られることが多く、俺が中学生の時には同学年の生徒だと間違えられたことがあるほどだ。
「あら一期、帰ってたの。アンタ、今日部活ないって言ってたのに遅かったじゃない」
「あー、教室で寝てた」
「はあ? バッカじゃないの? あ、荷物来たみたい」
サラッと毒づいた一会に言い返そうとした瞬間都合よくチャイムが鳴り、彼女はサンダルをつっかけて外に出る。
「一期も早く手ぇ洗ってきなさい」
と母親に言われ、俺は靴を脱いで自分のスリッパを履くと、階段を上がって自室に入った。
カーペットの上に荷物を下ろし、制服から適当なジャージに着替え、階段を降りて自室から洗面所に移動する。手洗いとうがいをしてリビングに入ると、ふわりといい匂いが漂っていた。
「もうご飯になるから、おばあちゃん呼んできてくれる? 今日は肉じゃがよ」
「分かった」
母に頼まれ、もう一度廊下に出る。段ボールを持った一会とすれ違い、一つのドアをノックした。
「ばあちゃん、夕飯になるよ」
「はいよ」
声を張り上げると、中から穏やかな返事がする。すぐにガチャリとドアが開かれ、中から一人の老婆が出てきた。
短く整えた髪は総白髪で、手や顔もしわしわ。それでも、年寄りらしからぬピンと伸びた背筋からは凛とした雰囲気が漂っており、昔見た写真の彼女が美人だったことを思い起こさせた。
「今日は肉じゃがだってさ」
「ほう、そりゃありがたいねぇ。最近はハイカラなご飯ばかりだったから、口が喜ぶよ」
献立について話しながら一緒にリビングに向かう。祖母の足取りに合わせながら、ゆっくりと廊下を進んだ。