第39話 ハム作り
仁と真那が修行に励む一方で、羽曽部社長をはじめとする5名の役員たちは、慈愛と相談するために本社棟の商談室に集まった。そして羽曽部社長が一番に口を開いた。
「私たちは、この異世界で商売を始めようと思う」
その発言は唐突だったが、これは以前から彼の胸に秘めていた想いであり、役員たちとの話し合いの末に決まったことだった。現状、持ち込んだ食料だけではいずれ底が見えてしまう。それならば、手持ちの食品や知識を活かして、この異世界で新たな市場を開拓することが得策だと考えたのだ。
「今ある食料だけでは限界が来ます。だからこそ、我々の技術と知識を使って、この異世界で新たな商売を始めるべきだと思ったのです」
羽曽部社長の目には決意の光が宿っていた。羽曽部食品の信念は、どんな状況でも新しい価値を創造すること。異世界での商売という前人未踏の挑戦に、彼らは意欲を燃やしていたのだ。
慈愛は興味深そうに頷いた。
「確かに、この世界にはまだまだ多くの未開の市場が存在しておる。お主たちの持つ知識や技術があれば、成功するかもしれん」
「私たちは、食料の保存技術や調理法などを活用して、この世界の人々に新しい価値を提供したいと考えています」
役員の一人である物流部長の[高橋誠司]が続けた。異世界での商売は一筋縄ではいかないだろうが、羽曽部食品の誇る技術と情熱があれば、新しい市場を切り開くことができると信じていた。
異世界の動物たちは奇妙な形態や特殊な生態を持っている。異世界ならではの独特の味わいを見出した新しい製品を開発し、現地の特産品や調味料と組み合わせることで、この企業独自の異世界グルメを展開していく。
「ふむ、面白いかもしれんが、それをおこなうには制約がいくつも出来るぞ」
「この世界のルールは慈愛様に従います。そこでですが、慈愛様には私たち羽曽部食品の[顧問]という立ち位置になっていただきたい」
慈愛は片手を顎に当てて考える仕草をしながら、彼らの提案を悪くないと判断した。
今のままでは仁と真那が旅立ったとしても、元の世界に帰れる方法がいつまでも見つからない可能性だってある。それならば、この異世界での生き方を手助けするのも一案だと思ったのだ。羽曽部食品の料理を何度か口にしたが、そのどれもがデルカニアでは味わったことのない、魅惑的で美味しいものだった。
「よかろう。ただし、この地から外に出られるのはあの二人だけじゃ。まずは、一般的にこの世界に生息する動物を用いて商品を作り、デルカニアの人々に食べてもらうのじゃ」
慈愛の承諾に、羽曽部社長は嬉しそうに頷いた。羽曽部食品の知識と技術が、異世界でどのように評価されるのか、その挑戦に胸を躍らせているようだった。
「その通りです。まずはデルカニアの食材を使い、この地の人々に新たな味を提供することから始めます」
生産本部長の堀越が力強く答える。異世界の食習慣や文化を学びながら、彼らは新たな市場を開拓するための第一歩を踏み出す決意を固めた。慈愛のサポートを受けて、羽曽部食品はこの異世界での成功を目指して動き出すのだった。
まずは商品の開発に着手することになった。現在の製法をそのまま異世界で適用できるわけではない。現地で手に入る原料肉を使用し、それに合わせて製法を調整する必要があった。異世界での調達が可能な食材を最大限に活用しなければならないのだ。
具体的には、異世界で得られる肉の一部は後でプテラノドンが運んでくる手筈になっていた。調味料については、当面の間は工場に残っている在庫を使用することにしたが、これも長くは持たない。
それには今後、冒険へと旅立つ仁と真那には、旅の途中で元の世界と似たような調味料を見つけ出すという重要な任務を課すことになる。新たな土地を訪れるたびに、現地の市場や商人から情報を収集し、デルカニアの食材と調味料の研究を進めることが期待された。
