7-2 涙を拭こうか
正直、姫さまの部屋に入るのは気が重い。
シェルは扉の前に立ち、うなだれた。
何度も扉を叩こうとしては、その手を下ろす。
「嫌われてしまったかもしれん」
「まぁ、ちょっと怖かったよな」
「なぜ、お前がついてくるんだ」
隣に立つ光月を、ぎろりとにらみつける。
「面白いから。獅子も飼い主には弱いんだな」
にひひ、と光月は笑みを浮かべた。なんて嫌な奴なんだ。
扉の把手が急に動き、シェルは固まってしまった。こういうところが、たぶんアシアに「ヘタレ」と指摘されるのだろう。
「シェル!」
部屋から走り出た清蘭が、シェルに飛びついた。
普段なら飛びつかれても、びくともしないのに。シェルはよろめいてしまった。
「ど、どうしたんですか? まさか怪我を?」
「いえ、平気です」
シェルの胴にしがみついたまま、清蘭が見上げてくる。その表情に怯えはない。
急にシェルはしゃがみこんだ。そのせいで清蘭も一緒に座りこんでしまう。
「貧血を起こしたんですね。医師を呼んできます」
「恥を重ねることになるから、それはやめたげな。姫さん」
立ち上がろうとする清蘭を、光月が押しとどめる。
「でも……」
「姫さんの顔を見て、安心して力が抜けただけだろ」
「シェル。本当に具合が悪いのではないんですね?」
何度も念押しして清蘭が尋ねてくる。顔をのぞき込んでくるその表情は、心から心配してくれているのだと分かる。
「こんな野蛮な私など、側に置きたくないとおっしゃられるかと思いました」
ぽつりぽつりと言葉を紡ぐと、清蘭は首を振った。まだしっかりとシェルにしがみついたままだ。
でもシェルは気付いている。
力のこもった清蘭の手が、ほんのわずかに震えていることを。
「これまでは姫さまの命を狙う者はいませんでした。だからパラティア人の本性を見せずに済んでいたのです。……私のことが、怖いですか?」
じっと見つめてくる清蘭の瞳に、不安げなシェルの顔が映っている。
突然、清蘭の顔が近づいたと思うと、シェルの唇はふさがれていた。
「……っ!」
柔らかな唇の感触。
何が起こったのか、すぐには分からなかった。
シェルの目の前には、閉じられた清蘭の瞼。とても睫毛が長いのだと、初めて知った。
「ちょ、ちょっと待ってください。何をなさっているんですか」
「愛情表現です!」
「人がいるのにですか? いつからそんな大胆に……あ、いえ……」
光月が笑いをこらえて、派手に肩を震わせている。
手をひらひらと上下に振っているのは「いいから、続けて」と伝えているらしい。
それなら、頼むから席を外してくれ。
「怖かったのは事実です。今まで、あんなシェルを見たことがなかったんですもの」
「姫さま、もうちょっと顔を離していただけませんか?」
「いやです」
額や鼻がくっついているから、シェルの眼鏡は、ずれてしまっている。
「でも怖くてもシェルはシェルです。それが嫌いってことには、ならないんです。シェルは、わたくしのために動いてくれたんですもの」
美しい琥珀色の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちている。
「泣き虫ですね、姫さまは」
シェルは親指で、清蘭の涙をぬぐった。彼女の気持ちがそのまま雫になった涙は、とても温かい。
まるで儚く消える宝石のようだ。
「どこへも行かないで。わたくしとずっと一緒にいてください」
「かしこまりました」
シェルは、清蘭の細い首と肩に顔を埋めた。
緋目と冬李は、王宮近くにある牢に入れられた。
「余は何も関係ない。桂国の王子を投獄して、ただで済むと思うでないぞ」
鉄の檻を掴んで、冬李がわめいている。
牢獄といっても、日はよく当たるし満足な食事も出るし、狭くはあるが室内も整えられている。
「ただで済まないのは、こちらだ。姫さまを二度も貶めたこと、忘れはせん」
冬李の牢の前で、シェルは腕を胸の前で組んでいかめしく立った。
「緋目とやらの偽者に命じて姫さまの命を狙い、水源の情報を得ようとしたのだろう。これは間違いではないな」
「何を申すか。余も騙されていたのだぞ」
「そんなことは訊いていない。貴様が命じたかどうかだ」
ちっ、と冬李は舌打ちした。
確かに偽りの緋目は火国の人間だ。だが桂国の王子が命じたからこそ、彼女は清蘭を狙った。
もし緋目の企みが成功していたら。『紅水河生水』は桂国に奪われたと誤解したまま、誰にも知られずに火国に渡っていたことだろう。
火国と桂国と藍国。小国とはいえ三国が力を合わせれば、砂国に対抗できるかもしれないのに。
藍国の技術力と、残る二国の軍。互いに足りないところを補えば。
だがそれは、国の機密を漏らすことに他ならない。
それゆえ互いを利用し、自国だけが生き残る術を模索している。
これでは三国ともに、全滅する未来しか残っていない。
「はっきり言っておくが。砂人は水源を欲しがっていても、それを得たからといって、侵攻をやめるわけではない。王子も占い師の偽者も、砂人に期待しすぎなのではないか」
