悪役令嬢リリアン、決意する
王国随一の魔法名家、スターチス家。その名は歴史の中で幾度も刻まれ、語り継がれてきた。遡ること300年前、先祖たる大魔道士オズバルト・スターチスは、王国を脅かした魔物の大軍をたった一人で壊滅させ、英雄として讃えられた。以来、スターチス家は「王国の守護者」として絶大な信頼と尊敬を集め、その血筋は強大な魔力と知性を代々受け継いできた。
そんな由緒正しき名家の現当主の娘として、リリアンは生を受けた。
リリアン・スターチス。学園の首席であり、王国随一の魔力を持つと称される才女──そうなるはずだった。
静まり返る大理石の廊下を、赤いロングスカートを優雅に翻しながら歩く靴音が響いていた。短い茶髪に鋭い三白眼の彼女、世界でも十指に入る名門、スターチス家の令嬢リリアン・スターチスは、学園の塔の講義室に向かっていた。
その姿は、誰が見ても誇り高く、貴族としての威厳を感じさせる――はずだった。しかし、目が合った瞬間、三白眼の冷たい光に怯えた新入生たちが道を開ける。
「ああ、今日も静かで良いな。」
リリアンはそんな反応を全く意に介さず、涼しげに呟いた。
彼女はスターチス家の血を引く正統な後継者であり、学園の首席に君臨する魔法使いだった。しかし、その魔力を彼女が注ぐのは、王国を守るための研究や偉大な業績などではなかった。
――それは、「いたずら」だった。
講義室に到着すると、リリアンはため息をついて席につく。教授の到着を待ちながら、彼女は机の上に小さな魔法陣を描いた。魔力を指先に込めると、それは淡い光を放ち、小さな霧のような物体が現れた。
「さて、今日は誰がこの『無害な霧』の標的になるのだろうか。」
彼女の唇が悪戯っぽく歪む。
リリアンの作り出した霧は、一見ただの水蒸気に見えるが、実際は触れるとその人の髪を虹色に染め上げるという魔法が込められていた。この程度のいたずらは彼女の日常にすぎない。
しかし、学園内ではリリアンの悪名が轟いていた。かつて生徒会長が彼女の魔法によって靴を凍らされ、王子がうっかり変な音を出すスライムを踏んでしまったという噂は、語り草になっている。
「スターチス家の恥さらし」「名門の顔に泥を塗る愚か者」――そんな陰口は耳に届いていた。それでもリリアンは笑う。
「どうせ誰も私の本当の力なんて知りやしないのだからな。」
そう、彼女はわかっていた。スターチス家の血を受け継ぐ自分が、本気で魔力を振るえば、世界を変えるほどの力を持っていることを。だが、それを知られる必要はなかった。誰も知らないところで彼女は自分の「王国を守る使命」を捨て、全力で「いたずら」に生きる道を選んだのだ。
「おい! リリアン、またやったな!」
響き渡る怒声。振り返ったリリアンは涼しげな笑みを浮かべる。彼女の背後では、教師のローブが小さな翼を生やして宙に浮き、仕方なくバタバタと羽ばたいていた。
「羽が生えるのもたまには悪くないだろう? 教授も少し肩の力を抜くべきだ。」
その場に居合わせた生徒たちの間から、クスクスと笑い声が漏れる。
彼女の「いたずら」は、決して単なる悪戯ではない。その一つ一つが、高度な魔術制御と深い知識がなければ到底実現できない代物だった。例えば先ほどの「羽の生えたローブ」。これは、高度な生物模倣魔法を応用し、布地に生命のような性質を与える術式の応用だ。それを数秒で発動するなど、常人には不可能だ。
しかし、彼女がその才を真っ当に使うことはなかった。防衛魔法も、攻撃魔法も、治癒魔法も――すべて彼女にとっては「つまらない」。
「王国を守るなんて、もっと暇な大人たちがやればいいだろう。私は、私の魔法でこの世界を面白くしているだけだ。」
