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からくり競輪 ー烈風のマブイー  作者: 水前寺鯉太郎
重賞挑戦編

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第二十一話:深淵の捕食

屋内バンクにおける「マブイ熱力学」の逆転現象

 小倉メディアドームのような密閉された「無風バンク」では、本来、先行選手が放出した熱エネルギー(マブイ排熱)は後続選手にとっての障害物となるはずである。熱せられた空気は密度を下げ、後続のセンサーを狂わせ、肺を焼く。しかし、この物理原則を根本から書き換える「特異点」が、この日、小倉の板張りの上で誕生した。

超流動同期スーパーフルイド・シンクロ: 通常、マブイは「放出」されるものだが、桜庭葵のコアは周囲の熱エネルギーを「吸引」する負の圧力を生成する。

マブイ・ドレイン(魂の捕食): 先行する速水健吾が命を削って放出した「高圧マブイ」を、自らのスーツ『萌葱(MOEGI)』の推進剤として強制変換する技術。敵の攻撃(熱)を自らの加速(糧)に変える、からくり競輪史上、最も残酷な「寄生型加速」である。


 小倉メディアドーム、最終第4コーナー。

 健吾の「薄殻高圧シン・コア」が臨界点に達し、白銀のプラズマがバンクを焦がしていた。残り50メートル。健吾の視界は過負荷で真っ赤に染まり、心臓は爆発寸前のエンジンめいた異音を立てている。

 「葵ィィィ! これが俺の……全開だァァッ!!」

 健吾の絶叫。しかし、その背後に迫る影――桜庭葵は、驚くほど静かだった。彼女の瞳には、かつての天真爛漫な輝きはなく、底の見えない深緑の闇が淀んでいる。

 「先輩……その熱、とっても綺麗です。でも、届かない。……いただきます」

 葵がサドルから腰を上げた瞬間、物理法則が悲鳴を上げた。

 バンクに漂っていた健吾の猛烈な排熱マブイが、まるで巨大な磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、彼女のスーツ『萌葱』へと濁流となって吸い込まれていったのだ。

 これが、覚醒した葵の真の力――【マブイ・ドレイン(魂の捕食)】。

 健吾が文字通り命を削り、血管を焼き切ってまで作り出した「絶対的な熱量」は、葵にとって抗うべき抵抗ではなく、自らを加速させるための「最高級の燃料」に過ぎなかった。


 「なっ……!? 加速して……いや、滑っているのか!?」

 健吾の番手(二番手)で、完璧な差しを狙っていた算盤陣が絶句した。

 葵の挙動は、競輪の常識を逸脱していた。彼女はペダルを力任せに踏み込んでいるのではない。健吾が放出した莫大な熱エネルギーを自らのスーツ内で「超流動体」へと変換し、空気抵抗も路面摩擦もゼロにした状態で、空間そのものを滑り降りてきたのだ。

 算盤の精密な演算装置が、葵の予想軌道を弾き出す前に、彼女の影が音もなく彼の横を通り過ぎた。多摩川の風も、小倉の静寂も、彼女の通過に反応することすら許されない。ただ、彼女が通り過ぎた後には、すべての熱を奪い去られた「絶対零度の真空」だけが残された。


 残り30メートル。

 健吾は、コアの殻が内側から弾ける寸前の苦痛に耐えながら、最後のハンドル投げ(ゴール前勝負)にすべてを賭けていた。しかし、彼の目の端に映ったのは、信じられない光景だった。

 涼しい顔で、汗一つかかずに。

 まるで散歩でもしているかのような軽やかさで、自分を抜き去っていく葵の横顔。

 「おやすみなさい、健吾先輩。……ごちそうさまでした」

 葵がゴール板を通過した瞬間、ドームを包んでいた熱狂は、凍りついたような静寂へと一変した。観客は歓声を上げることすら忘れ、目の前で起きた「捕食」の儀式に呆然と立ち尽くした。

1着:桜庭 葵(立川)

2着:速水 健吾(阿蘇)

3着:算盤 陣(京王閣)

 コンマ数秒の差。しかし、それは健吾が人生をかけて積み上げてきた「熱」が、葵の「深淵」にとってのただのデザートに過ぎなかったという、絶望的な事実を突きつけていた。


 「……強すぎる。あんなの、もう競輪じゃないわ。ただの『怪物』よ」

 観客席のあちこちから、溜息に近い落胆の声が漏れる。強すぎる才能は、時に競技そのものを破壊する。1着で入線したものの、葵の表情に歓喜の色はなかった。1位の敢闘門へ向かう彼女の瞳は、以前よりもさらに深い孤独の色を湛えている。

 「……また、一人になっちゃった。先輩の熱を全部食べたら、もっと温かくなれると思ったのに。……まだ、寒いよ」

 一方、2着でなだれ込んだ健吾は、ゴール直後にスーツの排気口から真っ赤な血混じりの蒸気を噴き出し、糸が切れた人形のようにバンクへと倒れ込んだ。

 「薄殻コア」は限界を迎え、ひび割れた殻から漏れ出す制御不能のマブイが、小倉の板張りの床をジリジリと焦がしている。

 「……ハァ、ハァ……。クソッ、あいつ……俺の、魂(熱)を、丸ごと食いやがった……」

 健吾は意識が遠のく中、空っぽになった自分の胸の奥の空洞を感じていた。全力を出した。それ以上の何かを奪われた。


 3着に入った算盤陣は、停止した自分の自転車の上で、目に見えて震えていた。

 「……僕のデータが……すべての数式が、あの一瞬で書き換えられた。先行の熱を吸って加速する? 敵のエネルギーを奪って自分のものにする? ……そんな、エントロピーに逆らうような数式、この世界に存在していいはずがない」

 算盤は、バンクに倒れ伏している健吾を見下ろした。その瞳には、かつての蔑みはなく、共通の「敵」を見据える共闘の火が灯っていた。

 「速水……聞こえるか。次だ。決勝で、君のコアを本当に『全損』させるつもりで叩かなければ、あの怪物は止められないぞ。僕も……僕の計算のすべてを、君の火種に注ぎ込む。……あの深淵を、今度こそ蒸発させるために」

 小倉メディアドームの天井から降り注ぐ照明が、倒れた健吾と、立ち尽くす算盤、そして闇へと消えていく葵を照らし出していた。

 予選は終わった。しかし、健吾は「食われた」ことで、葵の底知れぬ深度が単なる才能ではなく、一種の「飢え」であることを肌で知った。

 決勝戦。そこは、捕食者が獲物を喰らい尽くす饗宴の場となるのか。

 それとも、空っぽになった男が「無」から生み出す逆転の火花が、深淵を焼き払うのか。

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