LOG.133 影の人型
LOG.133 影の人型
朝から校舎の空気はどこか張りつめていた。昨日、赤紙を持った候補生が影に飲まれ消えた――その事実は、候補生たちの心に根深い疑念を刻んでいた。誰もが怯え、そして誰もが隣の者を疑っていた。廊下ですれ違うだけで視線を避ける者、仲間だったはずの相手に声を掛けられず沈黙する者。無言の不信が校舎全体を覆っていた。
食堂では些細なことで口論が起きた。席を譲らなかった、視線を合わせなかった、それだけで「怪しい」と責め立てられる。トレイが床に落ち、ガシャリと大きな音を立てると、一斉に息を呑むような緊張が走った。冷が通りがかると、天音が真っ先に立ち上がった。
「冷を巻き込むな!」
彼女の声は鋭く響き渡り、場を一瞬で静めた。だが次の瞬間には別の候補生が「その態度こそ怪しい」と反論し、再びざわめきが広がる。湊が慌てて仲裁に入る。
「やめようよ……! 疑ってばかりじゃ、誰も残れないよ……!」
必死の訴えだったが、返ってきたのは冷たい視線だった。「お前が一番怪しい」「笑ってごまかしてる」と罵られ、湊の表情は曇る。癒し系と呼ばれる彼の顔には、今までにない影が差していた。周囲では別の候補生が赤紙を剥がそうとし、仲間に必死で止められる姿も見られた。祈るように両手を合わせる者もいて、群衆の動揺は拡散していた。
さくらは不安で声を失い、冷の背に隠れるように立っていた。彼女の指先は小刻みに震え、袖を掴む力が増していく。まつりは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、冷静に言った。
「これは制度が仕組んだ分断です。観察されている……私たちの反応を。」
冷は黙って拳を握った。父の背中、母の声――その記憶が脳裏をかすめ、胸が強く痛んだ。制度と影、そして過去。すべてが一本の線で結びつきつつあるように感じた。まるで自分自身が選別の中心に立たされているかのようだった。
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午前の授業後、教室に集まった候補生たちはついに言葉の応酬を超え、椅子を蹴り、机を叩く。殴り合い寸前の緊張が走り、空気は異様に熱を帯びていった。天音が机を叩きつけ、叫ぶ。
「影が選ぶ前に、私が選んでやる!」
彼女の苛烈な一言にざわめきが走る。湊は必死に止める。
「やめて! そんなの間違ってる……!」
だがその声は届かず、誰かが冷を睨みつけた。「あいつが影を呼んでるんだ!」一斉に視線が冷に突き刺さる。恐怖が混じった瞳は理性を欠き、ただのスケープゴートを求めていた。さくらが泣き出し、冷の背にしがみつく。
その瞬間、窓が大きく軋んだ。ぎしり、と不気味な音を立ててガラスが震える。外を見ると、白い影がいくつも浮かび上がっていた。夕暮れの光を背に、校舎を取り囲むように漂っている。誰かが息を呑み、足を後ずさる音が響いた。
「……来た……!」
影はふわりと窓をすり抜け、教室の中に滑り込む。そして、候補生一人一人の前に立つと、その姿を模倣し始めた。形の定まらなかった白い靄が凝固し、やがて――自分自身と同じ顔を持つ“影の人型”となって目の前に立った。
「う……嘘だろ……!」
「俺が……もう一人……?」
悲鳴と呻きがあちこちから上がる。影は無言で立ち尽くし、ただじっと本体を見据えていた。その口が開く。ノイズ混じりの声が漏れる。
「……不適格……排除……」
冷気が走ったように教室が静まり返る。背筋に寒気を覚える者、膝をつき震える者。机の下に潜り込もうとする候補生もいた。天音が怒りに駆られて拳を振り上げ、影に殴りかかった。だが影の手が一瞬で反応し、天音の体を容易く弾き飛ばした。机が倒れ、ガラスが割れる。さくらが悲鳴を上げ、泣きながら冷にしがみつく。
「やめて……! もうやめて!」
湊は影を見て、震える声で叫んだ。「僕らのコピー……こんなの、認めない!」その声には珍しく強い意志が宿っていた。涙で滲んだ瞳に、それでも光が差していた。
まつりは必死に端末を操作し、震える声で解析結果を告げる。「これは……制度のアルゴリズムによる模倣体……! 私たちを鏡写しにし、排除の理由を探している……!」
影の人型が無数の足音を立てて一歩ずつ近づいてくる。その音は重く、まるで心臓の鼓動を模倣するかのようだった。候補生たちは後ずさりし、壁際に追い詰められていく。
冷は深く息を吸い込み、仲間を庇いながら影に正面から向き合った。背にしがみつくさくらの重みと、倒れ込む天音の姿、震える湊、冷静さを装うまつり――すべての視線を背負って立つ。
「……もう逃げない。俺が止める」
影が一斉に動き出す。だがその瞬間、耳をつんざく警報が鳴り響いた。赤いランプが回転し、轟音のようなサイレンが教室を満たす。影の人型は霧のように崩れ、次々と消えていった。最後の一体は崩れる寸前に、かすかに笑ったような表情を浮かべて消えた。残響のように「排除……排除……」という声だけが耳に残る。
ただ一人、候補生が床に倒れ、意識を失っていた。蒼白な顔は微かに呼吸をしているが、目を覚ます気配はない。そこに教官が現れた。無表情のまま一言だけ告げる。
「訓練中止」
候補生たちは呆然とし、誰一人声を上げられなかった。説明は一切なく、教官は倒れた候補生を担架に乗せ、そのまま運び出した。その背中を見送りながら、誰もが寒気を覚えた。制度の冷酷さが、影の恐怖と同じくらい現実味を帯びていた。
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夕暮れ、教室に残されたのは疲弊しきった顔ばかりだった。天音は唇を噛み、「もう絶対に黙ってなんかいない」と低く誓った。湊は俯きながらも、「これ以上……仲間を失いたくない」と震える声で言った。まつりは拳を握り、「制度は私たちを“観察”している」と呟いた。さくらは泣き腫らした目で冷を見上げ、「冷……お願い、もう離れないで」と縋るように言った。
冷は拳を握り、仲間たちを見渡した。心臓が早鐘を打つ。父の影が脳裏を過ぎり、母の声が耳に蘇る。全ての答えは、きっとこの影の先にある。
「次に現れたら、俺が必ず対峙する」
窓ガラスに夕日が差し込み、そこに微かに残る白い残滓が映っていた。息が詰まるような沈黙の中、鼓動の音だけがやけに大きく響いていた。まるで、影がまだそこにいると告げているかのように。




