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第51話:一匹狼の背中

扉が閉まる音すら、聞こえなかった。


あの男はいつも、そうだ。


現れて、消える。


足音の一つも残さずに。


四十二階層の広間。


俺たちは、まだ動けずにいた。


砕けた装甲の破片が、床に散らばっている。


【深淵の番人】の残骸。


これだけの敵を倒したという実感が、まだ湧いてこない。


それほどまでに、あの男の一撃が、圧倒的だった。


「......なんだったんだ、あいつ」


翔が、ぽつりと呟いた。


槍を杖のように突いて、肩で息をしている。


「すごく強かったですね......」


葵が、小さく声を漏らす。


魔力を使い果たした体が、わずかに震えていた。


二人とも、男の背中に何かを残そうとしていた。


結局、何も言えずに終わったような顔をしている。


俺も、同じだった。


「待ってください」


そう呼び止めたのは、つい数十秒前のことだ。


声は届いていたはずだ。


それでも男は、振り返らなかった。


振り返る理由が、最初からなかったかのように。


——美咲が、動かない。


戦闘が終わって、もう数分は経っている。


翔は槍を握り直した。


葵は魔力を少しずつ取り戻そうと、深く息をついている。


俺は、剣を鞘に戻した。


だが、美咲だけは、違った。


広間の隅で、男が消えていった扉をじっと見ている。


弓を下ろしてもいない。


矢筒に手をかけたまま、まるで「まだ戦闘が終わっていない」と言いたげに。


「美咲?」


俺が声をかけた。


美咲は振り返らない。


扉を見つめたまま、静かに口を開いた。


「......あの人」


「ん?」


「私たちのことを、ずっと見てた気がする」


空気が、わずかに冷えた。


翔が「え?」と聞き返す。


葵が顔を上げる。


美咲がようやく弓を下ろし、こちらへ振り返る。


その目が、普段より鋭い。


「戦闘中、ずっと」


静かな声。


でも、言葉に迷いがない。


「私たちの動きを、全部把握してた」


「把握?」


「翔が吹き飛ばされる瞬間。葵の魔力が尽きる瞬間。私の矢が通じない瞬間」


美咲が、淡々と続ける。


「あの人は、全部把握した上で、一番効果的なタイミングで入ってきた」


翔の顔が、硬くなる。


「......嘘だろ」


「嘘じゃない」


美咲の声は、低い。


「ずっと観察してた。そう考えないと、あの助け方は説明できない」


「戦闘中に?」


「戦闘中だけじゃない、かもしれない」


葵が、息を呑んだ。


「それって......最初から、見てたってこと?」


俺は、何も言わなかった。


最初から。


どこから。


四十二階層で現れた時からか。


黄金の回廊を傷一つなく抜けた、あの時からか。


それとも——螺旋階段で「生き残ったか」と呟いた、最初の邂逅からか。


脳裏に、一つの模様が浮かんだ。


二十五階層の隠し部屋。


あの碑に刻まれていた、剣の模様。


名前の代わりに、ただそれだけが刻まれていた。


他の挑戦者の名前は、びっしりと刻まれていた。


召喚日も、到達階層も。


その中で、あの剣の模様だけが、明らかに異質だった。


名前もなく、階層の記載もない。


ただ、一言——「何度登っても、塔は終わらなかった」。


そして——男が腰に差している、細身の剣の柄。


同じ、模様だった。


「何度登っても、塔は終わらなかった」


碑にはそう刻まれていた。


何百年前のものかもしれない、古い記録。


記憶の廻廊で、男にだけ何も見えなかった。


見せるべき記憶が、残っていないかのように。


「覚えていない」


二十一階層の休息の間で、男はそう言った。


塔のことを覚えていないのか。


それとも——自分のことを、覚えていないのか。


点と、点。


螺旋階段で、最初に「生き残ったか」と呟いた、あの時。


二十一階層の休息の間で、「覚えていない」と言った、あの時。


三十階層クリア後の休息の間で、泉のそばに静かに立っていた、あの時。


そして——今日。


男は、俺たちが通る道に、必ず現れた。


まるで、最初から道筋を知っていたかのように。


男は、階層ごとに現れた。


まるで、俺たちが通る道を、最初から知っていたかのように。


頭の中で、光が一つずつ灯っていく。


でも、まだ線にならない。


最後の一本が、どうしても繋がらない。


「蓮」


翔の声が、俺を引き戻す。


「お前、なんか気づいてるのか?」


俺は、少しだけ黙った。


確信があるわけじゃない。


まだ、ない。


言葉にした瞬間、取り返しのつかないことが起きる気がする。


それに——もし俺の想像が当たっていたら。


三人を、余計な恐怖に晒すことになる。


黙っていたほうが、いい。今は。


「......いや」


ようやく、そう答えた。


「まだ、何も」


翔が「そうか」と引き下がる。


深くは聞いてこない。


俺が何かを抱えている時、翔は黙って待ってくれる。


いつからか、そういう関係になっていた。


葵が、不安そうに扉を振り返った。


「でも......もし最初から見てたなら、あの人、なんで助けてくれたんでしょう」


誰も答えられなかった。


美咲が、ようやく弓を下ろす。


「分からない」


それだけ言って、前を向く。


「でも、今日は助けられた。それは事実」


翔が、息を吐いた。


「まあ......そうだな」


三人が、歩き出す。


四十二階層の広間を、ゆっくりと横切っていく。


次の螺旋階段に向かって。


俺は、少しだけ遅れて歩いた。


最後に一度、男が消えていった扉を振り返る。


何もなかった。


あの男がそこにいた痕跡も、何も。


塔は、男の記録も残さない。


柊の時と、同じだ。


——いや、違う。


柊は、光になって消えた。


男は、ただ扉の向こうに歩いていっただけだ。


消えたんじゃない。


どこかに、いる。


「いつか」


声にはしなかった。


「あいつが何者なのか、分かる時が来る」


胸の奥で、そう決めた。


砕けそうな剣の柄を、握り直す。


冷たい感触が、指に戻ってくる。


「蓮、行くぞ!」


翔が、先で振り返った。


「ああ」


俺が、走り出す。


男の背中が、まだ目の奥に焼き付いていた。


一匹狼の、あの背中が。


顔を、見せない。


名前も、理由も、教えない。


それでも、俺たちを助ける。


——次に会ったら、何を聞こう。


答えは、まだ俺の中にない。


でも、いつか——必ず。


足音が、前を行く三人のものと重なる。


螺旋階段が、上に向かって伸びていた。


その先に、答えがあるはずだった。


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