第百六十話
スーパー銭湯『リオンの湯』での恐るべき女子会を終え、ようやく自宅近くの路地裏へと逃げ込んだ特S級の未登録魔法少女・ゴースト。
その中身である三神零は、すべての気力を使い果たし、真っ白な灰となって壁に寄りかかっていた。
「……終わった……俺の尊厳と、すべて終わった……」
深い絶望の吐息を漏らしながら、零は変身を解除するために意識を集中させた。
普段であれば、魔力の巡りを止めて「変身解除」と念じるだけで、漆黒のドレスは霧散し、見慣れた男子高校生の制服(今日は休日の私服)へと戻るはずである。
「……変身、解除」
呟く。
しかし。
一秒経っても、十秒経っても、身体を包む布の感触は変わらなかった。
「……え?」
零は、自らの手元を見下ろした。
そこにあるのは、ゴツゴツとした男子の手ではなく、白磁のように滑らかで細い少女の指先。
そしてその身体を包んでいるのは、先ほどショッピングモールで三神姉妹(澪と玲奈)に強引に着せ替えられた、「淡い水色の清楚なワンピース」であった。
「……うそだろ。変身、解除! 解除だってば!!」
何度念じても、魔力をオフにしようとしても、ゴーストの姿は一向に解ける気配がなかった。
(なんでだ!? 昨日の夜、五カ所連続で極大魔法をぶっ放したせいで、魔力回路がオーバーヒートしてバグってるのか!? それとも、姉ちゃんたちとお風呂に入った精神的ショックで、コントロールを失ってるのか!?)
原因は不明だが、現実として、零は『清楚なワンピースを着た絶世の美少女』の姿のまま、元の男子高校生に戻れなくなってしまっていた。
「どうしよう……このままじゃ家に帰れ
ない。姉ちゃんたちに『やっぱりストーカーがついてきた!』って通報される……!」
零は頭を抱えた。
特売の卵を買い逃した悲しみよりも、今夜の夕飯の準備に間に合わないかもしれないという主夫としての最大の危機が迫っている。
(とにかく、少し歩いて魔力を落ち着かせよう。時間が経てば、きっと回路も正常に戻るはずだ……)
零は、誰かに見られないように、人気のない薄暗い路地裏や、使われていない廃工場の裏道を選んでトボトボと歩き始めた。
特S級の絶望の死神が、清楚な水色のワンピース姿で、肩を落として裏路地を歩く。その姿は、まるで迷子になった箱入りのお嬢様のようであった。
だが、その微弱な魔力の漏れを、絶対に逃さない少女がいた。
しかし、
「——そこまでよ、ゴースト」
背後から、空気を凍らせるような鋭い声が響いた。
零がビクッと肩を揺らして振り返ると、そこには私服姿のまま、手にした氷の太刀を真っ直ぐにこちらに向けている少女が立っていた。
『白百合の盾』トップエース・羽衣緋雪である。
「白百合の騎士様……!?」
ゴーストは内心で焦ったが、表面上は冷徹な死神のポーカーフェイスを瞬時に構築した。
「……奇遇ね、白百合の騎士。休日の散歩かしら?」
ゴーストは、ワンピースの裾を僅かに揺らしながら、余裕の笑みを浮かべてみせた。
「散歩なわけないでしょ。真奈から『ゴーストがリオンモールにいる』って報告を受けて、端末の魔力レーダーを最大にして索敵してたのよ。……微弱に魔力を漏らしながら路地裏を歩くなんて、あなたらしくないわね」
緋雪は、太刀の切っ先を下げずにゴーストを睨みつける。
しかし、その瞳には強い「困惑」が入り混じっていた。
(な、なんなのよ、その服……!)
