第一話
朝の教室は、いつも通りのざわめきに満ちていた。
三神零は窓際の席で、ノートに視線を落としたまま、あくびを噛み殺していた。黒髪は短く整えられ、少し眠たそうな黒い瞳は、傍から見れば単なる寝不足の優等生にしか映らない。制服も着崩さず、目立たないように——それが零の処世術だった。
「零、また眠そうだな」
隣の席の友人が、からかうように声をかけてくる。
「昨日、遅くまで勉強してて」
零は当たり障りのない嘘を返した。本当の理由は言えない。昨夜、隣町に出没した魔獣を仕留めて帰ってきたのが、日付が変わる頃だったからだ。
人類を守るため、魔法少女協会が世界各国に支部を持ち、魔獣討伐にあたっている——それは誰もが知る常識だった。だが、その協会に登録されていない魔法少女が、しかも男性がこの国に存在することを、教室の誰も知らない。
零はその、唯一の存在だった。
協会識別コード「ゴースト」。正体不明、性別不明、所属不明として記録されているその名は、三神零自身が名乗ったことなど一度もない。ただ、噂と目撃情報だけが独り歩きし、協会のファイルにいつの間にか刻まれていた。
昼休み、机に突っ伏しながら、零はぼんやりと窓の外を眺めていた。
「零ってさ、休み時間いつも眠そうだよね。夜更かし系?」
同じクラスの女子生徒が、興味本位で話しかけてくる。
「まあ、そんなところ」
適当に受け流しながら、零は密かにポケットの中のスマートフォンを気にしていた。魔獣の反応を独自に拾い上げるためだけに、半年かけて作り上げた非公式の警報アプリ。今のところ、静かなものだ。
放課後になり、零はいつものように部活にも寄らず、まっすぐ帰路についた。友人には「家の手伝いがある」と、これも当たり障りのない嘘をついている。
人の少ない河川敷まで歩き、あたりに誰もいないことを確認してから、零は小さく息を吐いた。
「——変身」
声にするかどうかは些細な習慣に過ぎない。魔力が体の内側から沸き上がり、皮膚の表面を撫でるように広がっていく感覚。次の瞬間、少年の輪郭は解け、そこに立っていたのは紫がかった漆黒のロングヘアを揺らす、一人の少女だった。
紫色の瞳。白を基調に黒と紫のラインが走る魔装。黒いマントが一陣の風に舞う。
ゴースト——それが、変身後の三神零の姿だった。
なぜ性別が反転するのか、協会の研究者たちが束になっても解明できていない現象だ。零自身も理由を知らない。ただ、この姿になった時だけ、体の奥から途方もない力が流れ込んでくることは分かっていた。
河川敷から橋の下を通り、いつもの見回りコースを辿る。協会には所属していなくとも、零は自分なりのやり方で、この街を守っていた。日が落ちきる前のこの時間帯、人目につかない場所を選んで街を巡回するのが、変身後の——ゴーストとしての日常だった。
橋を渡りきったところで、警報アプリが震えた。座標は、河川敷から少し離れた工場跡地。
ゴーストは屋根伝いに跳び、現場へと急いだ。
到着した廃工場の敷地には、体長三メートルほどの、黒い甲殻に覆われた魔獣がうずくまっていた。まだ人目にはついていないようだが、この規模の個体を放置すれば、いずれ市街地に流れ出て被害が出る。
ゴーストは迷わず大剣を構え、間合いを詰めた。
闇属性による瞬間移動——正確には「移動」というより「跳躍」に近いその力は、一瞬にして敵との距離を詰める。魔獣が気配に気づいて振り返るよりも早く、大剣の刃が甲殻を割った。
咆哮。魔獣が暴れ、瓦礫を撒き散らす。だがゴーストの太刀筋に迷いはない。
相手を生かして帰すつもりは、初めからなかった。
魔獣に対しては容赦しない。それがゴーストの——零の、もう一つの原則だった。人に害をなす存在を、生かしておく理由はない。手加減する対象は、あくまで人間、それも魔法少女に限られる。魔獣相手には、確実に、そして迅速に。
二撃目で急所を捉え、魔獣は短い痙攣の後、動かなくなった。絶命したことを確認し、ゴーストは大剣を鞘に収めた。
息を整えながら、ゴーストは瓦礫の間に立ち尽くす。
(今日はこれで最後、だといいけど)
周囲を見渡し、他に反応がないことを確かめてから、ゴーストは静かにその場を後にした。協会の対応部隊が到着する前に、姿を消すのはいつものことだ。
変身を解いた零は、河川敷のベンチに腰を下ろし、荒く息をついた。
制服のポケットからスマートフォンを取り出すと、友人からのメッセージが届いていた。「今日、部活来なかったけど大丈夫か?」という、何気ない一文。
「……ああ、大丈夫」
零は独りごちて、短く返信を打った。
空はすっかり茜色に染まっている。零はしばらくその色を眺めながら、ふと、幼い頃の記憶に思いを馳せた。
周防凛音。
零がまだ五歳だった頃、暴走した魔獣の群れから彼を守り、その身を挺して戦った女性。氷炎の剣姫と呼ばれた彼女の最期の姿は、今も零の瞼の裏に焼き付いている。あの日、彼女が最後に見せた笑顔と、そして零へと流れ込んできた不可思議な力——それが、零が「ゴースト」となった始まりだった。
(自分も、誰かを守れる人間になりたい)
その一心で、零はこれまで戦ってきた。協会に属さず、たった一人で。
協会に所属すれば、身体検査、血液検査、能力研究、そして長期間の監視——男性初の魔法少女である以上、避けられない運命だ。協会そのものを嫌っているわけではない。むしろ、幼い頃に自分を救ってくれた英雄への憧れは、今も色褪せていない。だからこそ、今は距離を置くしかない、と零は自分に言い聞かせていた。
夕暮れの河川敷を歩きながら、零は明日の授業のことを考える。数学の小テスト、提出物の期限——ごく普通の高校生としての悩みが、頭の中を占めていく。
昼は目立たない優等生、夜は正体不明の魔法少女。二つの顔を使い分ける生活は、もう何年も続いている。誰にも気づかれず、誰にも頼らず、それでいいと零は思っていた。
少なくとも、今はまだ。




