肆
翌日、月渚は下駄箱の傍にいた。
授業を終えた新入生たちが入学初日の興奮冷めやらぬまま横を通り過ぎる中、月渚は入学式の日のお礼を言うためだけに是清を待っていた。
詳しく内容を覚えていないが漫画の世界ではたしか是清と月渚は全科合わせて九クラスある中、同じクラスになるという設定だったが今は是清が普通科、月渚は食物科だ。同じクラスにはなりえない。
月渚の在籍する食物科は男子が極端に少なく、女子高に入学したのかという錯覚さえ覚える。
入学早々、男子に話しかけて仲好くしている姿を見られたら今後の学校生活に支障が出ること間違いない。
たとえ幼なじみ、たとえ同中学からの入学とはいえ、そこはきっちりと弁えておかないと後々、というよりも直ぐに面倒なことになる。
是清にお礼を言いに行かないといけないとは思いつつもそのことのは先送りにして新生活の第一歩である友人作りに勤しんでいた。
おかげでクラスの女子のほとんどとメルアド交換、ついでにラインのグループを作ったりして幸先のよいスタートが切れたことに月渚は満足した。
結局、是清にお礼を言うために行動したのはLHRが終わって帰り支度をした後だった。
各科で校舎が違うために慌てて普通科の校舎に向かい、下駄箱の隅に陣取って是清を待った。
するとわらわらと生徒たちがやってきて、ちらっと月渚を見て怪訝な顔をしながらも土間に降りていく。
動物園のコアラか。
すっかり見世物にされている気分に陥りながらも是清を待っていると階段からそれらしき人影が降りてきた。
是清だ。
何かを探すように辺りを見回し、見つからないことでため息をつきながら月渚のほうに向かってやってくる。
やっぱりわからないんだなあと苦笑しながら是清を見ていると、不意にこちらを向いて何か思い出そうとしているように目を細めてきた。
眉間のしわを寄せながら月渚に向かって歩いているが、どうにも目の前にいるのが月渚だとはわかっていないようだった。
まさか、こんなにわからないとか。
幼馴染という言葉を撤回してもいいんじゃないのと月渚は思った。
確かに髪をかえたことでイメージが変わったにしても、小さなころからずっと近くにいる月渚に気付かなすぎだろうと呆れ半分してやったり半分だった。
相変わらずきょろきょろと何かを探しながら歩いてくる是清が月渚の横を通り過ぎるに至って、月渚は無性に虚しくなってしまったがここで落ち込んでいても仕方がないと是清の背中に声を掛けた。
「是清。ちょっといいかな?」
え、という疑問符とともに振り返った是清がまさかとばかりに目を剥いたことで本当にわかっていなかったんだと何とも言いようのない気分になった。
かたや是清はひん剥いた目をそのまま固まらせて月渚を恐ろしいまでに凝視する。
「――――どうして……」
似合うよとか随分と印象が違うなとかではなく「どうして」と言われるとは思わなかった月渚は言葉もなく首を傾げた。
さらさらと黒髪が揺れ動く。
是清は月渚を見つめたままぴくりとも動かない。
あまりにも長い間じっと見られることに慣れていない月渚はいたたまれなくなった。
「あー……。とりあえず、この前はありがとっ!感謝感謝。お礼に今度何か奢るね。じゃっ!」
軽快さで誤魔化すように礼をいうと逃げるように是清の脇を通り過ぎようとしたが、腕を掴まれて阻止された。
「……あれ?どうして腕を掴まれているんですかねー?」
痛いよ?とわざとらしく眉を顰めると「すまん」という言葉と共に反射的に手を放してくれたが、今度はわたわたと怪しい動きをして月渚から距離を開けた。
普段の彼ならこんな時は余計に腕に力を込めるか、二の腕を遠慮なくふにふにと揉む。
小さいころから知っている二人だからこそ、他人という垣根を超えて家族のような振る舞いも許されていたし許していた。
それが今、無くなった。
くしゃりと顔が歪みそうになった。
喉元にせりあがってきたものを悟られまいと、下を向いて両手を突っ張る。
少しだけ勇気が欲しかった。
「お礼は言ったから! ほんと、ありがと!」
こみ上げてくる涙を見られたくなくて、月渚はくるんと体の向きを変えて走り出した。
きっと是清は追いかけてくる。
校門を出ると駅まで一本道の下り坂だ。
どんなに月渚が必死で駆けたとしても、体格も運動神経もよい是清に追いつかれることは目に見えている。
ぐずぐずと泣きながらも頭の一部の妙に冴えたところで冷静に判断をした月渚は校門をくぐる前に方向転換をして校舎内に戻って身を潜めた。
案の定、それからほどなくして是清が慌てたように駅に向かって走っていく姿があった。
十分に見えなくなったころにようやく、月渚はほっと息を吐いて立ち上がった。
このまま駅に向かっても是清が待っている可能性がある。
せめて一時間くらいは時間をおいて帰るしかない。
暇を持て余した月渚は校舎を探索することにした。
涙顔は誰にも見られなかった。
なんでいるの?
