第百六十二話
三神家の平和な休日の朝。
リビングには、珍しく家族五人が全員揃っていた。
父・五郎と、同じく仕事の都合をつけて休みを取った母・奈々美、そして姉の澪、妹の玲奈、長男の零である。
「よし! せっかく家族全員が揃ったんだ、今日は庭で盛大にバーベキューといくぞ! なあ、奈々美!」
五郎が、豪快に笑いながらパンと手を叩いた。
「わーい! お父さんのバーベキューだ!」
玲奈が無邪気に喜ぶ。
「えっ、でも庭のバーベキューコンロ、この前錆びてて捨てちゃったでしょ? それに食材も買い出しに行かないと」
澪が現実的な指摘をする。
「そこは心配無用! 近くの河川敷にある『予約制の貸切バーベキュー場』をさっきネットで押さえておいた! コンロも炭も全部レンタルできるぞ!」
五郎が親指を立てる。
「さすがあなた、仕事が早いわね」
奈々美が優しく微笑む。
「よし、それじゃあ買い出しは俺が行ってくるよ。父さんたちは先にバーベキュー場に行って、場所の確保と炭の火起こしをお願いできる?」
零が、エプロンを外しながら立ち上がった。宇宙一の主夫として、食材選びを他人に任せるわけにはいかない。
「任せとけ! ……あ、そうだ。澪と玲奈、もし暇な友達がいたら呼んでもいいぞ。せっかく貸切なんだから、大勢の方が楽しいだろ?」
五郎の気まぐれな提案。
「友達かぁ……。あ、そうだ! 私、緋雪ちゃん呼んでいい!?」
玲奈が目を輝かせる。
「おお、緋雪ちゃんか! よくうちに遊びに来てくれる、あの可愛いお嬢さんだな!」
五郎が我が意を得たりと頷く。
「あら、零の彼女の緋雪ちゃん? ぜひ呼んで頂戴。お母さん、また一緒にお話ししたいわ」
奈々美が嬉しそうに手を合わせた。
「だから彼女じゃないってば……。ただの姉ちゃんたちの職場の先輩だよ」
零がやれやれと首を振る。三神家の両親はすでに緋雪と面識があり、特に母の奈々美は、礼儀正しく美人な彼女をすっかり「息子の交際相手」だと信じ込んでいる節があった。
「いいじゃない。緋雪、最近パトロールばかりで休み取ってなかったみたいだし、気分転換にちょうどいいわ。私が連絡しておく」
澪がスマホを取り出し、素早くメッセージを送る。
「よし、じゃあ決まりだな! 零、食材は肉だけじゃなくて、お前の得意な海鮮も頼むぞ!」
「了解。じゃあ、ちょっと行ってくる」
こうして、三神家の平和な休日のバーベキュー大会は、予想外のゲストたちを巻き込むカオスな宴へと変貌していくこととなる。
駅前の巨大スーパー『ヤオヨシ』。
零は、巨大なエコバッグを二つ持ち、鮮魚コーナーと精肉コーナーを往復していた。
「牛カルビに豚バラ、鶏肉は塩麹に漬け込んで……よし。海鮮はエビとホタテ、それにイカの丸焼きも外せないな」
手際よく食材を選び、カゴに山積みにしていく。
その背後に、ヤオヨシの緑色のエプロンを完璧に着こなした三人の人影が、音もなく忍び寄っていた。
「……三神くん。大量の肉と魚介類。これは、今宵の大いなる宴の準備と見受けいたしました」
「ひっ!?」
耳元で突然囁かれ、零はビクッと飛び上がった。
振り返ると、そこには恍惚とした表情のルディア・ロンディニウムと、ゴスロリ衣装の上からヤオヨシのエプロンをつけた双子のルカとリリアが立っていた。
「ル、ルディアさん……ルカちゃんにリリアちゃんまで……」
零は冷や汗を流す。
