視力
健康診断の医師が言った。
「左目を隠して、一番上を読んでください」
僕は左目を隠した。
「右」
「二段目」
「左、上」
「三段目」
「下、右、右、左」
医師が顔を上げた。
僕も医師を見た。
左の眉がごくわずかに、〇・二秒ほど動いた。口角は二ミリほど下がった。微表情心理学的には、苛立ちを抑えているときの反応だった。
だから僕は、気を利かせて言った。
「先生、今ちょっと苛立ってますね」
医師は固まった。
「苛立ってません」
「苛立ってます。だいたい一五パーセントくらい」
医師が僕を見る。
僕は付け加えた。
「いま深呼吸しました。四〇パーセントまで上がりました」
医師はペンを机に叩きつけた。
「ここでは視力だけを検査しています!」
「わかっています。だから目に見えた事実だけを報告しました。とはいえ、去年よりかなり我慢できています」
医師は歯を食いしばって言った。
「ありがとうございます」
その「ありがとうございます」には感謝の成分が一切含まれておらず、声帯の振動には人を殴りたい衝動が満ちていた。僕にはそれも見えた。
ただし、今回は指摘しなかった。
ほら、僕のコミュニケーション能力は確実に上がっている。
僕は昔から視力がよかった。
物理的な意味だけではない。他人の顔に浮かぶ、隠しきれない気まずさ、嘘、嫉妬、後ろめたさのような微細な表情まで、やけにはっきり見えてしまう。
子どものころは、それを超能力だと思っていた。
大人になるにつれてわかった。
これは、ほとんど社交上の不治の病だ。
高校生のころ、恋愛を試みたことがある。
前の席の女子が、ある日ふいに振り向いて、少し頬を赤くしながら訊いてきた。
「今日、髪変じゃない?」
視力がよく、かつ誠実な人間として、僕は彼女の頭部を全方位から観察した。
「左後方に長さ約六センチの髪が一本、三〇度ほど跳ねています。それから右側の前髪が昨日より五ミリ短いので、視覚的には顔の横幅が二パーセントほど増えて見えます。ただし、生存には支障ありません」
彼女は黙った。
その後、二度と僕に話しかけなくなった。そしてほどなく、体育委員と付き合い始めた。
ある日、彼女が廊下で体育委員と話していて、とても楽しそうに笑っていた。それは本物の笑顔だった。瞳孔は広がり、頬骨筋は完全に緩んでいた。
大学を卒業してから、僕は深く反省した。そして『高いコミュ力を身につける話し方』のような本を二冊買い、自分を改造することにした。
本にはこう書いてあった。
第一条、見抜いても言わないこと。
第二条、誠実さは最強の武器である。
僕はそれを金科玉条として胸に刻んだ。
ある日、女性の同僚がコーヒーを一杯持ってきて、少し照れながら言った。
「朝、コーヒー買ったから、ついでに買ってきたよ」
僕は彼女の靴を見た。靴の縁に赤い泥がついていた。会社からコーヒーショップまでの最短ルートは全面アスファルトで、赤土があるのは東側の工事中の地下鉄駅付近だけだった。
僕の脳は高速で回転した。高コミュ力ルール第一条に従えば、彼女がわざわざ遠回りしたことを直接指摘してはいけない。第二条に従えば、感謝は誠実に伝えなければならない。
そこで僕は、深い感動を込めて言った。
「本当は一・五キロも遠回りして、場合によっては工事現場のぬかるみで足をひねった可能性すらあるのに、それを『ついで』という形で隠してくれたんだね。好意をごまかすための嘘なのに、すごく誠実で、胸を打たれました」
同僚の顔は一瞬で赤黒くなった。
翌日、彼女は人事に異動願を出した。
僕は『高いコミュ力を身につける話し方』を持ったまま考え込んだ。
人間が受け入れられる誠実さの限界は、いったいどこにあるのだろう。
二十三回連続で社交に失敗した結果、僕は物理的に問題を解決することにした。
また病院へ行った。
同じ医師だった。僕が入るなり、彼の目尻がいつものようにぴくりと動いた。
