LOG.144 囁く屋上、消える証明
LOG.144 囁く屋上、消える証明
### ◆ 朝──袖を掴む手
夜明け前まで続いた不気味な出来事のせいで、冷の目の下には濃い影ができていた。訓練場に立つ候補生たちの列の中、曇り空が重くのしかかる。号令が響き、点呼が始まったが、やはり「桜井」の名は呼ばれなかった。
冷が横目で見ると、さくらが不安げに冷の袖を小さく掴んでいた。冷気に震える指先が切なかった。彼女の頬はすでに濡れており、こらえきれなかった涙がぽろぽろと零れていた。心の中では何度も「桜井、桜井」と自分の名を繰り返し、呼ばれなかった事実に胸を締め付けられていた。
「ねぇ、私……本当にここにいるよね?」
声は囁きに近い。涙で震え、か細いその響きは今にも消えそうだった。冷は彼女を見つめ、力強く答えた。
「ああ。ここにいる」
その言葉にさくらは小さく嗚咽をもらしたが、必死に唇を噛んで声を殺した。涙に濡れた瞳が冷を信じるように揺れ続けていた。
しかし周囲の候補生たちはそのやりとりを不思議そうに見るだけで、誰も彼女の存在を認める言葉を発しなかった。
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### ◆ 午前講義──消された出席
講義室。教官が出席を読み上げるが、やはり「桜井」の名は一度も呼ばれない。教壇に立つ教官は淡々と制度の仕組みを解説していたが、その言葉は虚ろに響くだけだった。
まつりが端末を操作し、昨夜の記録を調べ直す。「やっぱり……完全に消されてる。痕跡すら残ってない」
天音が苦々しい声を漏らす。「これは制度が“いなかったこと”にしようとしてる証拠だわ」
隣に座るさくらは小さく震えていた。唇を噛み、涙をこらえているが、頬を伝う雫は止まらない。小さな声で、まるで自分自身に言い聞かせるように「もうやだよ……消えたい……」と呟いた。震える声は掠れて誰にも届かないようで、しかし冷の耳にだけはしっかり届いた。冷は机の下で彼女の手を握りしめ、必死に安心させようとした。その小さな手は冷たく、頼りなく震えていた。
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### ◆ 昼休み──短い微笑み
昼休み。騒がしい食堂の片隅で、冷とさくらが少し二人きりになる時間を得た。さくらの瞳は涙に濡れ、頬にはうっすらと光の筋が残っていた。
「……もし、みんなから忘れられても、冷くんだけは覚えていてくれる?」
「絶対に忘れない」
「前は忘れたくせに」とさくらは精一杯の笑顔を見せたが、その声は震えていて、言葉の最後は嗚咽に呑み込まれた。彼女は口元を押さえ、小さく肩を震わせて泣き始める。冷の胸に抱き寄せられると、安心のせいか一層嗚咽が止まらなくなり、涙で彼の胸元を濡らした。冷が答えると、さくらは涙ぐみながらも微笑んだ。その笑顔は儚く、消えそうな光のように弱々しかった。だが、その瞬間だけは二人の世界が閉じられたように感じられた。
「今なら冷くんとキスしてもバレないかな?」
「!!!」
「けど、フェアじゃないか、、、、ごめんね」
冷はしずかにさくらを抱きしめた。
だが背後から聞こえる女子候補生たちの声が、彼女を再び現実に引き戻す。「冷って女子に囲まれてばかり。天音に、まつりに……それに湊まで」
やはり“さくら”の名はなかった。さくらは箸を置き、泣きそうに俯き、ぽろぽろと涙をこぼす。「やっぱり、私はこの世界にいないのかな……」
冷はすぐに彼女の肩に触れ、真剣な眼差しで「いる」と告げた。彼の声だけが彼女を繋ぎ止めていた。
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### ◆ 午後──屋上の光
午後の訓練。空は一層暗くなり、雲の切れ間から鈍い光が差し込む。ふいに屋上のフェンスの向こうに白い影が現れた。今度は誰の目にもはっきりと分かる。長い髪を揺らし、手を振っている。さくらと瓜二つの姿。
「見ろ! あれは……!」
候補生たちの間に恐怖が走る。「やっぱり彼女は影になったんだ!」という声が上がる。ざわめきが広がり、恐怖は伝染するように場を覆っていく。誰もが息を潜め、ざわざわと足元の砂を踏み鳴らす音すら不気味に響いた。
「違う!」冷が叫ぶ。「あれは違う、さくらはここにいる!」
必死の声に、湊も涙を浮かべて続いた。「いるよ! 僕たちと一緒に!」
だが群衆は耳を塞ぐように視線を逸らした。屋上の影は微笑んでいるように見え、その姿はまるで別れを告げるかのように儚かった。次の瞬間には靄のように消え去り、校庭にはざわめきと恐怖だけが残った。
「いやだ……行かないで……!置いていかないで!」
さくらはその場で膝をつき、声を震わせて泣き崩れた。大粒の涙が頬を伝い、肩を上下させて嗚咽を漏らす。両手で顔を覆い、何度も「もうやだよ……」と繰り返しながら、存在を否定される恐怖に押し潰されていた。冷は駆け寄り、震える彼女の肩を必死に支えた。
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### ◆ 夜──揺らぐ記憶
寮の一室。五人が集まり、記録を照合していた。まつりは画面を見つめたまま蒼白な顔で言う。「……やっぱり、さくらの名前は一度も出てこない」
天音も疲れた声で呟く。「私も……時々分からなくなる。最初から、いなかったんじゃないかって」
「やめろ!さくらの前で!」冷が声を荒げる。その瞳に涙がにじんでいた。彼の叫びは必死だった。
「もう消えちゃうのかな……」
さくらが弱々しく呟く。声は震え、頬を伝う涙が止まらなかった。「いやだよ……消えたくない……私、ここにいたいのに……」と必死に泣きじゃくり、嗚咽で言葉が途切れる。両手で顔を覆い、涙をこらえきれずに震えるその姿に、部屋の空気が一層重く沈んでいく。
冷は涙をこらえきれず、彼女を抱きしめた。「絶対に消させない」
「僕だって守る」湊も力強く言葉を重ね、手を伸ばした。まつりは唇を噛んで視線を落とし、天音は拳を強く握りしめていた。迷いと決意が交錯する重たい空気が部屋を満たす。
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### ◆ ラスト──声
深夜。冷が窓際に立つと、屋上に再び光が現れた。白い影が立ち、今度は冷にだけはっきりと声を届けてきた。
「……冷くん」
その声は、さくらそのものだった。泣いているような震えを帯び、すすり泣きが混じっていた。冷の胸を切り裂くように切実な響きだった。驚いて隣を見ると、そこにいるはずのさくらの姿が一瞬だけ透けて見えた。涙に濡れた頬が淡く光り、まるで現実から切り取られつつあるかのように揺れていた。
「やだよ……消えたくない……」影の口元がかすかに動き、泣き声のような囁きが耳を震わせた。その声は遠ざかるように弱まり、冷の胸に強烈な不安を刻み込んだ。
「消させない……!」
冷が強く叫んだ瞬間、光は夜空に散り、静寂が戻った。残されたのは冷の荒い息と、胸を押し潰すほどの焦燥感、そして耳の奥に焼き付いたさくらの泣き声だけだった。