そう言い放つリリアンに、ため息をつきつつも、その確固たる才能に誰も逆らえないのだ。
★★★
しかし、リリアンの自由奔放な日々は、ある事件を境に一変する。
それは、かつてスターチス家の先祖が封じたはずの「忘れられた大いなる災厄」が再び目覚めたという報が届いた時だった――。
──そして、スターチス家の大広間に、緊迫した空気が漂っていた。フリードリヒは地図を広げながら、リリアンの前で熱弁を振るっていた。
「リリアン、大いなる災厄が目覚めた。王国の守護として、君が動かなければならない。君の魔力は、この国の中で唯一奴らを封じることができる。」
だが、リリアンは大広間の大きな窓から外を眺めながら、悠然と紅茶を飲んでいた。
「そんなに大きな問題なのか? でも、私は忙しいんだ。」
フリードリヒは机を叩いて立ち上がった。
「忙しい? 一体何をしているんだ?」
リリアンはカップを置き、小さく微笑んだ。
「もちろん、いたずらの計画だ。例えば、この災厄が私より先に街を破壊しちゃうと困るだろう?」
その言葉にフリードリヒは一瞬言葉を失ったが、すぐに額を押さえた。
「君は何を考えているんだ。こんなときにいたずらなんて――」
「だって、みんな困った顔をしている方が面白いではないか。あなたもそう思わないか?」
リリアンは悪戯っぽく笑った。
フリードリヒは深いため息をつき、彼女を睨む。
「分かった。君が動かないなら、僕がなんとかしてみせる。」
その言葉にリリアンは小さく拍手をして笑った。
「やっぱりフリードリヒは頼もしいな。でも、きっとそのうち私が助けに行ってあげるから、少しだけ頑張ってみろ」
彼女の気まぐれな態度に、フリードリヒはため息をつきつつも、どこか諦めきれない思いで大広間を後にするのだった。
─フリードリヒは思い出す。彼女はいつもそうだ。
数ヶ月前、貴族街の噴水広場で、フリードリヒ・スターチスは額を押さえながらため息をついていた。その横には、満足げな笑みを浮かべたリリアンが立っている。
「リリアン、君に何度言ったら分かるんだ? 市街の噴水に花火を仕込むなんて、どう考えても許されない行為だ。」
フリードリヒは噴水から放たれる色とりどりの火花を見上げながら、小声で彼女を叱った。
リリアンは肩をすくめながら、まるで他人事のように答えた。
「だって、退屈だったんだ。それにほら、みんな楽しそうだろう?」
確かに、広場に集まった市民たちは歓声を上げながら噴水のイルミネーションを見つめていたが、衛兵たちが不穏な目で二人を見つめている。
「君の悪戯はたいていやりすぎなんだ。」
フリードリヒは眉間にしわを寄せながら呟いた。
リリアンは小さく笑い、彼の腕を軽く叩いた。
「大丈夫だ。フリードリヒがいれば、いつもなんとかなるだろう。」
その言葉にフリードリヒは思わず頭を抱えた。
「君がやらかさなければ、僕がなんとかする必要もないんだが。」
★★★
王立学園の広々とした訓練場。魔法の練習が終わり、生徒たちが次々と帰路に就く中、一人だけその場に残り、焦げた焦土の上で呆然と立ち尽くしていた。
それが、王宮魔道士の息子であるエドガー・クロフォードだった。彼の手には、先ほど放った炎の魔法の余韻がまだ残るように、指先が僅かに震えている。
「まただ……」
彼は呟き、悔しさに拳を握りしめた。
何度挑んでもリリアンには勝てない。魔法史のテストでも、実践魔法の試験でも、彼女は常に学園首席。圧倒的な実力差を見せつけられるたびに、エドガーの中に渦巻く感情が大きくなる――それは嫉妬、憧れ、そして認めたくない尊敬。
「おや、まだ練習を続けるつもりかね?」