緋雪は内心で激しく動揺していた。
ゴーストといえば、常に漆黒のゴシックドレスを纏い、人間を虫ケラのように見下す冷酷無比な死神のイメージだ。
それが今、淡い水色の清楚なワンピースを着て、少しだけ所在なさげに路地裏に立っている。そのあまりのギャップと、腹立たしいほどの美しさに、緋雪の頭は混乱していた。
「……私と戦うつもり? 昨日の夜、品川で魔力と体力を使い果たしたはずでしょう。無茶は褒められないわね」
ゴーストが、静かな声で牽制する。
実際、緋雪の顔にはまだ深い疲労の色が残っていた。ここで戦闘になれば、彼女に怪我をさせてしまうかもしれない。零としては、絶対にそれは避けたかった。
「……ええ、分かってるわ。今の私があなたに敵わないことくらい」
緋雪は、ギリッと奥歯を噛み締め、氷の太刀を魔力粒子へと還元して虚空に消した。
「でも、あなたをこのまま野放しにするわけにはいかない。あなたが三神くんの日常を壊そうとしているなら、私は絶対に止める」
緋雪は、真っ直ぐな瞳でゴーストを見据えた。
「戦う気がないなら……少し、付き合いなさい。話があるわ」
「……話?私は無いわ」
「ええ。近くに、人目につかない落ち着いた
カフェがあるの。……逃げないなら、来なさい」
緋雪が踵を返して歩き出す。
(……マジか。俺、さっきまで姉ちゃんたちとフードコートでアイス食べて、スーパー銭湯でフルーツ牛乳飲んだばかりなんだけど。お腹タプタプだよ)
零は内心で嘆きながらも、ここで逃げれば緋雪が無理をしてでも追ってくるだろうと判断し、大人しく彼女の背中についていくことにした。
緋雪が案内したのは、大通りから一本路地に入った場所にある、隠れ家的なアンティーク調のカフェだった。
奇しくもそこは、数日前に零と緋雪が一緒に放課後のお茶をした、あの「ブラックコーヒーで背伸びをしたカフェ」であった。
カランコロン、とドアベルを鳴らして店内に入る。
平日の昼下がということもあり、客はまばらで、一番奥のボックス席が空いていた。
「……いらっしゃいませ。ご注文は……」
ウェイトレスがメニューを持ってきたが、清楚なワンピース姿の絶世の美少女と、少しピリピリしたオーラを放つ美少女(緋雪)の組み合わせを見て、少し戸惑ったように声を震わせた。
「私は……ロイヤルミルクティーと、季節のフルーツタルトをお願い」
緋雪がメニューを見ずに注文する。
零の前では「大人の女」を演出するために無理してブラックコーヒーを頼んでいた彼女だが、恋のライバル(と勝手に認定しているゴースト)の前では、見栄を張る必要はない。堂々と自分の好きな甘いものを注文した。
「あ、私は……ダージリンティーをストレートで」
ゴーストは、お腹がタプタプだったのでケーキは辞退し、無難な紅茶を注文した。
ウェイトレスが下がり、二人の間に重苦しい沈黙が降りる。
ゴーストは、背筋を伸ばして優雅に座りながら、紫の瞳で緋雪の様子を窺っていた。
(羽衣さん、本当に疲れてるみたいだな。目の下に少しクマができてる。昨日の夜、民間人を守るために俺の盾になってくれたもんな……)
零は、彼女の献身的な働きを思い出し、内心で深い感謝と労いの念を抱いていた。
やがて、注文した紅茶とタルトが運ばれてきた。
緋雪は、ミルクティーに口をつけ、ふう、と息を吐いてから、鋭い視線をゴーストに向けた。
「……単刀直入に聞くわ。あなた、どうして三神くんに付き纏うの?」
「……」
「昨日の夜、あなたは私たちを助けてくれた。でも、それはただの気まぐれなんでしょう? あなたの本当の目的は、特S級の力を見せつけて、私たちのような魔法少女を絶望させ……そして、何の力も持たない善良な一般市民である三神くんを、あなたの支配下に置くことなんじゃないの?」
緋雪の口から飛び出した、あまりにも飛躍した、しかし彼女の中では完全に辻褄が合っている推理。
(支配下!? 善良な一般市民を!?)
零は、紅茶を吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
(ストーカーどころか、魔王が村人を拉致するみたいな設定になってる! 羽衣さんの想像力、豊かすぎるだろ!)
「……ふふっ。あなたの想像力には感服するわ」
ゴーストは、カップをソーサーに置き、冷ややかでミステリアスな笑みを浮かべた。
「でも、私が彼に惹かれているのは事実よ。彼には、私にはない『特別な価値』があるの」
「……っ! やっぱり……!」
緋雪が、テーブルの下でギュッと拳を握りしめた。
彼女の脳内では、「特別な価値」=「唯一無二の愛しい存在」へと自動翻訳されている。
「それにしても、腹立たしいわね」
緋雪が、ゴーストの着ているワンピースをジロッと睨みつけた。
「その服。いつもは漆黒のドレスを着ているくせに、三神くんの気を引くために、わざわざそんな『普通の女の子』っぽい清楚な服を着ているのね。……姑息だわ!」
(姉ちゃんたちに無理やり着せられただけだよ!!)
