【インベーダー】(1)
あ~、疲れたと、助手席に乗り込むなり、脱いだ背広を後部座席に放り投げ、ネクタイを緩める鳴滝に、醒ヶ井はアイマスクを僅かばかりずらす。そして昼下がりの陽気に微睡む心地良さの未練を断ち切るように、マスクを外した。
ゴミ箱をチラリと見れば、ざる蕎麦のパックが小さく折りたたまれて捨ててある。どうやら、鳴滝が会議に出席している間にコンビニで手軽に腹を満たし、食後の昼寝に勤しんでいたらしい。何ともいい御身分だ。あと、健康に良くないと何度も口を酸っぱく言っているにも拘らず、懲りずに出汁を全て飲み干したらしい。偶には若造の言葉にも耳を傾けろってんだ、この好々爺。喉乾いても知らねぇぞ。
「わかがし、煙草は?」おにぎりがいくつか入ったビニール袋を渡す老人に、「外で吸ってきた」と答える。仮にも警察が法律を守らぬわけにはいかない。シートベルトを着けてから、本日の昼食を受け取った。袋の中を見れば、焼き鱈子に博多明太子、それから鱈子マヨネーズ。よくぞここまで鱈子攻めができたものだと感心の念さえ覚える偏りまくったセレクション。余談になるが、別に鳴滝は狂った魚卵好きという訳ではない。
「どっちかってぇと、俺、魚より肉派なんだけど」
「他のは殆ど売り切れておってなぁ。昼過ぎの陳列棚は寂しいもんじゃ」
醒ヶ井は眉一つ動かさず、しれっとそう宣った。
「成程」鳴滝は厳かに頷きながら、焼き鱈子を取り出し、老翁の言葉を復唱する。「殆ど、ね」
慎重に包装紙を外そうとするが、醒ヶ井が事前予告なくアクセルを踏んで車を動かした衝撃で、不格好に破けてしまった。透明なフィルムに挟まれた海苔は無事だったので、善しとしよう。大きく一口頬張った。「それで?」右足で助手席の足元に置かれたゴミ箱を軽く蹴る。「既に握り飯のゴミが一つ入ってるんだが」
コンビニの駐車場から車道へ進入するべく、サイドミラーを確認する、という体裁で醒ヶ井は鳴滝と目線を合わせようとしなかった。
———口に物が入っているときに、喋るな。はしたない。行儀が悪い。品がない。そして何より、汚らしく見える。
幼少時代、散々お世話になった師範により、厳しく行儀作法を叩き込まれた鳴滝は、仕方なしに文句は胸の中に留めておいた。代わりに、モシャモシャとおにぎりを食べつつ、心中でぶつくさと不平不満を念仏のように唱え続けることにする。そうすれば、とうとう我慢ならなくなったらしい。「唯一残っておった牛しぐれ煮は儂が食った」という自供が取れた。ふん、と鼻を鳴らす。やはり、尋問は粘り強さが効果的だ。食べ終えた焼き鱈子を覆っていたフィルムをゴミ箱に突っ込んで、明太子に手を伸ばした。
三分とかからずに軽食を完食し、赤信号で車が止まった隙に後部座席へと上半身を乗り出す。醒ヶ井は「あと10秒で変わるぞ」と急かした。こんなことなら、背広とともに鞄まで後ろに投げ込むんじゃなかった。鳴滝はひっそり反省する。まぁ、醒ヶ井にはこちらの心中など筒抜けだろうけども。
何とか信号が青に変わる前に助手席に座り直し、背もたれに全体重を預ける。鞄からお目当ての資料を取り出し、ざっと目を通せば、何も言わずとも醒ヶ井は「銭洗弁財天宇賀福神社」とカーナビに音声入力をした。阿吽の呼吸、以心伝心と得意げに胸を反らせてみたいところだが、生憎醒ヶ井は誰が相方であろうと、驚異的な察しの良さを発揮してみせる。
「厄介な事件が回ってきやがった」
「うちの課に回ってくるモンで、厄介ではなかったことなんてあったかのぅ」
「厄介具合が殊更に面倒臭ぇんだよ」
「まぁ、有名どころの神社ともなりゃあ、ご機嫌伺いも骨が折れるわい。袖下に握らせるモンでも仕入れてくか?」
「警官が賄賂に頼ってどうすんだ」
「何が相手の不興を買うか分からんじゃろうて。抑も、神という生き物は妖を見下すものよ。謂れのない濡れ衣を着せられた挙げ句、末代まで祟られんのは御免被る」
「これでも一応、準ツナギ業だぜ?いくら神様だろうと、俺らにそう好き勝手はできねぇさ」
「本音は?」
「……分かってる癖に、態々言わせたいって?若いモンを虐めて楽しいか、爺さん?」
「言ノ葉には魂が宿る。口に出すのと出さんのとでは大違いじゃ。言わねば伝わるモンも伝わらん」
「それをアンタが言うのかよ」
———覚の癖に。
出かかった言葉は喉奥に飲み込んだが、それでも鳴滝は確かに「思った」。他者の心を覗く化生は、容易く若造の心情を読み取ったことだろう。