背後から、軽やかな声が響いた。振り返ると、リリアンが立っていた。紫紺のドレスを身にまとい、完璧な笑みを浮かべた彼女は、まるで勝者のように優雅だった。
「なんの用だ、リリアン。」
エドガーは舌打ち混じりに言い放つ。
「特に用なんてない。ただ、あなたがいつまでもここにいるのが見えたからだな。そんなに悔しいなら、もっと魔法の基本からやり直したらどうだ?」
彼女の言葉は挑発とも激励とも取れるものだったが、エドガーにはそれが何よりも屈辱的だった。
「……お前に言われなくても分かってる!」
そう吐き捨て、彼は目をそらす。だが、彼女の冷静な態度に焦りを感じる自分を、止めることはできなかった。
リリアンは微笑みを深めた。
「そう。では頑張りたまえ。次の実践試験では、もう少し楽しませてくれるな。」
言い残し、彼女は軽やかに去っていく。その背中を見送りながら、エドガーは胸の奥に芽生える感情に気づかざるを得なかった。
「なんであんな奴に……あんな奴にばかり意識が向くんだ……!」
その悔しさは、次第に彼女を追い越したいという焦燥に変わり、そしてそれ以上の感情へと姿を変えつつあることに、彼はまだ気づいていなかった。
★★★
騎士団長の息子、ルーカス・アーデントは、その若さに似合わぬ剛腕と、父を超えたいという野望を抱いていた。だがその熱意はやや行き過ぎており、日々無茶な訓練を繰り返すことで周囲を心配させていた。
「ルーカス、少しは休んだらだうだ。」
リリアンが修練場に現れたときも、ルーカスは汗だくになりながら剣を振り続けていた。
「悪いな、リリアン。でも俺には休んでる暇なんてないんだ。」
ルーカスは振り返ることなく答え、さらに剣を振り下ろした。
「貴族の嫡男である前に、俺は騎士だ。父を超えるためには、俺自身が限界を超えなきゃならない。」
その言葉に、リリアンはため息をついた。彼の強さへの執着が蛮勇にすり替わっていることが、彼女には手に取るように分かった。
「あなたのそれは、ただの無謀だ。」
冷静に言い放ったリリアンの声に、ルーカスは一瞬剣を止めたが、すぐに再び振り始めた。
「どう思われてもいいさ。」
その数日後、ルーカスは訓練の一環として郊外の森に足を運んだ。だが、そこで彼を待ち受けていたのは――巨大な魔獣だった。
魔獣の咆哮が森に轟き、ルーカスは全身でその威圧感を受け止めた。だが、臆することなく剣を構えた彼は、力の差を前にして追い詰められていく。
「くそっ……これじゃ勝てない……!」
追い詰められた瞬間、空気がピリリと震えた。そして、魔獣を包む巨大な魔法陣が輝き、凍てつくような光が魔獣を動けなくした。
「ルーカス、危ない遊びも大概にしておけ。」
森の中から、リリアンが悠然と姿を現した。その美しい黒髪が風に揺れ、魔獣を睨む黒い瞳には冷たい怒りが宿っていた。
彼女が手を軽く振ると、魔獣は光の粒となって消えていった。ルーカスはその場に膝をつき、荒い息を吐きながらリリアンを見上げた。
「……助かった……ありがとう……。」
リリアンは近づくと、そっと彼の肩に手を置いた。
「ルーカス、あなたのそれは蛮勇だ。無茶をするのと強くなるのは違うぞ。」
その冷静な声に、ルーカスは目を閉じて頭を垂れた。彼女の言葉が、彼の中で何かを変えるきっかけになった。
「分かったよ……もう、無茶はしない。」
ルーカスはそう誓った。父を超える強さを目指すことに変わりはないが、それは無謀な行為ではなく、確かな実力を積み上げるものだと心に刻んだのだった。
一方、リリアンは軽く微笑みながら、魔力を収めた手を見つめた。
「本当に分かっているのか?」
そんな呟きとともに、彼女は少しだけ彼に期待を抱いたのだった。