翌朝学校に行こうと家の扉を開けると目の前に是清がいた。
いくら昨日逃げたからといって連絡を取ろうと思えばいくらだって方法がある昨今、それを駆使せずいきなり目の前に現れた是清に月渚は首を傾げた。
是清は挨拶もそこそこに少し強引に月渚の手を掴むと、すたすたと歩きはじめる。
いつもならある程度月渚に歩調を合わせてくれるはずの是清が、月渚が小走りになるほどの速度で歩いている。
その上、顔を全く合わさない。
頭の中にクエスチョンマークが山のように現れて、声をかけようにも是清の眉間にしわが寄っている不機嫌そうな顔をみると気力が萎えてしまう。
なんなの、いったい。
もうすぐ駅だというところで、月渚は強行軍の指揮官に楯突くことにした。
「ねえ、どうしたの?逃げないから手を離して」
「逃げるだろ、昨日みたいに」
月渚を見ようともしないで吐き捨てるように言われた言葉に傷つきながらも、そういわれてしまうと何も言い返すことができない。
が、昨日は昨日、今日は今日。
今から登校するのだし、同じ学校に行く是清が目の前にいて昨日のように振り切れるとは月渚も思ってはいない。
はあ、と態とらしいため息を盛大について、月渚は手を力いっぱい振り払った。
「あのね。なんで私が逃げる必要があるの?
だいたい今から学校に行くんでしょ?逃げるなんて馬鹿らしい」
「そうか?」
強めに言った言葉すら受け流されて、その上振り払ったはずの手をもう一度握られて、是清が歩こうとする。
小さいころから是清との付き合いがあるとはいっても、月渚は夕焼け小焼けよろしく手を繋いで歩いた記憶などない。
あったとしてもそれこそ幼稚園のお出かけの時に安全のために二列に並んで横にいる是清の手を握った、それくらい遠い記憶の中にしか思い浮かばないほどだ。
それが朝から無理やり手を握って無言で歩かれているのだから溜まったものではない。
おかしいな。
髪を切った私がわからなったとはいえ手を握る必要なんてないし、それにだいたい漫画だったら高校生活は中学生時代の延長のような付き合いで、でも周りからは付き合っていると勘違いされている程度のはず。
そうはといっても是清のことが好きな月渚は嬉しいという気持ちを抑えられない。
反面、昨日逃げたことで漫画補正がかかって月渚が是清から離れないようにしているのかもしれないと思っている自分もいる。
「手を繋ぐなら一緒にいかない」
漫画の月渚と違う月渚を見てもらおうとして髪を切ったはずがどうしてこうなったのか。
悔しさで声が少し荒くなった。
するとあからさまに目を泳がせた是清が、ぱんっと大きな音をたてて顔に手を当てて唸り声を上げた。
「……もしかして、莫迦?」
思わずそう呟いた月渚は悪くない。
自分の顔を叩いて唸れば、誰がどう見たっておかしいのは是清だろう。
指の間から見える顔は真っ赤だ。
これは相当イタイな、と違う意味で心配した月渚が是清を下から覗き込むと、是清の顔はどんどんと赤くなっていく。
あー。これ、わかる。
恥ずかしいよね、やっちゃったもんね。
わかる、わかるよと知ったかぶりの月渚は是清の背中をバンバンと力いっぱい叩くと、今度は背中を両手で押し始めた。
違うという小さな声は、同情する月渚の耳には届かなかった。