零は内心で血の涙を流したが、ここで「着せ替え人形にされた」などと言えるはずもない。
「……何を着ようが、私の勝手でしょう。それとも、私が普通の服を着ているのが、そんなに脅威なのかしら?」
ゴーストが、挑発するように小首を傾げる。
「きょ、脅威なわけないでしょ! 三神くんは、あんな……あなたの見え透いた清楚アピールなんかに騙されないんだから!」
緋雪が顔を真っ赤にして反論する。
「三神くんはね、すごく優しくて、包容力があって、私の背伸びに気づいて甘いコーヒーを作ってくれるような、素敵な男性なんだから!」
(素敵な男性……。いや、ただ俺も苦いコーヒーが苦手だったからミルクと砂糖入れただけなんだけど)
零は、数日前のこのカフェでの出来事を思い出し、いたたまれない気持ちになった。
「だから……!」
緋雪は、テーブルから身を乗り出し、真っ直ぐな瞳でゴーストを見据えた。
「あなたの実力がどれだけ凄くても、私は絶対に諦めない。三神くんの平和な日常は、私が守る。あなたがどんな手を使おうと、彼の隣を歩く権利は……アナタなんかに絶対に譲らないんだから!」
それは、白百合のトップエースとしての誇りと、一人の恋する乙女としての、純粋で燃え上がるような宣戦布告であった。
その真っ直ぐな瞳を正面から受けたゴーストは、内心で深く感動していた。
(羽衣さん……。本当に正義感が強くて、一般市民である俺の平和な日常を守ろうと、こんな特S級の化け物にまで真正面から立ち向かってくれるんだな。魔法少女の鑑みたいな人だ)
零は、彼女の「恋心」を、相変わらず「魔法少女としての純粋な保護欲と正義感」だと完璧に勘違いしたまま、自己完結させてしまった。
ゴーストは、冷徹な死神の仮面の奥で、優しく微笑むように目を細めた。
「……ふふっ。吠える子犬ね。好きになさい」
ゴーストは、ティーカップを持ち上げ、ダージリンティーを一口飲んだ。
「あなたがそこまで言うなら、せいぜい頑張ることね。……ただし、彼(三神零)の夕飯の準備の邪魔だけはしないように」
「えっ……? 夕飯?」
緋雪がキョトンとする。
「そうよ。彼の作る料理は、特に特売の秋刀魚の塩焼きは絶品だから。……邪魔をしたら、容赦しないわ」
ゴーストは、自分自身の料理スキルを自画自賛するという謎の牽制を残し、席を立ち上がった。
(よし、魔力回路も落ち着いてきた。今なら変身を解除できそうだ。早く帰って夕飯の支度をしないと!)
零は、体内の魔力が正常な流れに戻りつつあるのを感じ取っていた。
「お茶、ごちそうさま。……また会いましょう、白百合の騎士」
ゴーストは、伝票を緋雪の前にそっと滑らせると(持ち合わせのお金がなかったため)、足元に伸びる影の中へと優雅に沈み込み、カフェの店内から完全に姿を消した。
残された緋雪は、誰もいなくなった向かいの席と、一口しか飲まれていない紅茶のカップを呆然と見つめていた。
「……夕飯の準備の邪魔をするな……?」
緋雪は、ゴーストの残した不可解な言葉を反芻する。
「まさか、あのストーカー女……すでに三神くんの家の夕飯の献立まで把握しているっていうの!? 昨日の夜、秋刀魚の塩焼きだったことまで知ってるなんて……!」
スーパーで零と一緒に特売の秋刀魚を選んだ緋雪にとって、それは驚愕の事実であった。
「くっ……! やっぱり、ストーカーとしてのレベルが桁違いだわ……! 私なんて、まだ一緒にお茶をしただけなのに……!」
緋雪は、恋のライバル(ゴースト)の圧倒的な「三神くん情報網」に恐怖と焦りを覚え、フルーツタルトをヤケ食いするようにフォークで突き刺した。
「負けない……! 次は私が、三神くんのために手作りのお弁当を作ってアピールしてやるんだから……!」
絶望の死神の不可解な行動と、的外れな牽制の言葉は。
氷のトップエースの心に、新たなる闘志と「女子力アップへの情熱」を燃え上がらせる結果となったのであった。
一方、影移動でようやく自宅の近くの路地裏へと帰還し、無事に変身を解除できた三神零は。
「……よかった、戻れた……。急いで帰って、今日の夕飯のハンバーグの玉ねぎを微塵切りにしないと!」
自分が緋雪に「お弁当アピール」という新たなフラグを立ててしまったことなど知る由もなく、平和な日常を守るための主夫業へと、全速力で駆け出していくのであった。




