第61話 渡したいもの
火曜日の朝、ひまりは教室に入るなり、遼の姿を探した。
窓際の席に、いつも通り座っている。榊と話していた遼は、ひまりに気づくと軽く手を上げた。
「おはよう、夏川。」
「おはよう、秋月くん!」
ひまりは笑って、自分の席へ向かった。
昨日、付き合うことになった。
それは間違いない。夢でもない。帰り道で告白して、手を繋いで、夜にはお互いに好きだとメッセージを送り合った。
けれど、学校に来てみると、何だか不思議だった。
秋月くんは、昨日までと同じように挨拶してくれる。榊くんと話しているし、机の上には数学の教科書が開かれている。何も変わっていないように見える。
でも、彼氏なのだ。
ひまりは鞄を机に置き、そっと遼の方を振り返った。
また目が合った。
遼が笑う。
ひまりも笑った。
「……何してんの?」
美咲の声がした。
「えっ?」
「さっきから秋月くんの方ばっか見てる。」
「み、見てないよ!」
「見てたじゃん。」
美咲は笑いながら椅子に座った。
「おはよ、ひまり。」
「……おはよう。」
「彼氏できて、最初の登校はどう?」
「……美咲!」
「何?」
「声大きい!」
ひまりが慌てて周囲を見回すと、美咲は少し驚いた顔をした。
「……あ、ごめん。」
「ううん。いいんだけど。」
ひまりは声を落とした。
「まだ、あんまりみんなには言ってなくて。」
「そっか。」
「琴音と紗奈には昨日、メッセージで話したんだけど。」
「うん。」
「他の人には、まだいいかなって。」
美咲は頷いた。
「分かった。じゃあ、私からは言わない。」
「……ありがとう。」
ひまりは笑った。
美咲も笑い返した。
それから、少しだけ声を潜めた。
「で、どうなの?」
「……何が?」
「彼氏できた感想。」
ひまりは頬を赤くした。
「……まだ、よく分かんない。」
「昨日あんなに喜んでたのに?」
「嬉しいよ! すっごく嬉しいんだけど!」
ひまりは机に顔を伏せた。
「……学校だと、どうしたらいいのか分かんない。」
美咲は少し考えた。
「普通にしてれば?」
「普通って何!」
「昨日までと同じでいいんじゃない?」
「……そうなのかな。」
「だって、急に別人になるわけじゃないでしょ。」
ひまりは顔を上げた。
遼は榊に何か言われて笑っていた。
その姿を見て、ひまりも少し笑った。
「……そうだね。」
付き合ったからといって、何もかも変えなくていい。
今まで通り話して、笑って、一緒に帰る。
それでいいのかもしれない。
ただ、今までより少しだけ、近くにいたいと思う。
その気持ちは、まだ誰にも言わないでおいた。
昼休み、ひまりはいつものように美咲たちと弁当を食べていた。
「で、バレンタインどうするの?」
琴音が尋ねた。
「……えっ。」
「秋月くんにチョコ渡すんでしょ?」
「う、うん。」
「手作り?」
「まだ決めてないんだ。」
ひまりは箸を置いた。
「美咲と一緒に買いに行く約束はしたんだけど。」
「いいなあ。私も行きたい!」
「琴音、土曜日は用事あるって言ってなかった?」
紗奈が言った。
「あ、そうだった。」
「忘れてたの?」
「忘れてた!」
三人が笑った。
ひまりも笑いながら、弁当箱の蓋を閉めた。
「でも、何がいいんだろう。秋月くん、甘いものは好きって言ってたけど。」
「じゃあ、普通にチョコでいいんじゃない?」
「そうなんだけど。」
ひまりは少し考えた。
「せっかくだから、喜んでもらえるものにしたくて。」
「分かる!」
琴音が勢いよく頷いた。
「彼氏への初めてのバレンタインだもんね!」
「……琴音、声。」
「あっ、ごめん!」
琴音は慌てて口を押さえた。
ひまりは笑った。
けれど、そのとき、近くの席から聞こえた声に、少しだけ顔を上げた。
「……秋月ってさ。」
女子の声だった。
「夏川と、付き合ってんの?」
ひまりの手が止まった。
美咲も気づいたらしく、そちらを見た。
「知らないけど。最近ずっと一緒じゃん。」
「前からじゃない?」
「まあ、そうだけど。」
声はそれほど大きくなかった。
けれど、ひまりにははっきり聞こえた。
「……あの噂って、結局どうなったんだろ。」
別の女子が言った。
「さあ。よく分かんない。」
「何か、ちょっと怖くない?」
ひまりは俯いた。
胸の奥が、少しだけ冷たくなった。
もう、何も言われていないと思っていたわけではない。
教室に戻ってからも、自分を見る目が以前と違う人はいた。挨拶を返してくれる人もいれば、何となく避けているように感じる人もいた。
それでも、最近は気にしないでいられる時間が増えていた。
美咲たちと笑っているとき。
授業に集中しているとき。
秋月くんと話しているとき。