★★★
風が学園の窓を揺らす中、新たな風が吹き込んだ。その風――アメリア・ルミエールという名の少女は、転入初日からその存在感を遺憾なく発揮した。
彼女は黒髪ロングヘアーに黒い瞳を持つ、清楚で美しい聖女。その健気な笑顔と柔らかい声は、瞬く間に学園中の生徒を魅了した。聖なる魔法を操る彼女の力は、本物だと言わざるを得ない。何より、転入早々に宣言した言葉が衝撃的だった。
「私はいずれ大いなる厄災を退け、この国を守ります。」
その言葉に、生徒たちは喝采を送り、教師たちは希望を見いだした。彼女は光そのものだった。
一方、その光とは対極に位置する存在――リリアンは、その様子を眺めながら薄い笑みを浮かべていた。
「ほお、聖女様のご登場ってわけか。これで学園もずいぶん賑やかになりそうだ。」
彼女の声には、いつものように愉快そうな響きがあったが、その瞳には興味と少しの企みが見え隠れしていた。
だが、それ以上に彼女を面白がらせたのは、婚約者である第一王子アルバートの反応だった。
アルバートは聖女アメリアに一目惚れしてしまい、彼女の活動に夢中になっていった。聖女の言葉一つ一つに感動し、彼女のためならばどんな労を惜しまない姿勢を見せる。
その姿は、リリアンを完全に無視するものだったが―― 。
「まあ、いいんじゃないか? 婚約者が私を見ないで聖女様に夢中になっているだなんて、最高に面白い光景だろう。」
彼女は心底愉快そうに笑った。
★★★
ある日、ルーカスは訓練後に校舎の広間を歩いていた。疲労で足が重く、早く休憩したいと思っていた矢先、彼の前に突然現れたのは……。
「ルーカス!」
アメリアが、明るい笑顔と共に彼の腕をがっしりと掴んだ。彼女の黒髪がふわりと揺れ、目を細めて彼に寄り添うその姿は、まるで彼を親しい友人か何かのように扱っている。
ルーカスの体がビクリと震えた。彼は、アメリアの存在そのものが苦手だった。彼女の言動や雰囲気には、どこか騒がしさと計算された甘えがにじんでおり、どうしても居心地が悪い。
「な、なんだ?!」
「なんだか疲れてるみたいね? 無理してるんじゃない?」
彼女の笑顔が一層甘く、心底心配しているかのように見えるが、その裏にはきっちりと「気に入った男を手に入れる」という狙いが透けて見える。ルーカスは、彼女のこの態度にどうしても苦手意識が強まる。
「いや、別に……無理なんてしてない。」
ルーカスは声を振り絞る。彼は言葉を早く終わらせ、ここから逃げたかった。だがその瞬間、アメリアはさらに距離を縮めてきた。
「無理してるよ、ルーカス。私が話を聞いてあげるから、心配しないで!」
もう逃げることができないと判断したルーカスは、気が重くなりながら思わずため息をついた。
そんな様子を、広間の遠くから眺めている人物がひとり。リリアンが、愉快そうに薄い笑みを浮かべながらその二人を見ていた。
彼女は、人をからかうのが何より好きだった。特に、こういったシチュエーションを楽しむのが得意であり、アメリアがルーカスを追い詰めるその様子が面白くて仕方ない。
「ふふ、ルーカス、可哀想に。」
楽しそうに呟きながら、リリアンは手をひらりと振った。
すると、ルーカスとアメリアの間に、ふわりと魔法陣が展開される。
「えっ、何だ?!」
ルーカスが反応する間もなく、突然アメリアの服が軽くピカピカと輝き、彼女の髪が青いキラキラした光に包まれる。驚きとともに、アメリアは焦りの表情を浮かべた。
「な、何ですか、これ? どういうことですか?」
リリアンが、楽しそうに笑いながら手を口元に当てる。
「ふふ、何でもない。ただのちょっとした悪戯だ。」
