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転がる卵のサウダージ 10

「ミロンさん、入りますよ」


 扉を叩くが、返事はなかった。何度か白い息を吐き出したが、これまでのようには簡単に開けてくれそうにない。僕とピアルは顔を見合わせて、もう一度ノックをした。


 どうしたんだろう……。僕はドアノブに手をかける。冷たい感触が手袋越しにも感じられた。

 ドアノブを捻ると、容易に扉が開かれる。仄暗い部屋の中に小さな明かりが灯っており、その下に、頭を擡げたミロンの姿があった。


 嫌な予感がする。何度か若者たちが変わり果てた姿で戻ってくるのを見て来た。この年老いた老人もやはり、手招きを受け入れてしまったのだろうか?


「ミロンさん!」


 僕は老人に駆け寄る。汗臭さと、加齢臭と共に、それにも増して嫌な臭いが鼻をつく。そして悪化した水虫のした爪先を投げ出したまま机に突っ伏すミロンは、僕の手で背中を摩るとそのまま床に崩れ落ちた。


「爺さん!」


 ピアルも駆け寄ってくる。僕は「来るな!」と叫び、固まったピアルを見て、深い深呼吸をする。何度か嗅いだことのある臭いに口元を覆いながら、ピアルに視線を向けた。


「……医者を呼んできて。死亡確認してもらわなくちゃ」


 ピアルは顔をくしゃりを歪めたが、直ぐに涙をためた瞳を拭い、「待ってろ」と言って部屋を出て行った。


「ミロンさん……お誕生日、おめでとうございます」


 僕は彼の胸元に本を置く。静かに彼の手を本に添えさせ、青白く、堀も深くなった顔を静かに布で覆った。

 不意に、彼の突っ伏した机を見る。そこには、ピアルの言っていた通りに「書き物」があった。


 震えたペン先がきっちりと、「完結」の文字を書ききっている。僕はその紙切れの冒頭に視線を送り、流し見の要領でびっしりと書き込まれたそれを呼んだ。


「これは……」


 僕はミロンを見る。人差し指に出来た立派な豆は硬直し、その他の指にも年季の入った豆の跡がいくつもあった。

 僕は、今度は大量にある未清書の書き殴りの頁を食い入るように読み耽った。


 所々に拙い挿絵が組み込まれた製本前の紙束には、とある動物の日記が記されていた。最後の最後まで、終に終わる事のなかった孤独を、見守り続けた潤んだ瞳は、訴えかけるように毎日の孤独と、仲間の引き千切られた角と、それを見過ごし続けてきた自分の逡巡の繰り返しを綴り続ける。


 医者がやって来てもお構いなしに、僕はこの不思議な書き物に熱中した。逆から頁を捲り、終に彼は、自分の「残せるもの」が終わっていくのだと悟るまでの経緯を事細かに語り始める。残した子もどうせ死ぬのだ。角を切り取られ、それが市場で煎じ詰められるのだ。そんな身もふたもない言葉が果てしなく続く。


 やがて最初の頁に行きついたとき、彼は嬉々として、こう綴って始めた。


『やっとの思いで、自分が遺せるものに気付いたのは、17歳か幾らかの時だ。救貧院に入れられ、精神薄弱児として迎え入れられた時に、耐えかねた私が放浪の末に辿り着いたウラジーミルの海岸で、いよいよと書き染めようと思うに至った。私にとってそれは艱難辛苦を伴うものだろうが、やがて書き終えた暁には、これは私と共に葬り去られるべきだろう。そうする事によって、私の中に永遠に語り継がれる者になるから。』


 続けて、少し新しいインクの染みが、少し流暢になった文字で続ける。


『教会が教えてくれた文字は私の支えだったが、もう一つ柱になってくれたものがあるとしたら、それはやはり異国の貴族の男だろう。彼は普段から困ったような顔で笑う、穏やかな男だ。私と同じように絵も描くが、私と違ってこれを公然と公開する。しかし、彼の手を汚すインクの染みは澄んでいて、私はその手を取る事を楽しみにしている。いつか、彼の手に渡るなら、私の生涯の記録も上手に処分されて、部屋もきれいさっぱり清掃される事だろう。遺せるものの事を、誰にも話さないでいてくれるだろう』


 医者とピアルの状況説明の声で、現実に引き戻される。僕は数百枚に上る原稿をまとめ、立ち上がった。何事かと顔を持ち上げた二人の視線が、僕の背中を追う。僕は簡素な書棚の中に並ぶ、大量の書籍の背表紙を確かめた。


『わが生涯の記録』


 タイトルには、そうあった。


「こんなもの、「処分」出来るわけないでしょう」


 指先が、永遠を語る記録の背表紙をなぞった。



挿絵(By みてみん)


キタシロサイ

 学名:Ceratotherium simum cottoni


 アフリカ中部に生息する、シロサイの亜種。サバンナに生息し、小規模な群れを形成して生活する。オスは角を用いて縄張りを巡って争う事があるが、激しい争いになる事は少ない。

 角は中国において薬用で用いられていたため、これを求めて乱獲が行われたほか、主に放牧地や農地開発の目的で生息地が開発され、生息数を減らした。内紛の影響もあり、保護が遅れた事で、1990年ごろから野生での確認がほとんどされなくなり、2008年に野生絶滅したとされる。


 また、最後の雄は2018年に死亡し、現在は2頭の雌が保護されている。

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