けれど、噂がなくなったわけではなかった。
「……ひまり。」
紗奈が小さく声をかけた。
「……ん?」
「大丈夫?」
ひまりは顔を上げた。
「……うん。」
笑おうとして、少しだけ失敗した。
琴音が俯いていた。
いつもなら、何か言い返しそうな琴音が、今日は黙っている。
美咲が立ち上がりかけた。
ひまりは慌てて首を振った。
「……いいよ、美咲。」
「でも。」
「……大丈夫。」
美咲は少し迷ってから、椅子に座り直した。
ひまりは弁当箱を片づけた。
もう食べ終わっている。
それなのに、何かを続けなければいけない気がして、箸をケースに入れ直した。
「……ねえ。」
琴音が口を開いた。
三人が顔を上げた。
「……ひまり、ちょっといい?」
「……うん?」
「あとで、少し話したい。」
琴音の声は、いつもよりずっと小さかった。
ひまりは頷いた。
「……いいよ。」
昼休みが終わる十分ほど前、ひまりと琴音は廊下の端にいた。
窓の外では、校庭を走る生徒たちが見えた。冬の冷たい空気が、窓ガラス越しにも伝わってくるようだった。
琴音はなかなか話し始めなかった。
ひまりも急かさずに待っていた。
「……あのさ。」
ようやく、琴音が口を開いた。
「前に、ひまりの中学のときのこと、噂になったじゃん。」
「……うん。」
「あれ、私が原因なの。」
ひまりは琴音を見た。
「……え?」
「美咲から聞いた話を、別の子に話しちゃって。」
琴音は俯いた。
「その子が誰かに話して、どんどん広まって。」
「……そうだったんだ。」
ひまりは小さく答えた。
噂が広まった理由について、詳しく聞いたことはなかった。
誰かが知っていたことを話したのだろうとは思っていた。美咲から聞いた人がいるのかもしれないとも考えていた。
けれど、琴音だったとは知らなかった。
「……ごめん。」
琴音が言った。
「私、そんな大事になると思ってなくて。」
そこで言葉を止めた。
「……いや、違う。そういう問題じゃないよね。」
ひまりは黙っていた。
「ちゃんと考えれば、話しちゃいけないことだって分かったはずなのに。」
琴音は顔を上げた。
「本当にごめん。」
ひまりは窓の外を見た。
校庭の端で、男子生徒がボールを蹴っていた。
遠くから笑い声が聞こえる。
「……琴音。」
「……うん。」
「私ね。」
ひまりは少し考えた。
「噂になったこと、すっごく嫌だった。」
琴音は頷いた。
「……うん。」
「学校に来るのも、怖くなったし。」
「……うん。」
「でも、琴音が悪気なく話しちゃったのも、何となく分かる。」
ひまりはそこで一度、言葉を切った。
「……分かるけど、やっぱり嫌だった。」
琴音は俯いた。
「……ごめん。」
ひまりは首を振った。
「謝ってくれて、ありがとう。」
「……うん。」
「でも、すぐに全部平気になるわけじゃないと思う。」
琴音は少し驚いた顔をした。
ひまり自身も、自分がそんなことを言うとは思っていなかった。
以前なら、すぐに「大丈夫だよ」と言っていたと思う。
相手を困らせたくなかったから。
嫌われたくなかったから。
でも、今日はそれだけでは済ませたくなかった。
「……それでも、私、琴音と普通に話したいよ。」
ひまりは言った。
「今日だって、バレンタインの話、楽しかったし。」
琴音は目を伏せた。
「……うん。」
「だから、これからもよろしくね。」
ひまりは少し笑った。
琴音はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……うん。ありがとう。」
二人は教室へ戻った。
美咲がひまりを見たが、何も聞かなかった。
ひまりは自分の席に座り、次の授業の教科書を取り出した。
胸の奥には、まだ少しだけ重たいものが残っていた。
けれど、琴音と話せてよかったと思った。
嫌だったことを、嫌だったと言えた。
それでも、友達でいたいと伝えられた。
ひまりは教科書を開いた。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
遼からだった。
『今日、一緒に帰れる?』
ひまりは少し笑った。
『帰れるよ!』
『じゃあ放課後な』
『うん!』
画面を閉じる。
ひまりは前を向いた。
午後の授業が始まった。
放課後、遼は校門の前でひまりを待っていた。
「お待たせ!」
「おう。行くか。」
「うん!」
二人は並んで歩き出した。
学校から少し離れたところで、遼がそっと手を差し出した。
ひまりは一瞬、目を丸くした。
「……いいの?」
「……嫌?」
「嫌じゃない!」
ひまりは慌てて首を振った。
それから、遼の手を握った。
遼も握り返した。
「……えへへ。」
「何?」
「秋月くんから繋いでくれた。」