「三神くんの宴の準備、お手伝いさせていただきます! ルカ、リリア! 直ちにバックヤードから、三神くんに捧げるに相応しい『幻の高級和牛』と『活きオマール海老』をすべて持ってくるのです!」
「はーい、ルディアさま!」
「お兄さんのために、全部持ってくるねー!」
双子がキャッキャと笑いながらバックヤードへ走ろうとする。
「ストォォォォップ!!」
零は、咄嗟に双子のエプロンの紐をガシッと掴んで引き留めた。
「捧げものじゃない! ただの家族のバーベキューだから! それに、店長の肉とか活きオマール海老なんて勝手に持ち出したら横領で捕まるから!!」
主夫としての、いや一般市民としてのモラルが、零を激しく突き動かす。
「……おお。三神くんは、神の寵愛を受けながらも自らの権威を振りかざすことなく、あくまで人間界のルール(レジを通す)に則って宴の準備をせよと仰っておられるのだわ……! なんという慎み深さ、なんという高潔さ!」
ルディアが、またしても完全に的外れな方向へ感動し、両手を組み合わせる。
(もう勝手に感動しててくれ……)
零は深いため息をついた。
「……とにかく、荷物が多くなっちゃったから、お言葉に甘えて運ぶのだけ手伝ってもらっていいかな? もちろん、レジは普通に通すから」
「はっ! 御意のままに!!」
「荷物持ち」という大役を任され、ルディアたちの士気が爆発した。
その頃、河川敷の貸切バーベキュー場。
五郎と奈々美がテントを張り、炭に火を起こしているところに、一人の少女が少し緊張した面持ちでやってきた。
「おじさま、おばさま! 今日はご招待いただき、ありがとうございます!」
私服姿の緋雪である。
彼女は、少しでも「家庭的で可愛い女の子」をアピールするため、フリルのついたブラウスとフレアスカートという、可憐な服装で現れた。
手には、マドレーヌが入った小さな紙袋を大事そうに抱えている。
「おお、緋雪ちゃん! よく来てくれたな!」
五郎が豪快に笑って歓迎する。
「いらっしゃい、緋雪ちゃん。今日はたくさん食べて、楽しんでいってね」
奈々美も優しく微笑む。
「はいっ! これ、つまらないものですが」
緋雪は、未来の義理の両親(と勝手に妄想している)を前に、完璧なご挨拶を決めた。
(よし……! 三神くんのご両親へのポイントは高いはず! あとは、三神くん本人が来たら、私が率先してお肉を焼いて、女子力をアピールするのよ……!)
緋雪が心の中でガッツポーズを作っていた、その時。
「ただいまー。食材買ってきたよー」
零の声と共に、三神家の長男が帰還した。
しかし。
振り返った緋雪の笑顔は、零の背後に続く「異様な光景」を見て完全にフリーズした。
「ほらルカ、リリア。三神くんへの供物を落とさないように気をつけて運ぶのですわよ」
「はーい! お兄さんのお手伝い、楽しいね!」
零の後ろには、ヤオヨシのエプロンをつけた絶世の美女と、ゴスロリ衣装の双子が、嬉々として大量の荷物を運んできている。
(……っ!? あの顔、間違いない……! 極悪カルト教団『福音の鐘』の最高指導者、ルディア・ロンディニウム!? それに、あの双子は教団の処刑人!!)
表舞台で戦う『白百合の盾』のトップエースである緋雪は、裏社会の重要人物たちの顔と情報をしっかりと把握していた。
(なんで三神くんが、あんな危険なテロ組織のトップを引き連れてるの!?)
