第97話:帰還
——カーテンが、開く音。
眩しい、朝の光が、顔に、当たった。
「兄ちゃん、起きてよ〜」
小さな、声。
「朝ごはん、作ってよ」
俺は、ゆっくりと、目を、開けた。
見慣れた、天井。
四畳半の、狭い部屋。
押入れの襖。
いつもの、蛍光灯。
隅に置いた、小さな本棚。
そして——窓際のハンガーに、工場の制服が、かかっていた。
家だった。
「兄ちゃん?」
カーテンの向こうから、声が、聞こえた。
「まだ、寝てるの?お腹すいた〜」
俺は、体を、起こした。
体に、痛みは、なかった。
傷も、ない。
胸の前で、両手を、見た。
剣の柄は、なかった。
反復で、固くなった指の皮も、なかった。
いつもの、俺の手だった。
布団から、ゆっくりと、抜け出した。
カーテンに、手をかける。
心臓が、速く、打っていた。
「兄ちゃん、もう——」
カーテンを、開けた。
そこに——遥斗が、いた。
いつもの、パジャマ姿。
寝癖のついた、黒い髪。
眠そうな、丸い目。
「……ご、はん」
遥斗が、口をとがらせた。
俺は——動けなかった。
遥斗の顔を、見つめたまま、立ち尽くしていた。
「兄ちゃん、どうしたの」
遥斗が、不思議そうに、俺を見上げた。
「なんか、変な顔してるよ」
俺は——。
気づけば、遥斗を、抱きしめていた。
強く、強く、抱きしめた。
「え、え、何、どうしたの」
遥斗が、戸惑った声を、上げた。
俺は、何も、言えなかった。
ただ、遥斗の、温かさを、確かめていた。
薄い、小さな、肩。
柔らかい、髪。
少しだけ、パジャマに残った、昨日の汗の匂い。
全部、本物だった。
「兄ちゃん、泣いてるの」
遥斗の声が、聞こえた。
俺は、初めて、自分が、泣いていることに、気づいた。
涙が、止まらなかった。
何年分の、涙なのか、分からなかった。
塔で、五周も、繰り返した。
仲間を、何度も、失った。
男と、何度も、戦った。
鎖を、斬った。
全てが、終わって——俺は、ここに、帰ってきた。
「……ごめんな」
かろうじて、声を、出した。
「遅くなった」
遥斗が、少し、沈黙した。
それから——小さな手を、俺の背中に、回した。
「……おかえり」
静かな、声。
子供らしい、たどたどしい言い方だった。
でも——確かに、「おかえり」と、言ってくれた。
「ただいま、遥斗」
俺は、答えた。
声が、震えていた。
しばらく、俺たちは、抱きしめ合っていた。
やがて——遥斗が、俺の胸を、ぽんぽんと、叩いた。
「で、兄ちゃん、ご飯は?」
俺は、少し、笑った。
涙を、拭う。
「……作るよ」
遥斗が、嬉しそうに、頷いた。
「卵焼きね、卵焼き!」
「分かってる」
俺は、立ち上がった。
パジャマのまま、キッチンに、向かった。
冷蔵庫を、開ける。
卵が、三つ。
いつもと、同じ。
フライパンを、取り出した。
卵を、割って、溶いた。
コンロに、火を、つけた。
卵を、フライパンに、流し込んだ。
じゅうっ、という音。
懐かしい、音だった。
遥斗が、俺の隣に、椅子を引いてきた。
座って、俺の作業を、見ている。
「兄ちゃん」
「ん?」
「なんかあった?」
俺は、卵焼きを、返しながら、答えた。
「……夢を、見た」
「どんな夢?」
俺は、少し、考えた。
それから、短く、答えた。
「長い夢だ」
「ふうん」
遥斗が、首を、傾げた。
「でも、帰ってこれて、よかったね」
俺は——しばらく、動きを、止めた。
卵焼きを、皿に、盛り付けた。
味噌汁を、温めた。
ご飯を、茶碗に、よそった。
いつもの、朝食。
単調な、反復。
でも——。
今の俺には、その「単調さ」が、何よりも、尊かった。
「食べよう」
俺は、食卓に、料理を、並べた。
遥斗が、「いただきます」と、手を合わせた。
俺も、手を合わせた。
「いただきます」
卵焼きを、一口、食べた。
少しだけ、焦げていた。
遥斗が、口をもぐもぐ、させながら、言った。
「兄ちゃんの卵焼き、うまいね」
俺は、頷いた。
「……ああ」
窓の外で、雀が、鳴いていた。
朝の光が、食卓を、照らしていた。
いつもの、朝。
変わらない、いつもの、朝。
それが、始まった。
——帰ってきた。
俺は、静かに、心の中で、そう確認した。