とはいえ、年長者の有り難い教えを無視するのは良くない。ペラペラと資料を捲りながら、鳴滝は口を開く。「『いくら神様でも、そう好き勝手に手出しはできねぇと言い聞かせなきゃ、やってられっか』」
醒ヶ井はケラケラと快活に笑った。「そりゃご尤も」
「ちなみに、向こうからの依頼か?」
「依頼っつぅか、ほぼ苦情だな。仕事なんだからしっかり取り締まれってよ。耳が痛いねぇ」
「取り締まれ、なぁ。簡単に言ってくれよるわい。それで?今回のたぁげっとは、人の子か?それとも人外か?」
「言っただろ、厄介で面倒だって」
どうせ資料を読み直している鳴滝の心の中を覗けるのだから、既に事件の概要は把握しているだろうが、まぁ、口に出すのが大切ならしいので。鳴滝は口角を上げる。「両方だとよ」あまりにも傍迷惑すぎて、最早乾いた笑いしか出てこない。
事件のあらまし自体は、然程珍しいものではなかった。余所者が自分の縄張りをやりたい放題に荒らしているから、とっ捕まえて処断してくれ。鳴滝達が扱う五割近くの捜査がこのパターンに当てはまる。問題は、よりにもよって、神の信仰基盤に危害を加えやがった命知らずな身の程知らずがいたことだ。
「正に恐れ知らずよのぅ。何処の痴れ者じゃ?」
「アイトワラス」
「愛と……?」
「アイトワラス。リトアニアの化け物だ。日本の事情なんざ、知ったことじゃねぇんだろうよ」
「りとあにあ」
「琉球やアイヌよりももっと外の国だ」
「中華か?漢字が分からん」
「残念。漢字圏じゃない外つ国だ」
醒ヶ井は唸る。カタカナ語の発音ですら危ういお爺さんには、難しい議題ならしかった。
「そんな所から遠路はるばる人外がやって来るようになるとは、これが、ぐろーばる化というやつの弊害かのぅ」
「今じゃ、有名な人外はドラキュラ、魔女、サンタクロースあたりだろ」
急激に科学技術とやらが発展し、妖怪だの幽霊だのといった存在は非科学的と否定されるのが当然という世界は、何とも息がしにくい。雷が落ちるのは雷神様が太鼓を打ち鳴らしているからだ、ほれ、お臍を隠せ。その考え方が真実として生活に根付いていた時代は、とうに昔のことだった。今どきの人間は、桑原桑原と手をこすり合わせるなんてことはしない。雷が鳴れば被雷しやすい高い建築物から離れ、雷しゃがみをしてやり過ごす。全く、可愛げのないことだ。
加えて、人と物が距離を超えて瞬時に飛び交い、結びつく時代の到来により、各国の言語とそれに密着する伝承もまた、海を容易く渡るようになった。鎖国を止めたときから、怒涛の勢いでこの日本にも異国の言葉と異国の価値観と、そして異国の信仰が雪崩れ込み、土着の妖怪や神を脅かしている。
最近の日本人は七夕や彼岸といった伝統ある日本の行事よりも、バレンタインだのクリスマスだのハロウィンだのと横文字の華やかなイベントの方が好ましいらしく、在来の化生はどんどん住処を追いやられていた。ヒアリがどうのとニュースで騒ぎ、外来種の排除を声高に叫ぶ人間共に言ってやりたい。ならば、俺達、在来種の妖怪も手厚く保護しやがれ。何なら絶滅危惧種に格上げしろ。
在来と外来の人外との間での信仰基盤の奪い合いが激化しており、しかも外来の方が優勢で野放しにしておけば日本の妖怪は滅びかねないという緊張状態の中、鳴滝達は、道理をわきまえぬ余所者の取締りに奔走する日々を送っている。
神は人の敬うによって威を増す。
人盛んにして神祟らず。
結局は、人間の信仰を勝ち取らなければ、神も仏も妖怪も、ただ忘れ去られ、消えゆくことしかできない無力な存在にすぎないのだ。此度の事件の依頼主である宇賀弁財天が、自分の神域を荒らされたことに対して過剰なまでに神経質になるのも無理はない。
いやはや、海外の人外に押され、古参の妖は世知辛い世の中になってしまった。鳴滝の一族とて、昔は飛ぶ鳥を落とす勢いの知名度を誇り、その名を全国津々浦々に轟かせていたというのに、今では見る影もないほど落ちぶれている。確実にサンタクロースの方が周知されているし、人気も高い。情けない話だ。
「鎌倉までどれくらいかかる?」
「渋滞がなけりゃ、一時間といったところじゃな」
「じゃあ、このドライブ中は俺の昼休憩ってことで」
おやすみ、と鳴滝は目を閉じる。生憎、マイアイマスクは持っていないが、高速を走る心地良い振動にすぐさま意識はうつらうつらと微睡んだ。