37 めでたしめでたしの、その先へ
二つ、季節が巡った。
冬が終わり、春の気配が草原を包んでいる頃、私たちはファブルの町に戻ってきた。
帰るだいたいの日取りは速達で知らせていたから、帰還した私たちはあっという間に町の人たちに囲まれ、「おかえり!」と声を掛けられた。
彼らが私を呼ぶときの名は、どれも「カティア」だった。たとえ真実を知ってしまっても、私を「ケイトリン」を呼ぶ人はいない。
うん、それでいい。
勇者ケイトリンは、二年前に死んだ。今ここにいるのは、ただのカティアだ。
私たちは荷物の整理をする間もなく、宴会に放り込まれた。もともとお祭り騒ぎが大好きなギルドの連中はそれはそれは大喜びの大盛り上がりで、「酒だ!」「どんどん開けろ! カティアちゃんの祝賀会だ!」とご満悦だった。おかえりパーティーならともかく、何が祝賀会なんだ……と思ったけれど、酔っぱらい相手に突っ込んでも仕方ない。
「……飲んでいますか、カティア?」
お祭り騒ぎは夕方に始まったけれど、夜になった今でもどんちゃかどんちゃか続いている。もはや皆はとにかく騒ぎたいだけみたいで、主役であるはずの私が町の中心から逃げてこのギルド前の公園にいても、誰も気にしていないみたいだ。ちょっと一人で涼みたいところだったから、ありがたい。
そんな私にワインボトル片手に会いに来てくれたのは、エイリー。彼女も今日は裏方に徹していて、さっきまで料理やお酌に走り回っていたらしい。
私は振り返り、空になったグラスにワインを注いでもらった。
「飲んでいるよ。エイリーも、そろそろ休んだら?」
「いいえ、皆の楽しそうな顔を見られるのが嬉しいので、私はまだ給仕係をしますよ」
そう言うエイリーは微笑んでいる。私の正体を知ってもなお、エイリーを始めとした町の皆は私への態度を変えない。それが……すごく、嬉しかった。
……ああ、そうだ。周りに人気がないし、今がチャンスかも。
「……あの、さ。先延ばしになっちゃったけれど、あの時の返事、してもいい?」
「あの時、ですか?」
「うん。……ほら、前に聞いてきたじゃん、ヒースのことをどう思っているのか、って」
言いながらなんだか気恥ずかしくなってきたけれど、ここでくじけているようだと「答え」を口にすることなんて叶わなくなる。
エイリーもすぐに思い出したようで、「ああ」と小さな声を上げた。
「聞きましたね。……ごめんなさい、カティアを困らせてしまったみたいで」
「いやいや、そんなことないって。……私ね、王都に戻っていろいろ経験してから、分かったんだ」
どこか遠くで、小さな爆発音が響く。ぎゃはぎゃは笑う野太い声がするから、冒険者仲間の誰かが手製の爆竹でも持ち出したんだろう。子どもか。
「……私、ヒースのことが好き。いろいろあったし、私たちの関係も普通の恋人にはほど遠くなるだろうけど……でも、一緒にいたいし、側にいてほしい。それに私も……ヒースを支えたいんだ」
ヒースのここが好き、ここに惚れた、ここが素敵、と列挙することは難しい。「それって本当に彼のことが好きなの?」と問われたら答えに困ってしまうだろうけれど、私はこれからも彼の隣にいたい。隣にいてほしいし、あの居心地の良い空間をいつまでも共有していたいと思っている。
エイリーはしばらく黙っていたけれど、やがてふわっと微笑んだ。
「……そうですか。それは何よりも素敵な思いですね」
「そう思う?」
「ええ、もちろん。……私の野暮な質問に答えてくれて、ありがとうございました。……ちなみに今、ヒースさんはギルドの屋上で飲んでいるようですよ」
「あはは……了解。ちょっくら杯を交わしに行ってくるよ」
私が笑うと、エイリーは「これどうぞ」と開けたばかりのワインボトルを持たせてくれた。さっき飲んだときにも思ったけれど、甘くてすごくおいしかった。ヒースと一緒に飲んだら、もっとおいしいだろうな。
エイリーに礼を言い、私はボトルとジョッキ片手にギルドに向かった。鍵は開いているし灯りもついているけれど、ホールは人気がなくて静かだ。みんな出払っていて、奥の厨房で追加の料理を作る音だけが聞こえていた。
ホールを突っ切り、奥の階段を上がる。そうして四階屋上に出ると、爽やかな夜風が私の髪を撫でていった。
「ヒース」
エイリーが言っていたように、探し人は屋上の床に座り込んでいた。私には背中を向けていたけれど、音は聞こえていたみたいで呼びかける前から体を捻ってこっちを見てきている。
「やあ、カティア。……もしかして、追加のワイン?」
「そう。星空を見上げながら一杯洒落込もうじゃないか」
「はは、了解。こっちにおいで」
そう言ってヒースは手招きする。よく見ると彼は薄手の敷布の上に腰を下ろしていて、それは一人分にしては若干大きい。私が来ることを最初から想定していたみたいだね。
彼の隣に座る……けれど、ちょっと肌寒いから座り直して彼の左横にぴったりとくっつく。どうだ、脳筋だってたまには甘えられるんだぞ!