それはこの藍国も同じだ。
シェルは苦い思いを呑みこんだ。
牢から外へ出ると、空は晴れ渡っていた。
建物の壁に張られたタイルが日光に反射する、青く美しい街。いつまでこの国は美しいままでいられるのだろう。
「なんか、藍都にいると自分が魚になったような気分になるんだよな」
表でシェルを待っていたのは、光月だった。
「こうさ、きらめく水の中を泳いでるみたいなさ」
「何か用か?」
「んー? なんだ、清蘭は一緒じゃないんだな」
「姫さまと呼べ。姫さまは一緒に来たいと仰ったが。お連れしなかっただけだ。今はアシアに任せている」
光月を放っておいて、シェルは王宮へと急いだ。
「なぁ、シェル」
「私は勤務中だ。お前と遊んでいる暇はない」
シェルの歩く速度は速い。さらに清蘭の元へと急いでいるので、追いかける光月はすでに走っている状態だ。
「あんたさ、一人で寂しくないのか?」
思いがけない言葉に、シェルは立ち止まった。あまりにも突然だったせいか、光月がシェルを追い抜いてしまう。
「寂しい? 私が、か」
「そうさ」
肩で息をしながら、光月が戻ってくる。シェルは汗などかいていないが、光月の額には汗がにじんでいた。
「寂しいわけがない。私には姫さまがいらっしゃるのに」
「そういうもんじゃないだろ」
「両親とは関わり合いが薄いが、アシアがいる」
「だーから、違うって」
指摘されても、シェルには首を傾げることしかできなかった。
光月はいらついたように、頭を掻いた。
「はっきり言うぞ。金目婆さんの占いは当たる。この国は滅びる。桂国も火国もだ。そうなることが決まっているなら、生き残る術を模索すべきなんだ」
「生き残る術?」
「そうさ。あんた、藍国と心中するつもりじゃねぇよな。清蘭を生かしたいんだろ。なら具体的にどうしたいんだよ」
指摘されて、はっとした。
砂人に姫さまを殺させたりはしない。だが逃げおおせたとして、どこへ行けばいいんだ。どうやって生き延びればいいんだ。
「そういう未来のことを相談できる相手がいるのかって、ことを訊いてんだよ」
「未来は……考えていなかった」
砂国が攻め込んできたら、藍国には万に一つの勝ち目もない。姫さまを狙う砂人を倒して、殺して……その先は?
いつまで自分の体力が持つ? どれほど剣をふるうことができる?
「力は足りねぇが、清蘭は国民が助かる術を模索している。滅亡の王女という烙印を押された姫さんの方が、よっぽど未来を信じてる……だろ?」
「姫さまは、強いお方だ」
いや、違う。強くあろうとなさっているのだ。
(私やアシアに悩みを打ち明け、本心をさらす勇気を持っておられる)
それに引きかえ、自分はどうだ。
姫さまに頼られることだけを望んで、彼女に頼ったことがあるのか? あの方は日々成長なさっているというのに。
「そうか……私は孤独だったのか」
シェルはぽつりと呟いた。
「清蘭の護衛っつーか、忠義の誓いを立ててから九年だろ。その間、シェルは一人で抱え込んでいたんだな。不安に思うことも全部な」
「私は……」
「まるで途方に暮れた少年みたいだ。でも、それにも気づかないくらい、一心に仕えてたんだな。清蘭に」
光は遥か彼方にあって、どちらへ進めばいいのかも分からない。
かけがえのない宝石を懐に抱き、それでも前へ進まなければならないのに。道を示してくれる人もいない。
目頭が熱く、鼻の奥が痛んだと思うと、涙の粒が地面に落ちた。
とめどなく落ちる涙を、シェルはてのひらで受けた。
泣いたのなど、物心ついてから初めてのことだった。
「……道しるべが、欲しかったんだ」
冬李王子との縁談が持ちあがるまでは、たとえ占いの件があっても、穏やかな日々だった。
「俺なら、道を示してやれるぜ」
「お前が?」
「おいおい、忘れんなよ。俺は藍国の動向を専門に占う銀目さまだぜ。これでも金目婆さんの一番弟子だ」
光月は、自分の胸を親指でトンッと叩いた。
「つーか。俺もさ、もう桂国に帰れねぇわけよ。いくら火国の女に騙されていたとはいえ、冬李王子を庇わなかったからな」
「そういえば。庇わなくて、よかったのか?」
「いいわけねぇだろ。けど、女の色香に迷ったガキを庇いたくなかったんだよな」
ぶつぶつと光月は文句を言った。
桂国のことはシェルにはよく分からないが。占星術師も、いろいろと大変らしい。
「私は十七歳までパラティアにいた。剣術や体術を学校で学んでいて、仲間もいた。だがパラティアは主従のつながりを大事にするが、家族や友人とのつながりが薄い」
パラティアにいれば、今も知らなかったことだ。こんなにも愛されて、相手を深く愛することができるなんて。
「たとえ国を失っても、人は生きていける。姫さまは、一人でも多くの民を救いたいとおっしゃった」
「流浪はきついぜ」
「覚悟の上だ」
シェルが力強い笑みを浮かべると、光月も、にっと笑った。
そして布をさしだしてきた。
「ま、とりあえず先に涙を拭け、な? 俺が泣かせたみたいで、落ち着かねぇよ」




