第18話―11 玉裏切裂之助の苦悩
天井を突き抜けて、宙高くまで轟いた円の悲痛な叫びを、たまたま通りがかったカゼッタ星からの惑星探査UFOがキャッチして、その内容について審議に入った頃、ある男がトイレの個室で頭を抱えていた。
彼はプロレス研究会の田中正則と言う。いや、やはりここは本名よりもリングネームで紹介するのが道理というものであろう。彼こそは、明日の省吾たちの対戦相手のひとり、アマチュアプロレスラーの玉裏切裂之助、その人である。
その由来は小学生の頃まで遡る。その日学校の廊下は、長く続く梅雨の影響でツルツルとよく滑った。水捌けの悪い、古い鉄筋コンクリート製校舎特有の危険な状態である。しかし小学生男子というものはなんでも遊びにしてしまうものだ。ある者が助走をつけて、勢いよく両膝で滑っていくという技を編みだした。
これが休み時間のイノベーションとなる。いかに長い距離を止まらずに滑り続けられるかという競技に発展し、多くの者たちがここに挑戦していった。玉裏もそのひとりだった。何度か繰り返すことで、彼はコツをつかんでいた。もともと運動神経には自信があり、こういった遊びでは先頭を行くのが常だ。
次はすごい記録が出るぞ!幼き玉裏はそう確信した。廊下の端にスタンバった彼はこれまでの倍は助走を取り、そこからスムーズに両膝での滑走に移行した。ものすごい勢いで、景色が流れていく。同輩からの称賛の声が耳に届いた。それまでの記録を軽々と凌駕してもまだ止まらない。あれ?マジ止まんねえ!
廊下はもうすぐ終わろうとしているのに、勢いはまったく衰えを知らない。このままではぶつかるっ!そう思った玉裏は、とっさに尻を床につけ、ブレーキを試みた。しかし結果的にはこれがマズかった。ズボンの尻でもまだ滑る!玉裏は股をおっぴろげたまま進んでいく。少し進路は逸れて、目の前には鉄製の防火扉。その角の部分に股間を強かに打ちつけた!
その瞬間、全世界がオォウ⋯⋯とため息を漏らしただろう。上空で競技を観戦していたカゼッタ星人も手で目を覆う。玉裏はあまりの痛みにギャアアアアと叫んだ。周りのみんなは、なにをそんな大袈裟な、と笑いながら駆け寄ってくる。しかし彼らは白目を剥いて泡を吹いた、シャレにならない玉裏の姿をそこに見出した。
病院に搬送された玉裏の白ブリーフは真っ赤に染まっていた。タマタマがぱっくり裂けていたのだ。彼は手術を受け、数日間入院した。潰れなかったのは運がよかった。お医者さんはそう言った。ナースのおねえさんはニタニタ笑いながら優しくお世話してくれた。そして、クラスに復帰した玉裏は運動のできる活発な男子から、お笑いネタキャラへとクラスチェンジしていた。
根が明るい玉裏はへこたれない。むしろその新たな役割を謳歌したと言ってもよいだろう。中高と上がっていっても、「俺の玉には縫い目がもうひとつあるんだぜい!」とネタにした。それがそのまま、大学生となったいま、"玉裏切裂之助" というリングネームになっている。
おっといけねえ、話がすっかり脇へ逸れちまった。そんなのどうでもいいんだ。いやホント、クソどうでもいいわ。そんなことより、いまトイレの個室にいる彼のよく滑る膝の上、そこにちょこんと座っている西洋人形が問題なのだ。
翌日の試合について確認することがあって、玉裏は村上と連絡を取ろうとした。彼らは同級生で仲がいい。このカードも玉裏が本気になって動いたことで実現したのだ。何度か電話をかけた。しかし反応は梨の礫。ぜんぜん連絡がつかない。
それもそのはず、そのとき村上はスマホを携帯していなかった。空手着のまま移動してしまったので、ロッカーに置きっぱなし。英依に目が眩んでいたとはいえ、お前やっぱり昭和バンカラ野郎かよ。現代の若者にあるまじき行為である。財布も持ってきていなかったので、屋台で金を払わなかったのはそういう理由でツケにしてもらったのだ。円が想像したようなパワハラの類ではなかったことはここに明記しておこう。
とにかく連絡がつかなくて困った玉裏は、村上を探しに空手部の屋台までやってきた。そこで村上がオカ研の英依といっしょに歩いていったという情報を得る。それでオカ研の展示会場までやってきたのであった。
しかし残念ながら行き違ってしまったようだ。そこに村上の姿はなかった。どころか人がぜんぜんいない。店番だろう、地味な感じの女の子が机に突っ伏して寝ているだけである。どうしよう、起こして尋ねてみるべきか?玉裏は迷ったが、結局そのまま立ち去ることにした。
部屋から出ようとしたその時だった。誰かの声を聞いたような気がした。女の子が起きたのかなと振り返る。しかし彼女は相変わらず突っ伏したまま。空耳かとまた前を向くその途中で目が合った。これはもう完全に合ってしまったのだ。
その愛らしい娘は玉裏に呼びかけた。
(ねえ、連れていってよ)
気がついたら、玉裏は人形を上着の内側に包み込むようにして、外を歩いていた。なんじゃコリャと驚き、自分のやってしまったことを自覚して、トイレの個室に駆け込んだ。いまここである。
「あーどうすっかなあ俺もなあ」玉裏にはなぜ自分がこんなことをしてしまったのかわからなかった。これまでの人生で、盗みを働いたことなど一度もないのに。
お人形に目をやる。可愛いらしさはあるが、どこか不気味な雰囲気のある人形だった。こんなのまったく欲しくない。むしろ家にあったら怖くなってしまうだろう。いったいどうすれば⋯⋯
隠蔽するしかねえな。玉裏はそう決断した。決めてしまえば行動は早い。そういう、あまり後先考えない性格であった。トイレから出ると、コソコソと人目を忍んで、とりあえず自分たちの出し物のところまでやってきた。さっきひと興行終えたばかりのリングである。すでに片付けも済んで、人の姿はなかった。
「まあここでいいか⋯⋯」玉裏は呟いた。そうしてリング下に潜り込んでいく。
そこには試合で使うパイプ椅子や机、脚立に竹刀、等々、雑多な物が押し込まれている。その中に混ぜ込むように、人形を奥の方に置いた。
「大人しくしててくれよ」そう言って、苦笑した。人形になにを言ってんだ俺は。そしてリング下から抜け出すと、何事もなかったかのようにその場をあとにしたのだった。




