願い②
※ ※ ※ ※
リンは目を見張った。異空間ともいえるこの空間にユリヤが現れたからだ。
そう、ここは異空間。時間と質量が歪められた奇妙な空間だった。
差し込む赤い光が人の感覚をおかしくさせているのか、それともこの立ち込める妖気がそう感じさせているのか、リンには分からなかった。
濁流に捕らえられたリンが目覚めたのはユリヤがくるほんの少し前だった。
捕まれた足が解放されたかと思うと、そのままこの空間に投げ出され倒れこんだリンは、肺に入った水を吐き出そうと咳き込んだ。
すると頭上から呼びかけられた美声は、自分にこういったのだ。
「不思議な気配がするかと思ったが……お前、人間か?」
声の主を睨みつけると、そこには予想通りの人物がいた。漆黒の羽に赤い双眸は、紛れも無くイシュー。だが幾分やつれた印象はあるものの、その者の顔は端正な顔立ちをしており、一見すれば人といっても過言ではない。
「やはり人型……。あなたが…ザゼル。」
この地でミランダを助けたとき倒した獣型のイシューから聞いた名前。そしてエリクの部屋で読んだ文書にあった古い契約の内容から、彼が100年間この地に捕らわれたイシューであることが察せられた。
リンがその名を呼ぶと、ザゼルはその秀麗な顔に嘲笑を浮かべて言い放った。
「人風情が、我が名を呼び捨てにするとはいい度胸だな。」
「その人風情の契約に縛られて、この結界から出れないなんて、お笑い種ね。」
この言葉にザゼルは目元をピクリと引きつらせた。
「……よほど命が惜しくないようだな。だが、我は寛大だ。久方振りに話せる者があるというのはなかなかに面白い。それに……そなたの血も記憶も美味そうだ。」
「あなたに、そうやすやすと喰われてたまるもんですか。」
リンは答えながら、ザゼルとの間合いを計る。まだ、攻撃を仕掛ける段階ではない。
相手はイシューの中でも上級の力を持つ『人型』のイシューだ。中途半端な攻撃では効かないだろう。そして、ザゼルの配下であるこの異空間での戦いはリンにとってさらに分が悪いといえた。なんといっても相手の手中にいるようなものだ。
「なんと言ってもその気……やはり人間ではない気だ。お前は、何者だ?」
「失礼しちゃうわ。私は人間よ。ちょっと……人とは違う能力があるだけ。」
「ますます興味深いな。……悪いが時間だ。お前はそこで暫く待っておれ」
ふと、何かに気がつくように上を見上げたザゼルは、再び視線をリンに戻しそう言い放った。ザゼルがゆっくりと空を振り払った瞬間、リンの体は吹き飛ばされ、壁面にたたきつけられた。
背中をしたたかに打ち、リンは思わず咳き込んだ。
「ぐ……っ」
するとリンの体の回が赤く光ったかと思うと、それは赤みを帯びた透明な壁となり、リンの四方を取り囲んだ。
慌てたリンは立ち上がってその透明な壁をたたくが、びくともしない。
「一日に…二度もつかまるなんて…カナメ隊長に知られたら怒られる……。」
鬼の隊長の異名を持つクロイツ隊隊長の顔を思い浮かべて、リンは盛大なため息をついた。
そんなときだった。ユリヤがこの空間に忽然と現れたのだ。
白い装束を身にまとったユリヤはリンが昨晩会ったときとは別人のようだった。昨晩は死を覚悟した張り詰めた感じと、全てをあきらめたような緩慢さがあったが、今のユリヤは清浄で清らかな印象を受けた。
ユリヤはザゼルと言葉を交わし、そして潤んだ瞳をゆっくりと閉じてザゼルに身を寄せていた。
「のう……姫。我が願い、聞いてくれるか……?」
ザゼルはその白く細い指をユリヤの胸元の痣に這わせながら尋ねる。
「願い……?」
魅入られたように見つめる虚ろな瞳のユリヤは、鸚鵡返しにザゼルの言葉を紡いだ。
「そうじゃ。我を……ここから解き放ってくれぬか?」
「解き放つ……?」
「我はここに百年間捕らわれている。」
「百年……。」
「始めは死に逝く人間の最後の我侭を聞いてやろうとしてな、ほんの気まぐれでその願いを叶えてやったのだ。我が水を与える、そしてその人間はクグツとなる、そういう契約だった。」
「クグツ……。」
「そう、我らイシューの力にしたがって生きる傀儡のことだ。だがな、その人間は三百年前アストラーンの地で失われた契約の方法を知っておってな、自らもクグツになったが、同時に我をこの水底に縛りつけおった。」
「……あなたは一人だったの?」
「そうじゃ。我は百年もの間、この水底の空間で、一人きりであった。そなたと同じに……。」
「私と……同じ……。」
「のう……ユリヤ……我が願い、聞いてくれるな。」
操られるようにこくりと頷くユリヤを見て、リンは焦った。このままユリヤにザゼルを解放されてしまっては、あの村も祭りに参加している村人達もただではすまないはずだ。