◇◇◇
しばらくして、プテラノドンが茶色い塊を背中に乗せて運んできた。その塊は、大きさが3メートルほどで、豚のような形をした生き物だった。
[ブーボ]と呼ばれるその生き物は、既に息絶えており、血抜きは済んでいたものの、強烈な臭いを放っていた。
ブーボは工場の屋上に敷かれたブルーシートの上に慎重に置かれた。土屋工場長の指示のもと、豚の解体経験を持つ主任[根岸元雄]が解体作業を担当することになった。
根岸は工場内の社員の中では最年長であり、もうすぐ定年を迎える予定だが、包丁さばきの腕前では右に出る者はいない。その為、彼の周りには工場の同僚たちがカメラやメモを準備し、解体作業を見守っていた。根岸は数本の包丁を用意し、解体に取り掛かった。
ブーボの体組織は豚とほとんど同じ構造を持っていることがわかった。根岸は大きく分割した肉から骨を取り除き、部位ごとに切り分けていった。その際、切り分けられた肉は随時、唯一稼働している冷蔵庫へ運び込まれていった。
根岸の手際の良さに同僚たちは感心しながら見守っていた。彼の動作は無駄がなく、確かな技術と経験が感じられた。ブーボの解体作業が進む中で、工場内には緊張と期待が入り混じった空気が漂っていた。異世界で手に入るこの新たな素材が、どのような美味をもたらすのか、誰もが興味津々だった。
一通りの解体作業が終わり、次は開発課の出番であった。
開発課を統率する横川課長は開発室でまず肉をそのままの状態で小さく切り、しっかりとフライパンで火を通し官能検査をおこなった。焼いた肉をを口に含むと強烈な臭みが広がり、すぐに吐き出す。
「味や触感は豚と変わらんし旨味もあるが、この強烈な"臭み"だけはどうにかしないとな」
普段我々が食している豚は去勢が施されており、肉特有の臭みや苦みを抑えている手法で家畜として育てられている。
この大自然を自由に生きた野生のブーボには、もちろんそんな処置が施されているわけでもない。
「よし、ハムにしてみるか。まずはブーボ専用の調味液を作ろう」
臭いを消す材料としてはローズマリーを使う。ローズマリーをお湯で煮出して煮出し液を作成し、次に味付けとなる塩や砂糖、その他の調味料を調合し、それらを組み合わせてブーボ専用の調味液を完成させ内部に浸透させる。
一般的には肉塊の表面にローズマリーなどのハーブを張り付けて臭いを消す方法もあるが、ここまでの強い臭みがあると内部まで完全に臭みが消えないかもと横川は考えていた。
「工場長にインジェクターを動かしたいって許可取ってきて」
横川が部下に指示を出した。食品工場の設備であるインジェクターは、調理液を均一に複数の注射針を使って連続的に肉内部へ注入する機械だ。これにより、食品に味や風味を付加している。
しばらくすると土屋工場長が工場の従業員を5名引き連れて開発室にやってきた。
「横川課長、今はまだ電力の供給が安定していない、手動で行おう」
土屋工場長は試作用で使う注射針を何本か用意して見せた。引き連れてきた従業員もその為であった。
打ち込む調味液を均一にする為、まず肉塊の重量を計り加水量を決める。これは味にも左右する重要な部分でもある。そして、袋の中に肉塊を入れ均等に調味液を打ち込んでいく。袋に入れたのは吐き出した調味液を再度吸わせるためだ。一通り打ち終わったらなるべく空気を抜いて袋の口を縛り、人力で思いっきり左右に振り続けながらマッサージをする。完全に肉へ調味液が吸い込むまで交代でこれを行う。
本来であればこの工程も専用のマッサージ機があるが電力節約のためだ。
調味液が肉になじむと次は成型だ。