その笑顔と、何とも言えない挑戦的な表情に、アメリアの顔が青ざめた。ルーカスは何が起きているのかわからず、困惑している。
「リリアン、何をしたんだ?」
ルーカスがリリアンを睨みつけるが、リリアンは余裕の表情で答えた。
「魔法のちょっとした遊びだ。あなたたちの会話があまりにも面白かったから、邪魔してみただけだ。」
アメリアの顔には不満が滲んだが、リリアンの強大な魔力とその存在に逆らうことはできず、ただ唇を噛んだ。
リリアンは彼女の反応を楽しみながら、さらに小悪戯の魔法をちらつかせるように指を揺らした。
「さあ、ルーカス、聖女様。次は何が起きるか楽しみにしていたまえ。」
その言葉を最後に、リリアンは踊るように広間の影へと消えていった。
★★★
陽光が穏やかに降り注ぐ学園の中庭。その中央で、アメリアが楽しげに歩み寄り、遠くからでも目立つほどの笑みを浮かべていた。彼女の姿は清楚で魅惑的であり、誰もがその姿に心を奪われる。
だが、ターゲットは今日も一人――エドガー。彼はその無表情な顔で、アメリアが近づいてくるのを見ていた。
「あら、エドガー♪お茶でも一緒に飲まない?ふふふ♪」
アメリアが甘い笑みを浮かべながら、彼に近づく。まるで天使のような笑顔に、エドガーは一瞬たじろぐ。しかし、すぐに冷静な表情を取り戻した。
「……いい。」
彼の言葉は短く、冷淡そのもの。視線をそらし、何か別の方向に目をやる。
「え? どうしてそんな冷たいの? まさか私が嫌い?そんなことないでしょう?」
アメリアが言うが早いか、距離を詰める。彼女の目には完全に遊びの色が浮かんでいる。
彼は再び視線を遠くへ向け、彼女を無視することで済ませるつもりだ。だがアメリアは、そんな素っ気なさにますます嬉しそうだ。
「ふふ、エドガー、そんな顔するなんて、私のことを意識してるのよね?」
彼女は楽しげに笑い、明らかに強引な距離感でエドガーに寄り添う。
その様子を、少し離れた場所で眺めている影があった。
それはリリアン・スターチス。彼女は楽しそうに目を細め、アメリアの様子を見ながら手を組んで立っている。
「ふふ、やっぱり面白いな……。」
リリアンは心地よさそうに笑いながら、手のひらに青い魔力を灯した。
「ちょっとだけ、お遊びをしようか。」
彼女は軽く手を振ると、風が彼女の周囲を舞った。魔力がふわりと漂い、光がアメリアとエドガーの間を滑空する。
その瞬間―― 突然、地面に魔法陣が展開されるのを見て、彼女の顔が驚きに歪む。
「……なんだ?」
エドガーが冷静にその場を見回すと、突如地面に青い光が走り始める。彼の眉間に小さな違和感が浮かんだ。
リリアンの笑みはさらに深まり、彼女の意図は明らかだった。
「お邪魔して悪いな。少しだけ余興をお届けしよう。」
彼女の言葉が終わると、魔法陣から青い光がアメリアの周囲に広がる。
「何をするつもりですか?やめてください……」
だがリリアンは楽しそうに笑って、魔法を収める気はない。
「ただのいたずらだ。エドガーのいい反応も見れたし、これで十分だな。」
アメリアがその魔力による突発的な演出に困惑し、エドガーが真剣な顔つきで周囲を警戒する。リリアンのいたずら魔法の余韻が、二人の心に小さな嵐のように吹き込んだ。
リリアンはその後、踊るようにその場を後にし、風のように消えていった。
彼女の楽しそうな笑みが、その場に静かに揺らめいていた。
★★★
リリアンは庭園のベンチに腰掛けながら、花びらを一枚ずつ摘んでいた。その優雅な仕草と裏腹に次は何を企んでいるのかと肝を冷やすものは数しれず。しかし、彼女の前に立つ聖女アメリア・ルミエールだけは、そんな雰囲気にまるで興味がないようだった。
