それぞれの日々 2
「――は? 『虫』、だと……?」
途端に皇帝である伯父は嫌そうな顔をした。……伯父は幼い頃レティシアの母にやられた『虫』攻撃の事を思い出したのだろう。
「……そうです。『虫』です! やはり心を閉ざした子供にはある程度楽しい『刺激』が必要だと思うのです!
私はここはお母様がされたという『虫作戦』で参りましたの!」
そう自信たっぷりに言ったレティシアに、伯父は若干顔を引き攣らせて言った。
「『虫作戦』……。それは、果たして楽しいのか? 私には理解出来ないが……。確かに刺激はあるだろうが、女の子にそれはどうかと思うぞ?」
「伯父様。……流石に私も子供の頃ならいざ知らず、今は虫は掴めませんわ。ですから、昆虫を虫カゴに入れてもらって持って行ったのです。
……やはり、皇女の周囲の者たちは私を警戒しましたわ。けれど私は伯父様の権威を振り翳して強行いたしましたの!」
どうだ! と言わんばかりに胸を張るレティシアに皇帝は頭を抱えた。昔は虫を触れたのかとか権威を振り翳すとはとか色んな事が頭をよぎる。
「……レティシア。……いや、何も言うまい。お前はやはりあのヴァイオレットの娘なのだな……」
伯父はかなり遠い目をしてそう言った。
……レティシアは従姉妹を訪ねて離宮へ行った時の、彼女の部屋へ辿り着くまでの問答を思い出す。
普段はあり得ないし、これからもそんな事をする気はサラサラないが、『私は皇帝である伯父様の使いで参りましたのよ!』と胸を張って言い切り、古参の女官達をやり込めるのはなかなか痛快だった。
そしてそんなレティシアの話はまだまだ続く。
「私はそうして皇女を変に囲い込む使用人達を跳ね除けて、従姉妹ヴァネッサの元へ行ったのです。……彼女は1人、本を読んでいましたわ。部屋に入って来た私にも気付かずに……。
まあ、気付かれないようコッソリ入ったのですけれど」
「…………」
伯父である皇帝は、黙ってレティシアの話を聞いていた。……本当のところはレティシアの行動に幼き日のヴァイオレットの姿を見てしまい、なんとも言えない気分になったからなのだが。
――そして、前皇帝の一人娘、ヴァネッサ ヴォール。現在8歳。前皇帝が亡くなった時はまだ2歳で父の顔も覚えてはいない哀れな悲劇の皇女。その後母である王妃側の実家の者達に囲まれて離宮に幽閉状態とされている。……だがその実、現皇帝の庇護のもと身の回りの物や教育費など充分な資金がかけられている。
ヴァネッサ皇女の周囲の者達は、皇女ヴァネッサに今のその生活が成り立っているのは現皇帝のお陰である事を伝えず、そして彼らは過去の栄光にすがり囲い込みヴァネッサの健やかな成長を妨げている。
「そこで私は、『虫作戦』を敢行したのです! ……本を読み続けるヴァネッサ皇女の近くにそっと忍び寄り、そこに虫カゴを開けて皇女の側に行くようにしたのです」
「虫カゴを、開けて……? 皇女のそばに虫を放ったのか……」
伯父はその光景が目の前に浮かんでゾッとした。
「……はい。ねぇ、伯父様。ヴァネッサ皇女は父である前皇帝の事を知りません。……けれど、彼女は前皇帝から誕生と共に贈られた本を大切に持っておられました」
急に口調が変わったレティシアをどうしたのかと思って伯父はレティシアをじっと見た。
「……それは、昆虫図鑑などの色んな虫が載った本。前皇帝は娘が生まれたと知って、それらの本を用意したそうです。そしてヴァネッサ皇女はその本を宝物のように大切にされていました。……ですから私が用意した虫達は、結果的にヴァネッサ皇女にとても興味を持っていただき喜んでいただけたのです」
「『昆虫図鑑』……? 兄上が、生まれた娘にそんな物を……。……兄上は、虫などは大変お嫌いであったのに」
伯父は信じられない思いで呟いた。
「ヴァネッサ皇女は小さな頃から父皇帝の形見でもあるその図鑑などをご覧になり、昆虫博士かと思う程に詳しくていらっしゃったそうです。……私の持ってきた虫を、とても興味深そうにご覧になって。そのあとは目を輝かせて私とお話ししてくれました」
「ッ! ……ヴァネッサ皇女が、それで心を開いたと……? 今までどんなに女の子が好きそうな物を贈っても無反応であったというのに……」
レティシアは、それはもしかして周囲の者がきちんと伯父である皇帝からの贈り物だと伝えなかったからかもとは思ったが、本当のところは分からないので黙っておいた。
「そうなのです。ですので私はこれからヴァネッサ皇女を出来るだけ外に連れ出そうと考えております。勿論、伯父様の目の届く範囲でですが。そして近い年齢の子供達との交流などもさせるべきではないかと思うのですが……」
離宮は大きな立派な建物とはいえ、外に出られず一日の殆どを部屋で過ごすなど健康な子供にとって良い環境とはいえない。