ハム型に成型するのには専用のケーシングを用いる。昔ながらの糸巻きする方法でも良いが、現時点では糸よりケーシングの方が工場には在庫もある。
このケーシングと呼ばれるものは空気抜きの穴が所々空いている筒状の素材だ。それに肉塊を詰め糸で口を縛りハムの成型をする。
「さすがにここからはスモークハウスを使わせてくださいよ」
横川が土屋工場長に言うと、疲れた顔で「もちろん」と承諾した。
ハムは熟成・乾燥・燻煙・蒸煮の工程を組み合わせて加熱をおこなう。各工程で肉の状態を確認しながら温度や湿度、時間の調整をおこなっていく。
「よし!試作1号、ブーボハムの完成だ!」
勢いよくスモークハウスの扉を開けると、焼けたハムの芳醇な香りとスモーク色に染まった美しいハムが姿を現した。携わった従業員たちは笑顔で拍手を送り、成功の喜びを分かち合った。
しかし、まだ試食するわけにはいかなかった。使用したのは未知の食材であり、安全性を確認する必要があったからだ。
ハムを十分に冷やした後、品質管理課へと運び込まれた。そこで、一般的な微生物検査が行われることになった。
どれほど美味しそうでも、安全性が確保されなければ意味がない。食べてお腹を壊してしまっては元も子もないのだ。
そして検査開始から3日後、ついに結果が出た。
品質管理課の検査員によると、微生物検査の結果に異常は見られず、試作のブーボハムは安全に食べられることが確認された。この知らせに工場内は歓声に包まれた。異世界での新たな挑戦が、また一歩前進した瞬間だった。
出来上がったブーボハムは、厚切りにしてフライパンで炒めた[ブーボハムステーキ]と、そのまま3ミリほどにスライスした[ブーボハムスライス]の二種類に調理された。
それらを持ち、開発課のメンバーたちは羽曽部社長をはじめとする役員たちと共に、慈愛を本社棟にある商談室に呼んだ。
「おお。これは旨そうな匂いじゃ」
料理が運ばれてきた瞬間から、香ばしい焼き立ての匂いが漂っていた。
慈愛は厚切りにしたハムステーキを頬張る。焼き目のついたハムステーキは柔らかくジューシーであり、口の中で溶けるような食感で、噛むたびに濃厚な肉の旨味が広がっていった。ハム独特の風味もしっかり感じられ、ほど良い塩気が肉の味を引き立てておりブーボ臭さが微塵も感じられなかった。
次にスライスされたハムを二枚まとめて口に運ぶ。慈愛の口の中でとろけるような食感が広がる。肉の繊維は柔らかく、ハム自体の旨味がしっかりと感じられ、ほんのりとした塩気が口の中に広がった。さらに、ハムは程よい脂身があり、脂身の甘みが肉の旨味を引き立て、口の中で絶妙なバランスを生み出していた。その後に広がる軽いスモーキーな風味が、ハムの個性を際立たせていた。無論、こちらのハムにもブーボ臭さは感じられなかった。
「美味い!見事なハムじゃ!」
自信はあったが慈愛の言葉を聞き従業員は安堵した。
この出来上がったハムを何個か仁と真那に持たせ、まずはこの世界の住人の反応を見る事となった。反応が良ければ口コミで噂も広がろう。そこでどこか販売先が見つかりさえすれば、商売の第一歩となる。
この異世界の食材で起業を目指すという情報は、すぐさま工場へ共有され、従業員たちは期待と不安を胸に工場がいつでも稼働できるよう機械のメンテナンスを始めた。
指導者がいて目的があるのは良い。あくまで帰還が最終目標だが、それではやる気が出ない場合もある。目標が不明確だからだ。しかし、まずは目先の届く範囲で目標ができた。これは混乱を防ぐ礎となる。この企業は上手く統率が取れて良い方向へと向かっていると慈愛は感じていた。
「さて、ハムの出来栄えは最高じゃが、あとはあの二人の出来栄えじゃな・・・」
慈愛は仁と真那の姿を思い浮かべた。旅立ちの日までの期限は残りわずかとなる。