「あなた、面白くないわね。」
アメリアは、他の誰もいないのを確認すると、その天使のような笑顔を引っ込め、ドスの効いた低い声でそう言い放った。
リリアンは顔を上げ、楽しげに微笑んだ。
「おや、聖女様。わざわざ私に絡むなんて、退屈なのか?」
アメリアの黒い瞳がきらりと光った。
「何よその態度。あなたのせいで私がどれだけ大変か分かってるの? アルバートはともかく、フリードリヒ様も、ルーカスも、エドガーも、みーんなあなたに目を向けるせいで、私はちっとも楽しめないの。平和や国の未来なんて、正直どうでもいいのよ。ただ私は、注目されたいだけ。」
リリアンは彼女の言葉に驚くこともなく、淡々と返した。
「なら、彼らをもっと上手に操ってみせたらどうだ?私に嫉妬している暇があれば。」
その一言に、アメリアの顔が赤く染まった。
「嫉妬なんかしてない! ただ言っておくけど、悪役令嬢なんかには絶対負けないから。」
彼女は息を荒げながら、最後の決め台詞を放つ。
「アルバートもフリードリヒもエドガーもルーカスもラウル様も絶対に渡さないから!」
その声は庭園に響き渡り、偶然通りかかった生徒たちを驚かせた。アメリアはすぐに愛らしいぶりっ子の笑顔を浮かべ、取り繕うように立ち去ったが、リリアンはその場で一人、肩を震わせて笑いをこらえていた。
「悪役令嬢、だと? あの聖女様、本当に面白いな。」
リリアンにとって、アメリアは脅威でも敵でもなかった。ただの、退屈しのぎの存在に過ぎない。だが、その滑稽さが彼女の学園生活を少しだけ楽しいものにしていたのだった。
ある日の放課後、聖女アメリアは学園の中庭で涙をこぼしていた。彼女の儚げな姿を見た生徒たちは、すぐに駆け寄る。
「どうしたんだい、アメリア様!」
「何があったの?」
彼女は潤んだ瞳で見上げ、震える声で訴えた。
「リリアン様が、私の教科書を破いて……さらに噴水に突き落とそうと……っ!」
その言葉に周囲はざわついた。リリアン・スターチス――名門スターチス家の令嬢でありながら、悪戯好きで有名な彼女がやったと言われれば、簡単に信じる者も多いだろう。
その場に現れたリリアンは、アメリアが涙を流すのを遠巻きに眺めながら微笑を浮かべていた。
「ほう。私が噴水に突き落とそうとしたって言うのか?」
彼女のその冷静な態度が、さらに周囲の疑念を煽る。
「リリアン、言い訳は許さないぞ!」
第一王子アルバートが鋭い声で言い放った。
「私は悪戯はするが、人を傷つけたりはしない。」
リリアンは怯むことなく、まっすぐに答える。しかし、その言葉を信じる者はいない。
「それが嘘だという証拠はどこにもないだろう!」
アルバートの声が響く。
その時、周囲の影からアメリアに付き従う取り巻きたち――リリアンの従兄である貴族フリードリヒ、王宮魔道士の息子エドガー、騎士団長の息子ルーカスが現れ、リリアンを取り囲んだ。
リリアンは取り巻きたちを眺めてため息をつく。
「また面倒だな。何を言ったところで、聖女様が私に罪を着せてるだけだなんて信じるわけがないだろう。」
彼女はそう呟くと、ふっと笑みを浮かべ、背を向けて歩き出した。
「まあいい、そちらの『茶番』には付き合っていられんからな。」
その背中には怯みも迷いもなく、ただ自由奔放な令嬢の姿があった。
一方で、アメリアはその場で再び涙を流しながら、内心でほくそ笑む。
(リリアンなんてどうせみんなに嫌われて終わりよ。だって、私がこの世界の主人公なんだから。)
王都の学園、昼下がりの階段でリリアンと聖女アメリアがすれ違った瞬間、アメリアは険しい表情でリリアンを睨みつけた。
