第26話 転校生・新条麗奈⑥
「麗奈、おはよ」
私が席に鞄を置きに来た時、すでに席に座っていた悠真くんが声をかけてきた。
今日は本を読んでいない。
眠たそうでもない。
ただ、いつもの自然な顔で、こちらを見ていた。
「お、おはよ」
思わず声が上擦った。
私から挨拶しようと思っていたのに。
「麗奈、どうかしたのか? 顔、少し赤いぞ。風邪か?」
「な、なんでもないから!」
私はそう言って、すぐに背を向けた。
そして昨日一緒にカフェへ行った子たちの輪に、逃げ込むように入っていく。
悠真くんの顔を、まともに見られない。
ママがあんなことを言うから。
いや、そもそも私があんなことを聞いたせいなのかもしれない。
昨夜。
夕飯を食べ終えたあと、私たちはそのまま食卓を囲んで話していた。
ママが淹れたコーヒーのカップが、パパの前に置かれる。ママも自分のカップを持って席に座った。
「ねぇ、ママ」
「ん?」
「ママって、パパのどこが好きで結婚したの?」
私がそう聞いた瞬間。
「ゴホッ、ゴホッ!」
パパがすすっていたコーヒーで盛大にむせた。
「ほらほら」
ママは苦笑しながら、パパにティッシュを差し出す。
「ありがとう……」
パパは受け取ったティッシュで口元を拭った。
「まだついてるわよ。ほら、ここ」
そう言って、ママは手にしたティッシュでパパの頬をそっと拭う。
「あ……」
「どうしたの、麗奈?」
「う、ううん。なんでもない」
一瞬、今日の昼休みのことを思い出してしまった。クリームパンを食べた私の口元に、悠真くんがティッシュを近づけてきた時のこと。
途中で止めて、紙を手渡してくれたけれど。
あの時の距離と、心臓の音を、まだ覚えている。
「私とパパの出会いねぇ」
ママは席に座り直すと、カップに口をつけた。
「一目惚れ」
「え!?」
「一目惚れよ。二人とも」
パパがそっと顔を逸らす。
きっと、真っ赤になっているに違いない。パパは照れると、いつも顔を背ける。
「高校二年生の時。クラスが一緒になって、初めてパパの顔を見たの。特別かっこいいわけじゃないんだけど、なぜかどんどん気になってきて」
「特別かっこいいわけじゃない……」
「そこだけ拾わないでくれないか」
パパが小さく抗議する。
ママは楽しそうに笑った。
「それでね。私、次の日にパパへ手紙を出したの」
「そ、それってラブレター?」
「そう。そしたらね、パパも私にラブレターをくれてたの」
「えっ」
「お互いの机の中にラブレター入ってたのよ。おかしいでしょ」
ママは懐かしそうに目を細める。
「私としては、気になるんだから付き合ってみればいいじゃない、くらいの気持ちだったの。でも、パパからの手紙を読んだら、じわっときちゃって」
「じわっと?」
「うん。ああ、もうこの人だ、って」
パパはさらに顔を背けた。
「それで、付き合うことになったの?」
「そう。出会って二日」
「二日……」
特別かっこいいとは思わなかった。
でも、なぜか気になる。
目で追ってしまう。
もっと知りたくなる。
……それって、もしかして、私も……?
「何? 麗奈も気になる人ができたの?」
「ほ、本当か麗奈! まだ転入初日じゃないか! パパは許さないぞ!」
「いないから! そんな人いないから!」
私は慌てて両手を振った。
ママは、ふふっと笑う。
「いいじゃない。もう明日告白しちゃえば? 麗奈はかわいいんだから。どんな男の子だって、きっとすぐ落ちちゃうわよ」
「ゆ、許さないぞ!」
「うるさーい!!」
そう言って私は自分の部屋に逃げ込んだ。くすくすという笑いがママから漏れているのが、たまらなく恥ずかしかった。
◇
「ここ、どこ……?」
二時間目の移動教室で理科実験室へ行かなければならないのに。
私は見知らぬ廊下の真ん中で、完全に立ち尽くしていた。
みんなと一緒に移動している途中、ノートを忘れたことに気づいた私は、「先に行ってて」と言い残して教室へ取りに戻った。
そこまではよかった。問題は、そのあとだ。
私は、迷っている。
スマホを見ると、なぜか圏外。
そういえば昨日、悠真くんに案内してもらっている時、電波が弱い場所があると言っていた気がする。
とりあえず電波の入る場所まで出よう。そう思って歩き出しかけた、その時だった。
廊下の向こうから、見覚えのある顔がこちらへ歩いてくる。
教科書を胸に抱えるように持った、メガネの女の子。
図書室にいた、あの子だ。
私は思わず彼女に駆け寄った。
「あ、あの……」
「新条先輩、こんにちは」
「こ、こんにちは」
昨日感じた、あの敵意のようなものはまったくない。
やっぱり、あれは私の勘違いだったのだろうか。
「こんなところで、どうされました?」
「あ、あの……迷っちゃって。理科実験室って、どこかな?」
「ああ……それなら」
彼女は、廊下の先に見える別の校舎を指さした。
「あちらの新校舎、三階の奥です」
「ありがとう! ええと……」
「失礼しました。昨日、ちゃんと自己紹介していませんでしたね」
彼女は小さく頭を下げる。
「私は一年の夕凪栞です」
丁寧すぎるくらい丁寧な口調。けれど、それが妙にこの子には似合っていた。
「夕凪さん、ありがとう」
お礼を言って、私は背を向けようとした。
「新条先輩」
「えっ」
まさか彼女の方から声をかけられるとは思っていなかった私は、驚いて立ち止まる。
夕凪さんは、メガネの奥で静かな目を私に向けていた。
「本気にならない方がいいですよ」
背筋に、冷たいものが走る。
「きっと、後悔しますから」
「……それって、どういう……」
意味なのか。
そう聞こうとしたのに、声がうまく出なかった。
「それでは、私はこれで」
夕凪さんはぺこりと頭を下げると、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。
私は、彼女の姿が見えなくなるまで、その背中を見送っていた。
本気……。
後悔……。
胸の奥が、もやもやする。
なんなのだろう。
あの子は、何のことを言っているのだろう。
「おーい、麗奈!」
新校舎の方から声がした。
見ると、悠真くんがこちらに向かって手を振りながら走ってくる。
「悠真くん!?」
「いつまで経っても来ないから、迷ってるんじゃないかと思ってさ。ほら、こっち。行こうぜ」
その言葉を聞いた瞬間。
さっきまで胸に広がっていたもやもやが、一瞬で晴れた気がした。
「うん!」
私は小走りで、彼の背中を追いかける。
ここで悠真くんの背中に抱きついたら、どんな反応をするだろう。
そんなことを考えながら。
⭐︎⭐︎第27話につづく⭐︎⭐︎