「……寒い?」
「少しは。でも、これを飲めば心も体もぽっかぽかだよ」
自分のジョッキに手酌でワインを注ぎ、ヒースが持っていたグラスにも残りを注いだ。かちん、とグラス同士をぶつけて、乾杯。
「……あ、これすごく甘いね」
「うん。ヒースは甘いもの、苦手じゃなかったよね?」
「普通だね。でも、辛いものや苦いものよりは甘い方がいいかも」
「了解。今度スクランブルエッグを作るとき、甘くしてみる」
「はは。楽しみにしているよ」
星を見、少し離れたところでドンチャカ騒ぐ音を聞きながら飲んでいると、あっという間にグラスは空になった。さっき自分で言ったように、酒精を取り入れた体はぽかぽかしている。同時に、頭の中もぽかぽかしている。うーん、快感。
「暖かい……」
「ちょっと離れる?」
「嫌だね。むしろもっとこっちに来い来い」
ぐいっとヒースの上着の裾を引っ張ると、「千切れるよ」と苦笑された。失礼な。脳筋だって手加減くらいできる!
「そんなに引っ張らなくても、俺は君の側にいるよ」
「足りん。全然足りん! もっと近う寄れ!」
「ふーん? ……じゃ、お言葉に甘えて」
酔っぱらいの戯れ言にも優しい言葉を返してくれていたヒースだけど、ふいにその灰色の目が真剣みを帯びた。
おや、と思ったときには彼の腕が私の腰に回り、ぎゅっと抱き寄せられていた。そうして、ワインのせいで熱を帯びた二人分の唇が重なる。
……。
……これは、キス?
ぼんやりしていた脳が、だんだんと機能し始めてきた。
あ、これって、本当に、ちゅーしてる? うわ、ヒースの唇柔らかい。あれ、なんか、舌が、入ってきて……わー。
「……カティア、口をもうちょっと開いて、舌を出して。……そう、いい子だね」
ヒースは掠れた甘い声で囁くけれど……いい子のカティアちゃんは、魔王様のなすがままになっていた。
さっき少し頭が冷えたと思ったのに、舌を差し込まれるとまた意識がぼんやりして、なんかいろいろと、こう、どうでもよくなってくる。鍛えているはずの体は既にくたくたで、ヒースの腕に抱きしめられていなかったらそのままぶっ倒れていたに違いない。
ちゅっ、ちゅっ、と小さな音を立てて私の舌と唇をむさぼるヒースは、なんかもう、むちゃくちゃ嬉しそうで、それでいてどこか獰猛な眼差しをしている。いつものほわっとした美青年のマスクはどこに行った……?
――このままだと食われる、と本能が危険信号を放つ。どういう意味の「食われる」なのかって? ええい、皆まで言わせるな!
「っく……ストップ、ヒース!」
「えー……」
「えー、じゃない!」
なけなしの理性を振り絞って腕を突っ張り、ヒースをばりっと引きはがす。こっちは酸欠気味でゼイゼイ喘いでいるというのに、ヒースは息を乱すことなくきょとんと目を瞬かせていた。……基礎体力は私の方が上のはずなんだけど?
「な、なんでそんなに余裕なの!? なんかずるい魔法でも使った?」
「ん? ……んー、あえて言うなら、カティアをとろとろに可愛がるための恋の魔法?」
「そういう返事は求めてないっ!」
ぱしーん、とその筋肉の薄い背中を叩くと、さすがに痛かったらしく前のめりになって唸っている。ふん、元勇者なめるな!
「はい、ワインタイム終了! そろそろ戻るよ!」
「えー、俺はもうちょっとカティアとイチャイチャしていたいのに」
「ここまでで十分っ! ほら、片づける! まだたくさんご飯もあるんだから、食べられるときに食べるよ!」
「かしこまりました、お姫様の仰せのとおりに」
「よろしい」
ヒースは緩慢な動作だけれどちゃんと立ち上がって敷布を畳み始めた。ちゃんと布同士の角を合わせて折りたたむ彼は本当に几帳面だな。とりあえず丸められたらそれでいい私とは大違いの主夫だ!
「ほら、行こう」
「了解だよ。……ああ、カティア」
「何」
「今は君の仰せのままにするけど……これからはたくさん時間があるんだから、覚悟してね、勇者殿」
ぱちっとウインクを飛ばすと同時に茶目っ気たっぷりに言うヒース。
……そう、これから時間はたくさんある。
元勇者と異世界から来た魔王としてではなく、同じ時を過ごしていく。
ただのカティアとヒースとして過ごしていける。
「……うん。でも、脳筋勇者だって負けないからね、魔王様?」
空いた手同士をきゅっと握りながら交わす軽口。そうして、さっきより派手になった爆竹の音が鳴り響く場所へ行くべく、階段へ向かう。
これからも、私は彼と一緒に生きていく。
ちょっと不条理で理不尽なこの世界だけれど、あなたと一緒ならきっと、大丈夫!
完結です
お付き合いくださり、ありがとうございました!




