第12話 十人目・皇絢音⑥
私は、悠真くんが好きだ。
あの日。
この街へ引っ越してきた私は、桜ヶ丘学園の附属幼稚園に入った。
皇グループ会長の孫娘。
その肩書きはあまりに大きすぎた。
粗相のないように。
失礼のないように。
機嫌を損ねないように。
大人たちは皆、まるで腫れ物に触るみたいに私を扱った。
そして子どもたちは、大人の空気にとても敏感だ。
誰も私をいじめなかった。
誰も私に意地悪なんてしなかった。
ただ、遠巻きに見ていた。
すでにできあがっていた輪の中に、私の入る余地はなかった。ないはずだった。
でも。
凛の手を引いた悠真くんは、もう片方の手を私に差し出してくれた。
「いっしょにあそぼ」
そう言って笑ってくれた悠真くんの顔を、私は今でも忘れられない。
きっと、一生忘れない。
私は悠真くんが好きだ。
でも、同じくらい、凛も大事。
私が転びそうになった時、自分が怪我をすることも顧みずに庇ってくれた凛。
私の隣で笑ってくれた凛。
私を、特別扱いしなかった凛。
そんな凛が、私は大事。
そして凛も、悠真くんが好きだった。
たぶん、私と出会う前からずっと。
本人は絶対に口にしなかった。
照れ屋で、意地っ張りで、素直じゃない凛は、そんなことを簡単に認める子じゃなかった。
けれど、私には分かった。
悠真くんを見る時の凛の目は、いつも少しだけ柔らかかったから。
だから、私は悠真くんを好きになってはいけないと思った。
凛とは親友だから。
凛が大事だから。
附属小学校に上がる頃、私は悠真くんのことを「朝倉くん」と呼ぶようになった。
自分から距離を取った。
近くにいると、気持ちを抑えられなくなるかもしれなかったから。
小学四年生の頃、運動会のリレーで転けた悠真くんが泣いているのを見たとき、私は本当は抱きしめたかった。悠真くんは悪くないよ。って。でも私はただ黙ってハンカチを渡すことしかできなかった。それ以上近付けば、もう我慢できそうにないから。
距離が足りない。
仮面が足りない。
高等部で生徒会長になってからは、「朝倉悠真さん」と呼ぶようになった。
仮面の上に、また仮面を重ねた。
幼馴染としての私に、
凛の親友としての私。
皇家の人間としての私。
そして生徒会長としての私。
そうやっていくつも蓋を重ねていれば、この気持ちも抑えられると思った。
早く、悠真くんと凛が恋人同士になってほしかった。
そうすれば、私は諦められるから。
そうすれば、この恋はなかったものにできるから。
だけど。
凛が悠真くんを振ったと聞いた時、私の中で仮面が一つ、音を立てて割れた。
凛が悠真くんを好きじゃないなら。
凛が悠真くんを選ばないのなら。
私が悠真くんを好きになっても、いいの?
そう思ってしまった。
思ってしまったのに。
今、凛の目を見た瞬間、私は分かってしまった。
◇
「凛……どうしてここに」
無意識のうちに口からこぼれ落ちた俺の声は、夕陽にかき消されたかのようにか細かった。
石段の最上段。すこし肩で息をしていた彼女の右手には、画面が暗転したままのスマートフォンが握りしめられていた。
「メッセージでここに来るように言われて。……悠真たちこそ、どうして」
凛の声はひどく震えていた。その瞳は大きく見開かれ、俺と絢音の姿を交互に巡る。そして、彼女の目から、すっと温度が失われていくのが分かった。
「凛……これは……その」
俺は必死に言葉を探そうとした。だが、舌が石のように重く、言葉が紡げない。ここで誤魔化すことは、俺自身の覚悟と、絢音への気持ちを裏切ることに他ならない。
「……悠真。またそんなことやってるんだ」
ぽつりと、凛が自嘲するように笑った。その顔は泣き出しそうなのに、無理に作った笑みが痛々しい。
「邪魔しちゃったみたいだね。ごめん」
それだけ言い残し、凛はくるりと踵を返した。
長い黒髪が夕風に舞う。彼女は石段を駆け降りていく。タタタッという足音だけが、静かな公園に虚しく響き渡った。
「凛、待って……!」
弾かれたように我に返った絢音が、凛の後を追おうと一歩を踏み出した。
だが、俺は反射的に腕を伸ばし、絢音の細い手首を掴んで、強く引き止めてしまった。その衝撃で絢音が持っていたぬいぐるみが公園の芝に転がった。