緋雪の脳内で、最大級の警報が鳴り響く。しかし、五郎と奈々美の目の前で騒ぎ立てるわけにはいかない。
「お、零。買い出しご苦労! ……ん? その三人は?」
五郎が不思議そうに尋ねる。
「ああ、いつも行くスーパーのパートさんたちなんだけど、荷物が多いからって手伝ってくれたんだ」
零が苦笑いしながら答える。
「おお、それはご親切に! せっかくだ、お姉さんたちも少しお肉を食べていかないか? たくさんあるし!」
「なんと……! 三神くんのお父様から、直々に宴への参加をお許しいただけるとは……! 我々は三神くんの親愛なる『友人』であり、永遠に尽くすことを誓った身。喜んでご相伴に預かりますわ」
ルディアが、ヤオヨシのエプロンをヒラリと翻し、貴族のように優雅に一礼した。
(ゆ、友人? 福音の鐘のトップが友人!? 三神くん、どんだけ大物なの!?)
緋雪は顔を真っ赤にして戦慄した。
しかし、同時に緋雪の「実戦経験に基づく勘」が、ある事実を告げていた。
(……殺気がない。彼女たち、本当に三神くんやご家族に危害を加えるつもりはないみたい。……ここで私が騒いで事を荒立てれば、せっかくのBBQが台無しになるし、三神くんの平和な日常を壊してしまう。今は……黙っておこう)
一方のルディアも、緋雪の姿を視界の端に捉え、黄金の瞳を細めていた。
(白百合の盾のトップエース……なぜ神の宴に。だが、三神くんの御前で騒ぎを起こすのは無作法というもの。ここは穏便に済ませておきましょう)
そこへ、さらなるカオスが追加される。
「あら。隨分と騒がしいわね。何かのパーティーかしら?」
河川敷の遊歩道を、日傘をさして優雅に歩いてきたのは、三神家の隣人であり、世界的な秘密組織『星監』の最高指導者——ヴィクトリアであった。
「あ、ヴィクトリアさん」
零が振り返る。
「おお! 隣のローゼンベルグさんじゃないか!」
五郎が大きく手を振る。
「み、三神くんのお父様……!?」
ヴィクトリアは、五郎の姿を見るなり、ビシッと背筋を伸ばして最敬礼した。
(星監のトップとして、彼のご家族に失礼があってはならないわ……!)
「ちょうど良かった! 今からうちの家族と、玲奈の職場の後輩ちゃんと、スーパーのパートさんたちでバーベキューやるんだ! ローゼンベルグさんもどうだい?」
五郎のフレンドリーさは、世界的な秘密組織のトップすらも巻き込む。
「えっ……? 私が、三神くんの極秘の親睦会に……? は、はい! 喜んで参加させていただきます!」
ヴィクトリアは、日傘を畳んで嬉々として三神家のテントへと合流した。
(今度は『星監』の総帥、ヴィクトリア・ローゼンベルグ!? なんで三神家のお隣さんとして親しくしてるの!?)
緋雪のキャパシティは完全にオーバーしていた。
ヴィクトリアもまた、緋雪とルディアの姿を見て内心で驚愕していたが、(エージェント零は表の白百合のエースも裏の福音の鐘も懐柔しているというの? さすがは化け物……)と勝手に納得し、笑顔を取り繕った。
こうして。
表の世界を守る白百合のトップエース(緋雪)、裏社会で暗躍する福音の鐘の最高指導者、そして星監の最高指導者という、世界のパワーバランスを代表するトップたちが、お互いの正体を知りつつも牽制し合いながら「普通の女の子」「スーパーのパート」「お隣さん」を演じ切るという、極限の心理戦がスタートしたのである。
「よし、炭もいい感じに焼けてきたな! じゃあ、肉を焼いていくぞ! 誰かトングを頼めるか?」
五郎が周囲を見渡す。
「はいっ! 私がお肉焼きます!」
緋雪が、女子力アピールのために勢いよく立ち上がり、トングへ手を伸ばした。
「私、零くんのために……あっ!」
どさくさに紛れて、ついに「三神くん」から「零くん」呼びへとステップアップを試みた緋雪。
しかし、その手にトングが届くよりも早く、横からスッとヤオヨシのエプロンを着た腕が伸びてきた。