伯父は少し考える。
今まで兄皇帝を主人と定めた者達が現皇帝である自分を敵視し囲い込んでいた前皇帝の忘れ形見。
前クライスラー公爵やその派閥の者達が皇女をまた帝位争いに担ぎ上げ、再び帝国が乱れるような事がないように厳しい監視付きで幽閉する事でそれをある程度認めていた。
近頃やっと帝国も安定し、今や前皇帝派として活動する貴族はいないだろう。現在皇帝の自分の力は既に確立されている。前皇帝の忘れ形見である皇女は未だ幼く、1番の前皇帝派だったクライスラー公爵家も代替わりした。今更小さな貴族達が皇女を支持していく利点がないのだ。
それに今新たにレティシアという皇女の娘が現れた。そして皇位継承権だけでいえば皇女の降嫁したクライスラー公爵家も持っている。現在皇位継承権は2位のヴァネッサ皇女だが、強い後ろ盾のない彼女には今更皇位が流れる事はない。
何より今、貴族も国民ももう争い事は望んでいないのだ。
「……レティシアの、思うようにするが良い。しかし分かってはいるだろうが皇女の立場は不安定だ。今の貴族達は前皇帝派ではない者達で占められている。皇女を守る為に護衛は必ずつけさせてもらう事になる」
「……ありがとうございます! ……ねぇ、伯父様。私思うのですけれど……。前皇帝は、やはり母の事……妹であるヴァイオレット皇女の事を好きでいてくれたのかなと……」
レティシアは会った事もない母の1番上の兄である伯父は、現皇帝である伯父から昔の話を聞くに相当妹皇女の悪戯に困っていたようだったが……。
案の定、目の前の伯父も微妙な顔をした。
「兄は……、勿論ヴァイオレットの事を嫌ってなどはいなかっただろうが……。兄はヴァイオレットの事をいつも困った顔で見られていた印象しかない。ヴァイオレットが年頃の娘になった時には流石に酷い悪戯はなくなったのだが、一度付いた印象というのはなかなか取れず彼女が現れるといつも何か身構えておられたな……」
年頃の娘になって、酷い悪戯はないものの小さな悪戯はしていたんでしょうね……。お母様ったら……。
「……でも、前皇帝は女の子が生まれたと知ってわざわざ『虫図鑑』などを用意されたそうなのです。……その辺りは後で皇女の乳母の方などに聞いたのですけれど、不思議がられて……いえ納得されていないご様子でしたわ。ヴァネッサ皇女はすっかり虫などにご興味のある女の子にお育ちでしたし。他に女の子らしい本や王子様が出てくるような物語などをご用意しても全くと言っていいほど興味を示されないのですって」
その話を聞いて、皇帝はヴァネッサ皇女と2人で会うのはやめようと思った。……ヴァイオレットの時のように虫をポンと渡されてはたまらないとゾッとした。
「それは困った事だ。……何故兄上はたった1人の娘にそのような……」
「……それは、前皇帝が母を憎からず……大切に想ってくれていたからではないでしょうか。
ご自分の娘に、母を……妹である皇女を重ねられたのでは。私にはそう思えてならないのです……」
伯父はジッとそれを考える。
兄は、あの悪戯な妹をどう思っていたか?
いつも妹皇女を困った顔で見ていた兄。……しかし、我ら3兄妹の絆を固く結んでくれたのは間違いなく妹ヴァイオレット。そして兄はどんなに酷い悪戯をされても他の大人たちには言わず、必ず弟である自分に相談していた。それは私たちだけの共通の話題であり、そして我らの絆の証……。
母の同じ兄である自分だけでなく、あの兄も妹ヴァイオレットを大切に想っていた、と。そういう事だったのか……。
自分の娘にヴァイオレットのようになって欲しいと願いを込めて、生まれた時に『昆虫図鑑』などを用意した程に兄はヴァイオレットを愛してくれていた。
ジークベルトは胸がじんわりと温かくなった。
「……そうだな。そうかもしれない。あの兄も、ヴァイオレットを大切に想ってくれていたのか。……我らは本当はとても仲の良い兄妹だったのだな……」
その言葉を聞いたレティシアはとても嬉しくなり微笑んだ。
◇ ◇ ◇
それからヴァネッサ皇女は決められた日には帝城に上がる事を許された。現皇帝派の貴族の子供達と関わる事を許され、元よりいた離宮の使用人達で皇女に悪影響があると判断された者は解雇された。
レティシアのヴォール帝国滞在中は一緒に出かけたりしてレティシアお姉様と呼んで慕ってくれた。
……が、皇帝はヴァネッサ皇女と会う時は虫などを出されないように、必ず人をたくさん置くなどの対処をしたのだった。
お読みいただき、ありがとうございます!
レティシアは小さな頃は虫を触れる子でした。コベール子爵家に養女に行く頃にはそんなに触れる事はなかったのですが、学園で農作業をする時には触ろうなら触れる、位になってました。