「悠真くん……」
立ち止まった絢音が、ゆっくりと振り返る。
彼女は俺に掴まれた自分の手首を見つめた後、その手をそっと自身の両手で包み込むようにして、胸元へと引き寄せた。ただ、指先から伝わる彼女の体温は、ひどく冷たかった。
「悠真くんの気持ち、本当に……本当に嬉しかった」
震える声。夕陽の黄金色を反射する切れ長の瞳は、揺れていた。それを隠すように目を伏せる。
「でも、ダメです。私はやっぱり、凛を裏切ってまで、悠真くんの気持ちに応えられるほど……強くないんです」
「凛を裏切るって……だって、あいつは俺のことなんて……」
俺は凛に振られたのだ。好きじゃないと全否定され、ビンタまで食らった。何が裏切りになるというのか。
だが、絢音は首を横に振った。そして、再び俺を真っ直ぐに見据えると、公園の静寂を切り裂くような悲痛な叫びを上げた。
「悠真くんは本当にバカです!! 信じられないくらい、大バカです!!」
「え……」
「さっきの凛の顔を見てもわからないんですか! 凛が貴方のことを好きじゃないなんて、あるわけがないじゃないですか! 凛は……凛は、幼稚園の頃からずっと、貴方のことが好きだったんです!」
「でも、あいつは俺の告白の時、髪を巻く嘘の癖が出なかった……だからあれは本心で……」
「そんなの、突然の告白に驚きすぎて、癖が出る余裕すらなかっただけに決まってるじゃないですか! 凛が照れ屋なのは、貴方も知っているでしょう!」
——凛が、俺を好きだった。
じゃあ、あの『あんたなんて好きでもなんでもない』という拒絶は、俺の告白があまりにも急すぎたことによるパニックだったというのか。
そこまで考えた時、俺の脳裏にある記憶がフラッシュバックした。
五十メートル走のグラウンド。綾香に告白してからの勝負。その直後、グラウンドから出る時に鉢合わせた凛から受けた、無言の強烈なビンタ。
……そうか。じゃああのビンタは。
「あ、あぁ……」
足元が、音を立てて崩れ落ちていくような感覚だった。
目の前の景色がぐらぐらと回り、歪んでいく。
俺は、ずっと俺を想ってくれていた凛の心を、自分自身の手でズタズタに引き裂いていたのだ。
「私……今日一日、本当に幸せでした」
呆然と立ち尽くす俺に、絢音が優しく語りかける。
「悠真くんに『絢音だけ』って言ってもらえて……うさぎ、買ってくれて……私をこの場所に連れてきてくれて。そして……好きと、言ってもらえて」
絢音は、無理に口角を上げて、美しく、そしてどこまでも切ない笑顔を作った。
「ありがとうございました。……そして、これは幼馴染の絢音としての、お願いです。……凛と、ちゃんと話してください」
絢音が、包み込んでいた俺の手を、ゆっくりと離した。
指先から冷たい温もりが消え、彼女が一歩、また一歩と後退る。
「《《朝倉悠真さん》》、ではまた学園で。……さようなら」
その声は、もう先ほどまでの『悠真くん』と呼んだ声ではなかった。生徒会長らしく冷静で、なのに微かに震える声だった。
絢音はくるりと背を向けた。転がったぬいぐるみの入った袋をサッと持ち上げる。
そして、凛の後を追うように、足早に石段へと向かって走り去っていく。
「待ってくれ、絢音っ!」
俺は叫んだ。だが、追いかけようとした俺の足は、まるで鉛のように重く、地面に縫い付けられたように一歩も動かなかった。
どこからともなく黒いスーツ姿のガタイのいい男が二人現れた。彼らは立ち尽くす俺を冷ややかに一瞥すると、無言のまま絢音の後を追っていった。
ぽつり、と。
その場に呆然と立ち尽くした俺の頬に、小さな水滴が一粒、飛んできた。
空を見上げる。茜色の空は抜けるように澄んでいて、白い雲がところどころに浮かんでいるだけで、雨が降る気配など微塵もない。
なら、この水滴は何なのだろうか。
ざぁ、と風が吹き抜け、俺の頬を撫でて水滴を攫っていく。
その風に乗って、どこからか、シュッシュッという音が聞こえた気がした。
ひどくリズミカルで、無慈悲な音。
だが、それが何の音なのか、今の俺は思考を回す気力すらなく、ただ夕陽の中に独り、立ち尽くすことしかできなかった。
⭐︎⭐︎第13話に続く⭐︎⭐︎