「……出過ぎた真似を。三神くんの宴の調理を、あなたのような小娘に任せるわけにはいきませんわ」
ルディアが、トングの片側をガシッと掴んだ。
「彼への供物は、この私が完璧な火加減で焼き上げます」
「ちょっと! 私が先に立候補したんですけど!」
緋雪がトングのもう片方を握りしめ、ギリィッ……と引っ張り合う。
「あら。肉を焼く程度で争うなんて、滑稽ね、ルディア・ロンディニウム」
ヴィクトリアが、腕を組んでフッと鼻で笑い、フルネームで牽制する。
「……あなたこそ、ここで何を企んでいるのかしら、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
ルディアの黄金の瞳が、ヴィクトリアを鋭く射抜く。
「三神くんに相応しいのは、ただ焼いた肉ではないわ。私が、本場ヨーロッパ仕込みの完璧なグリル技術を披露してあげる」
ヴィクトリアが、空いていた予備のトングを手に取り、コンロの前に陣取った。
「……上等じゃない。私だって、お料理教室で……じゃなくて、温度管理くらい完璧にこなしてみせるわ!」
緋雪の負けず嫌いに完全に火がつく。
魔法を使えば大惨事になる。そして、変身していない零は魔法を使うことができない。
だからこそ、彼女たちは「純粋な物理と覇気」だけでトングを奪い合い、コンロの前のベストポジションを巡って凄まじい睨み合いを展開し始めた。
「私が焼きます!」
「いいえ、私が焼きますわ!」
「あなたたちは下がっていなさい!」
バチバチバチッ! と、目に見えない火花が散る。肉のパックが今にも宙を舞いそうになるほどの引っ張り合い。
「ストォォォォップ!!」
見かねた零が、三人の間に入ってトングをすべて強引に回収した。
「もういい! 肉を落としたらどうするんだ! 俺が全部焼くから、三人とも座っててくれ!」
主夫にとって、食材を粗末に扱うことおよび落とす危険性があることは万死に値する。
零は鮮やかな手つきでトングを操り、網の上に牛カルビ、豚バラ、そしてホタテを絶妙な配置で並べていった。
ジュワァァァァッ……!!
炭火の香ばしい匂いが立ち上る。
零は、肉の脂の落ち具合、炭火の強弱、そして裏返す完璧なタイミングを、まるで芸術品を仕上げるかのような真剣な眼差しで見つめていた。
変身していなくても、彼の「家事スキル」は特S級である。無駄のない動きで次々と肉を焼き上げ、最高の状態でお皿に取り分けていく。
「……す、すごい……」
緋雪が、零の鮮やかなトングさばきに見惚れてポカンと口を開ける。
「なんと無駄のない所作……。神自らが火を操り、我々に糧を……」
ルディアが感動のあまり拝み始める。
「エージェント零……戦闘だけでなく、グリルまで極めているとは……!」
ヴィクトリアもゴクリと喉を鳴らした。
「よし、焼けたぞ。はい、これ」
零が取り分けた極上のカルビを、三人が一斉に箸で掴んだ。
そして。
「れ、零くん! はい、あーん!」
「三神くん! 私が焼いたわけではありませんが、私からどうぞ!」
「三神くん! さあ、私の箸からお食べなさい!」
自分が焼いた肉を、なぜか三人の美女から同時に「あーん」で食わされそうになるという、意味不明のハーレム状況が発生した。
「わ、分かった! 分かったから、順番に食べるから!! ってか俺が焼いた肉なんだけど!」
零は、組織のトップ三人からの強烈なアプローチに囲まれ、ひたすら肉を口に放り込まれる苦行を強いられた。
「お兄ちゃん、モテモテだねー」
玲奈がエビをかじりながら笑う。
「全く。今度は強烈な女の人たちに囲まれて……零の貞操が心配だわ。緋雪ちゃんならともかく、大人の女の人はちょっとねぇ」
澪が、少し呆れたようにため息をつく。
こうして。
世界のパワーバランスを担う少女と大人たちの熾烈な戦いは、三神家のバーベキューという極めて平和的な空間で、夕暮れまで延々と続くのであった。