「あなたのせいでいつも私が影に隠れるわ。だから…私が仕返ししてあげる」
そう言うと、アメリアは突然、自ら階段から身を投げた。
「きゃあああ!痛いよおおお!リリアン様が嫉妬して私を突き落としたの!ひどいよおおお!」
階段の下で、アメリアが泣き叫びながら地面に倒れていた。その姿に周囲の生徒たちは動揺し、ざわめき始める。その中で、階段上に立つリリアンは呆れた表情を浮かべて腕を組んでいる。
「私が突き落としたって?わざわざ自分から飛び降りておいて、ずいぶん面白い演技をするじゃないか。」
リリアンは冷静に皮肉を込めて言ったが、アメリアの泣き声は止まらない。
「アルバート様!エドガー!ルーカス!フリードリヒさん!助けてください!」
その声に応えるように、階段の下から急いで駆け寄る人影があった。黄金の髪をなびかせ、鋭い眼差しを浮かべたアルバート王子だ。彼はアメリアの元に膝をつき、心配そうに彼女を見つめる。
「アメリア、大丈夫か?一体どうしたんだ?」
アメリアは涙に濡れた顔を王子に向け、嗚咽交じりに話し始める。
「リリアン様が…アルバート様に近づく私に嫉妬して…それで突き落とされたの…!」
アルバートは驚きと怒りを込めた目でリリアンを見上げる。
「リリアン!君は何を考えているんだ!アメリアは君のような問題児にさえ手を差し伸べようとしているのに、こんな仕打ちをするなんて許せない!」
リリアンはため息をつき、肩をすくめた。
「あのなあ。私は悪戯くらいはするが、人を傷つけるような真似はしない。仮にも婚約者の言うことが信じられないのか?」
しかしアルバートは聞く耳を持たない。
「これ以上言い訳をするな!お前の嫉妬心がどれほど危険か、今になってよく分かった!」
アメリアはさらに泣きじゃくり、アルバートの腕にしがみつく。
「アルバート様、怖いです…。私、リリアン様に嫌われてるなんて思いたくなかったのに…。」
「安心していい、アメリア。僕が必ず守る。」
アルバートはそう言うと、アメリアを優しくお姫様抱っこし、周囲の視線を浴びながら保健室へ向かって歩き出した。
その様子を見ていたルーカスが、冷たい目でリリアンを捉える。
「お前には失望したよ。なんてことをするんだ。」
エドガーも加わる。
「魔法の力を持つ者としての品位に欠ける行動だ。お前は恥を知るべきだ!」
追い打ちをかけるように、フリードリヒまでもが冷たく言い放った。
「今回ばかりは庇えないよ、リリアン。」
リリアンは一瞬驚いたが、すぐに嘲笑するように肩をすくめた。
「……茶番に付き合うのも馬鹿らしいな。」
そう言うと、悠々と踵を返して去っていった。
その後ろ姿には、何も言えずに立ち尽くす周囲の人々の視線が突き刺さったが、リリアンはまったく気にしていないようだった。彼女の中には、学園のくだらない騒ぎなど何の価値もないという確信があったのだ。
しかし、リリアンの胸中にふとある考えが浮かんだ。
「聖女様。あなたの劇的な活躍をちょっと邪魔したらどうだろうか?」
その企みの内容は、聖女よりも先に大いなる厄災と活性化した魔物たちを倒すことだった。
リリアンにとって、それは正義でも使命でもない。ただの「いたずら」だ。
「だって、せっかくのヒロイン役を奪われるのって、屈辱的だろう?私はそんなの気にしないが、聖女様はどうだ?」
彼女の脳裏に浮かんだのは、聖女がのこのこと到着する頃に、何食わぬ顔で魔物を片付けてしまう自分の姿。思わず口元に浮かぶ悪戯っぽい笑み。
その日から、リリアンが動き始めた。
聖女の華々しい活躍の裏側で、大いなる厄災と魔物たちとの静かな戦争が幕を開ける。
彼女は聖女の栄光を邪魔する悪役令嬢か、それとも王国を救う真の英雄か。