僕は慣れた手つきで左目を隠し、一番上から最後の段まで読み上げた。
医師は冷たく言った。
「視力は相変わらずいいですね」
「先生、これを少し悪くする方法はありませんか。たとえば点眼薬とか。差すと他人の顔に出る社交辞令や虚偽が見えなくなるような」
医師は変なものを見る目で僕を見た。
「本気で言っていますか」
「かなり本気です。友だちがほしいんです。でも相手が愛想笑いしているのが見えると、どうしても指摘したくなります。口が制御できません」
医師は黙った。
最後に、健康診断の用紙を僕へ渡し、しみじみと言った。
「医学では救えません。ただ、自分で制御してみてください。たとえ何が見えたとしても、見えていないふりをするんです。何もしない。何も言わない」
僕は医師の目を見つめた。
このときの彼には苛立ちはなかった。目の中には、この救いようのない馬鹿に対する、純粋な憐れみが満ちていた。
本物だった。
僕はその医学的人道主義に感動した。
健康診断の用紙を持って病院を出ると、心の中で医師の究極奥義を繰り返した。
見えても、何もしない。
見えても、何もしない。
これさえできれば、僕は必ず社交上手になれる。
そのときだった。
制御を失った配達用のバイクが、時速七十キロほどで歩道へ突っ込んできた。
僕の視力は非常にいい。
ナンバープレートも、運転手の恐怖で歪んだ顔も、はっきり見えた。
本能的に右へ避けようとした。
だが、その瞬間、医師の顔が脳裏に浮かんだ。
何が見えても、何もしない。
そうだ。これは僕の社交実行力を試す重要な瞬間に違いない。
ここで避けたら、目の前の出来事に反応したことになる。つまり僕のコミュニケーション能力はまた初期値に戻ってしまう。
高い社交性を備えた現代人になるため、僕は両手をポケットに入れたまま、その場に立った。微笑みを浮かべ、迫ってくるバイクを見つめた。
見えても、何もしない。
どん、と音がした。
「見抜いても言わない」という技術は、物理攻撃には対応していないらしい。
窓口の向こうには神様が座っていて、タブレットを見ていた。
神様は顔も上げずに言った。
「名前」
僕は名前を言った。
神様は画面を指で滑らせた。
「死因、交通事故」
僕は訂正した。
「正確には、コミュニケーション訓練中の操作ミスによる死亡です」
神様はようやく顔を上げた。
顔の筋肉に変化はなかった。
けれど目にはこう書いてあった。
こいつ、頭に穴でも空いているのか。
どうやら神様にも微表情管理はあるらしい。
指摘しようとした。
けれど、ここでもコミュニケーション能力が必要かもしれないと気づいた。
だから黙った。
神様が訊いた。
「来世の希望は?」
前世の痛ましい教訓を思い出した。
本当はたくさん言いたかった。
もう二度と他人の迷い、苛立ち、建前、無理をしている感じまで見えないようにしてほしい。人が隠しておきたいものを、そんなに明瞭に見てしまわないようにしてほしい。来世ではもう少し自然で、鈍くて、誰かに好かれる存在になりたい。
けれど長く言いすぎると、神様がまた苛立つかもしれない。
だから簡潔にした。
「来世では、視力がよすぎないようにしてください」
神様はうなずいた。
「いいでしょう」
僕は感動した。
神様はいい神様だ。
少し苛立ってはいるが、本当にいい神様だ。
再び目を覚ますと、世界は低くなっていた。
草の葉が高い。土が近い。遠くのものは、緑と灰色にぼやけていた。
僕は内心喜んだ。
見えない。
本当に、よく見えない。
必死に首を動かすと、自分の背中に針がびっしり生えているのがわかった。
少し離れたところで、子どもがしゃがみ込み、嬉しそうに叫んだ。
「わあ、ハリネズミ!」
僕は丸くなって、しばらく考えた。
次に願いを言うときは、視力だけでは足りないらしい。




