LOG.145 消える少女、残された手
LOG.145 消える少女、残された手
### ◆ 朝──消えた袖の感触
朝の点呼。冷は列に立ちながら、いつものように袖を引くはずの小さな感触を待っていた。だが、今日はなかった。振り返れば、そこにいるはずのさくらの姿は消えていた。
「さくら……?」冷が思わず声を漏らす。返事はなく、曇天の下で空気が一層重たくのしかかった。
「……さっきまで隣にいたのに」湊が青ざめて呟く。しかし周囲の候補生は「誰が?」と首を傾げるだけ。名前は呼ばれず、姿もなく、ただ冷の胸にぽっかりと空白が広がった。
冷は唇を噛み、胸の奥から込み上げるものを必死に抑えた。叫びたいほどの焦燥を、冷ややかな沈黙で押し込める。彼の拳は静かに震えていた。
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### ◆ 午前──空白の記録
講義室。まつりが端末を操作し続けるが、さくらの記録は完全に削除されていた。痕跡どころか、出席履歴も個人データも「初めから存在しなかった」かのように空白になっている。
「ここまで徹底的に消すなんて……」天音が震える声を上げた。「制度の裏に、何者かがいる」
冷は静かに立ち上がり、机に手を置いた。その仕草に大きな音はなかったが、教室の空気がぴんと張り詰める。「……彼女を返せ」
声は大きくはなかったが、静かに燃える怒りが込められていた。冷の目は鋭く、普段の冷静さの奥底に押し込めていた激情が滲み出ていた。
教官が冷を睨みつけ、「錯乱するな」と一喝する。しかし冷は怯まず、睨み返した。唇を固く結び、声を潜めるように、それでも力強く言葉を吐き出す。「俺は錯乱なんかしていない。……さくらはいた。確かに、ここに」
だが誰も頷かなかった。冷の胸には、さくらが泣きながら「消えたくない」と訴えていた声が、何度も反響していた。
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### ◆ 昼休み──空席
食堂。昨日までさくらが座っていた席は、ぽっかりと空いたままだった。冷はその席にトレーを置き、あたかも彼女がそこにいるかのように話しかける。
「今日は……少し眠れたか?」
空席を見つめるその表情は真剣で、隣にいるはずの彼女を思い浮かべているようだった。箸を手に取り、まるで返事を聞くかのように小さく頷く。冷の声は柔らかく、しかし切実さがにじんでいた。
隣の候補生たちは顔を見合わせ、「冷って独り言?」と笑う。笑い声は冷の耳に刺さったが、彼の視線は空席から逸れることはなかった。
「ここに……いるんだ」冷は小さく呟く。その声は掠れ、胸の奥から絞り出すような響きだった。彼の瞳には、確かに泣きじゃくるさくらの姿が映っていた。
湊は真剣な表情で頷く。「いいんだ。僕も同じ気持ちだから」
まつりと天音は沈黙していたが、指先の震えが隠せなかった。視線を伏せるまつりの唇はかすかに噛みしめられ、天音の胸元には強張った呼吸が揺れていた。三人の心の中には、冷と同じ幻影が刻み込まれていた。
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### ◆ 午後──屋上の邂逅
冷は一人で屋上に向かった。風が強く吹き抜け、フェンスの向こうに白い影が立っていた。それは、紛れもなくさくらの姿。
「冷くん……ありがとう……でも、もう行かなきゃ」
涙を浮かべて微笑むその姿。冷は駆け寄ろうとするが、伸ばした手は空を掴むだけだった。胸が引き裂かれるような感覚に耐えられず、声がほとばしる。
「行くな……!さくら!さくらがいないと、だめなんだよ……!」
その叫びは風に千切られ、夜空へ散っていく。必死の声も虚しく、さくらの影は光の粒となって空に溶けていく。最後に「さよなら」と微かに響いた声が、冷の胸を裂いた。
冷は地面に膝をつき、震える声を洩らした。「なんで……なんで、さくらばっかり……」目の奥に熱いものが込み上げ、嗚咽が喉を塞いだ。誰に届くでもないその声が、風にさらわれていった。
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### ◆ 夜──喪失
寮の部屋。さくらの私物が一つ残らず消えていた。机も、ベッドも、まるで最初から使われたことがないように整然としていた。残された空虚が、彼女が確かにいた証を逆説的に示していた。
天音が呟く。「最初から……存在しなかったみたいに」
まつりは首を振る。「でも、私たちの心には残ってる。それは消せない」
湊は涙を拭い、「僕は忘れない」と強く言った。
冷はベッドの端に腰を下ろし、俯いたまま震える声を漏らす。「なんで……なんで、さくらばっかり……」その呟きは苦悩と怒りに滲み、静かに涙が頬を伝った。両手は膝の上で硬く握られ、爪が掌に食い込んでいた。
「必ず取り戻す」
その言葉は静かだったが、強い決意が宿っていた。湊がうなずき、まつりと天音も沈黙の中でそれぞれの決意を固める。部屋に流れる沈黙は、喪失と誓いを刻み込んでいた。
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### ◆ ラスト──助けを呼ぶ声
窓の外、夜空に光が一閃する。屋上に一瞬だけ白い影が浮かび上がる。その輪郭は揺らめき、泣いているかのように肩を震わせていた。その瞬間、冷の耳にだけ「助けて……」という声が届いた。すすり泣きが混じるその響きに、胸が強く締め付けられる。
「さくら……!」冷は窓を開け放ち、夜風に声を投げた。「聞こえてる!絶対に助ける!」
声は闇に飲まれていくが、拳を握る手は震え、瞳は夜空を貫いた。冷の胸には、遠ざかるように弱まっていく泣き声がなおも焼き付いていた。
「待ってろ、さくら」




