第二十二話:三連立方程式の地獄(決勝前夜)
多重共鳴と「マブイの拒絶反応」
からくり競輪において、他者のマブイを吸収する「捕食」という行為は、理論上は最強の加速手段である。しかし、そこには致命的な陥穡が存在する。それが**「精神的拒絶反応」**だ。
* マブイの非互換性: 魂のエネルギーであるマブイには、血液型のように個別の周波数が存在する。速水健吾の「不屈の熱」、算盤陣の「冷徹な計算」、那須妙子の「鋭利な風」。これらは本来、混ざり合わない異物である。
* 情報の過負荷: 桜庭葵のコアマブイ7,000は、予選で他者のエネルギーを食らいすぎた結果、吸い込んだ「感情のノイズ」を処理しきれなくなっていた。勝者の歓喜、敗者の呪詛、そして健吾が放った「消えない熱」。それらが彼女の深淵を泥濘へと変えていた。
* 臨界暴走の予兆: コアが拒絶反応を起こすと、体温調節機能が麻痺し、スーツの制御系が混線する。現在の葵は、触れるものすべてを破壊し、自分自身をも焼き尽くす「歩く時限爆弾」と化していた。
小倉メディアドームの深奥、隔離された検車場の片隅。
一人座り込む桜庭葵の身体は、小刻みに、そして不自然なリズムで震えていた。彼女を包む『萌葱(MOEGI)』の装甲板からは、時折バチバチと青白い放電が漏れ出している。
「……あつい。……さむい。……だれ、これ……? わたしのなかに、知らない誰かが……叫んでる……」
彼女の視界は、エメラルドグリーンの深淵から、どす黒い混濁へと変貌していた。
予選で食らった健吾の「熱」が、彼女の心臓を内側から焦がす。算盤の「理論」が、彼女の直感をノイズで塗りつぶす。かつては静寂に満ちていた彼女の精神世界は、今や数千人の執念が渦巻く地獄絵図となっていた。
怪物は、そのあまりに強大すぎる力ゆえに、内側から崩壊を始めていた。彼女のコアマブイ7,000は、制御不能なエネルギーを放出し続け、周囲の酸素を不自然に燃焼させている。
「……たすけて、先輩……。これ以上食べたら、わたし……わたしじゃなくなっちゃう……」
一方、別の更衣室では、異様な光景が広がっていた。
速水健吾、算盤陣、そして満身創痍で勝ち上がった那須妙子の三人が、古びた長椅子を囲んで膝を突き合わせていたのだ。本来なら、明日の決勝で殺し合うはずのライバルたちが。
「……あの子は今、自分の力に溺れているわ」
妙子が、包帯が痛々しく巻かれた指で、壁のモニターに映る葵の生体バイタルを指差した。数値は脈動し、いつ臨界突破してもおかしくない危険域を示している。
「ああ、今の桜庭は、からくり競輪界のあらゆる負の熱量が溜まった『ゴミ捨て場』だ。だが、その混濁したエネルギーが決勝のバンクで暴走すれば、観客もドームもただでは済まないだろう」
算盤は、ひび割れたタブレットに一本の「勝ち筋」――いや、生存のための「数式」を叩き出した。
「速水、那須。……僕のプライドを捨てて提案する。桜庭葵を倒し、かつ彼女を救う唯一の数式、**『三連立共鳴爆破』**だ。これは三人のマブイを一つの周波数に無理やり束ね、彼女の深淵に楔を打ち込む特攻作戦だ」
算盤の描く数式は、あまりにも過酷で、かつ論理的だった。
* 第一式:【真空の檻】
担当は那須妙子。彼女がスタートから全開で先行し、ドーム内の気圧を攪拌して極限まで下げる。葵が持つ「吸い込む力」を逆手に取り、彼女の周囲にマブイの行き場を失わせる「負圧の檻」を作り出す。
* 第二式:【論理の楔】
担当は算盤陣。妙子の作った檻の中で、葵の真横に並び、混濁した彼女のマブイ波形に対し「逆位相」の信号を全出力で叩き込む。彼女の脳内に直接「計算のノイズ」を送り込み、一瞬だけコアの支配権を奪い、深淵に「亀裂」を入れる。
* 第三式:【全損点火】
担当は速水健吾。葵が怯んだコンマ一秒の隙。健吾がスーツの**コアの殻を完全にパージ(破棄)**し、むき出しの心臓を直接彼女の深淵の中心へと叩き込む。その超高温で、混濁したエネルギーを根源から「焼き切る」。
「……速水。分かっているな? コアの殻を捨てれば、お前の選手生命はそこで終わる。物理的にコアが焼き切れ、文字通り、灰になるぞ。二度とペダルは回せなくなる」
算盤の冷徹な問い。重い沈黙が更衣室を支配した。しかし、健吾は鼻で笑うと、真っ赤に充血した瞳で二人を見据えた。
「元より、一瞬だけ最高に熱く回れりゃいいって決めてんだ。……算盤、妙子。あいつをあんな暗いところで『一人』にしておくのは、もう終わりだ。俺の全部を燃料にして、あいつを陽の当たる場所へ引っ張り出してやるよ」
妙子は小さく微笑み、算盤は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。三人のマブイが、初めて一つの目的に向かって静かに共鳴を始めた。
「……全く。バカな弟子を持ったもんだ。あんなに言ったのに、結局地獄へ直行か」
モニター越しに、阿蘇の不破源さんが深いため息をついた。その手元では、遠隔操作で健吾のスーツ『炎』の最終調整が行われている。画面には、いくつもの「WARNING」の文字が踊っていた。
「健吾、いいか。スーツの安全装置はすべてパージ用ボルトに置き換えた。決勝、お前がペダルを一漕ぎするたびに、お前の命が火花になって散る。それはもう『走り』じゃねぇ、魂の削り出しだ。……阿蘇の男がどんなもんか、最高の景色、見せてこい。骨は拾ってやる」
「……サンキュー、源さん。最高に熱いのを、一発決めてくるわ」
健吾は、熱を帯びたスーツのレバーを引き、パージ準備完了のサインを確認した。胸の奥の2,500のコアが、来るべき終焉を予感して、かつてないほど激しく、美しく脈打っている。
『GI全日本選抜競輪、決勝戦。選手入場です――』
アナウンスが小倉メディアドームの静寂を切り裂いた。
更衣室を出る三人の背中。先頭を歩く那須妙子の青い風。中央を行く算盤陣の黒い計算。そして、最後尾から白銀の陽炎を揺らす速水健吾。
バンク中央。
苦しげに首を振り、咆哮を上げそうなほど膨れ上がったマブイを抑えつける桜庭葵。
そして、その異様な光景を観客席の最前列で、微動だにせず見つめる男がいた。兄・清水誠。
「……壊れるか、超えるか。あるいは共倒れか。見せてもらおうか、貴様らの泥臭いマブイの『答え』を」
九人のレーサーが発走機につく。
電子号砲が、カウントダウンを始める。
からくり競輪の歴史が止まり、新しい伝説が爆ぜるまで、あと数秒。