「昨日は夏川からだったし。」
「……そうだね。」
ひまりは笑った。
しばらく歩いてから、遼が尋ねた。
「今日、何かあった?」
「……え?」
「昼休み、ちょっと元気なかった気がしたから。」
ひまりは遼を見た。
「……見てたの?」
「たまたま。」
「……そっか。」
ひまりは少し考えた。
琴音との話を、どこまで伝えよう。
噂のことは、遼も知っている。
でも、琴音が原因だったことまで話す必要があるのだろうか。
ひまりは繋いだ手を見た。
「……ちょっとね、嫌なことはあった。」
「……うん。」
「でも、ちゃんと話せたから。」
「誰と?」
「……友達と。」
遼は頷いた。
「そっか。」
「うん。」
「じゃあ、よかったな。」
ひまりは顔を上げた。
「……うん。」
遼はそれ以上聞かなかった。
ひまりは少し安心した。
全部話さなくても、こうして隣にいてくれる。
それが嬉しかった。
駅へ向かう途中、ひまりは遼の手を少し強く握った。
「……秋月くん。」
「ん?」
「……私たち、付き合ってること、みんなに言う?」
遼は少し考えた。
「夏川はどうしたい?」
「……うーん。」
ひまりは俯いた。
「美咲たちには話したし、別に隠したいわけじゃないんだけど。」
「うん。」
「……今は、まだいいかなって。」
遼は頷いた。
「じゃあ、そうしよう。」
「……いいの?」
「いいよ。わざわざ発表することでもないだろ。」
ひまりは笑った。
「……そっか。」
「聞かれたら、別に隠さなくてもいいと思うし。」
「……うん。」
ひまりは少し考えてから、言った。
「……秋月くん。」
「ん?」
「私のこと、変なふうに言う人がいたら、ごめんね。」
遼は足を止めた。
ひまりも立ち止まった。
「……何で夏川が謝るんだよ。」
「……だって。」
「俺が夏川と付き合いたくて付き合ってるんだから。」
ひまりは黙った。
遼は少し笑った。
「そんなこと、気にしなくていいって。」
「……うん。」
「少なくとも、俺は気にしないよ。」
ひまりは遼を見つめた。
それから、小さく頷いた。
「……ありがとう。」
二人はまた歩き出した。
ひまりは繋いだ手を見た。
秋月くんは、自分が何をしてきたのか知っている。
全部ではないかもしれない。
それでも、知らないわけではない。
そんな自分を、好きだと言ってくれた。
ひまりは遼の横顔を見た。
「……ねえ、秋月くん。」
「ん?」
「私、秋月くんと付き合えてよかった。」
遼は少し照れたように笑った。
「……俺も。」
ひまりは笑った。
その日の夜、ひまりは美咲とバレンタインの相談をしていた。
『土曜日、何時にする?』
「十時くらいでいいんじゃない?」
『うん! じゃあ駅前で!』
「了解。」
『ねえ、美咲。』
「ん?」
『手作りって、どう思う?』
美咲は少し考えた。
「いいんじゃない?」
『でも、私そんなにお菓子作り得意じゃないんだよね。』
「じゃあ、簡単なのにすれば?」
『簡単なのって何?』
「生チョコとか。」
『生チョコ!』
「材料そんなに多くないし。」
『……できるかな。』
「レシピ見ればできるでしょ。」
ひまりはベッドの上で起き上がった。
『……よし!』
「何?」
『作ってみようかな!』
「いいじゃん。」
『美咲、手伝って!』
「結局そうなるんだ。」
『お願い!』
美咲が笑った。
「分かったよ。」
『やった!』
ひまりは嬉しそうに頷いた。
電話を切ったあと、スマートフォンで生チョコの作り方を調べた。
チョコレート。
生クリーム。
ココアパウダー。
材料は思ったより少なかった。
ひまりはレシピを読みながら、何度も頷いた。
「……これなら、できるかも。」
少しして、遼からメッセージが届いた。
『今何してる?』
ひまりは画面を見て、笑った。
『内緒!』
すぐに返信が来た。
『何だよ笑』
『秘密だよ!』
『気になるじゃん』
『来週になったら分かるよ!』
ひまりは送信してから、少し考えた。
秘密。
何だか、久しぶりに使った言葉だった。
けれど、今の秘密は楽しい。
誰かを困らせるためでも、何かを隠して逃げるためでもない。
秋月くんを喜ばせたいから、まだ言わないだけ。
ひまりはスマートフォンを抱き寄せた。
来週、ちゃんと渡せるといいな。
喜んでもらえるといいな。
そんなことを考えながら、遼とのトーク画面を開いた。
『楽しみにしててね!』
送信する。
すぐに返事が来た。
『分かった。楽しみにしてる』
ひまりは笑った。
土曜日、美咲と一緒に材料を買いに行こう。
それから、頑張って作ろう。
形が少しくらい悪くなっても、きっと秋月くんなら笑ってくれる。
ひまりはもう一度レシピを開いた。
今度は、ちゃんと最後まで読んだ。




