16. 絶えることの無い痛みひとひら、まだ来ぬ夜明け。⑤
「ただいま」
ハリアカが孤児院に帰ると、中は静まり返っていた。先程までの喧騒が幻のように思えた。
寝室の私物が入っている箱の前に膝を付く。
ずっと持っていたダックブルーのショールを見つめる。
『あ、いや…これは』
汗染みが付いていた紙袋。
それに気付き、恥ずかしそうに口ごもる彼。
長時間、無くさないように持っていてくれた事が、純粋に嬉しかった。
ショールを巻いてくれている時に感じた、彼の声と呼吸に、平静を装うのに苦労した。
『それ、女の人用よ』
フイの言葉に驚き、慌てふためく彼の人間味に、僅かに開いた心の扉から春の香りがした。
ダックブルーの幾何学模様に、そっと触れる。
(──人から何かプレゼントされるなんて…初めてかも)
自然と口許に笑みが浮かんだ。
ショールをそっと箱の中にしまった。
そして子供たちが施浴室に行っている間に、寝床を用意する。
寝床と言っても、床の絨毯にゴザを敷き毛布を被るだけの簡単なものだ。
それを人数分、順番に並べて行く。
寝床の用意が出来上がる頃に、子供たちが戻って来た。
「あ! ハリアカ、戻って来たんだ」
「うん、ただいま」
最後の毛布を広げた。
バサッと音がして、ゴザの上にふわりと落ちた。
「ねえねえ、ハリアカァ。明日も写真、見せてくれるって?」
アタアフアがハリアカの上着の裾を掴んで左右に振る。
「うーん、多分ね」
ハリアカは少し考えて答えた。
「良かったぁ」
アタアフアは機嫌良く、寝床の定位置に行く。
「ほら! 寝る前に明日の準備して‼︎」
フイが小さい子たちに向かって、忙しなく動いている。
その近くでランギが小さな子供の手伝いをしている。
「明日、学校に持って行くの、これで良いのか?」
「うん! これで全部‼︎」
「良し、じゃあ、もう寝ろ。次!」
再び活気が戻って来る。
寝床に横になって行く子供たちを見ながら、ハリアカは安心する。
今夜は初めて体験した事ばかりで、なかなか寝付けないだろう。しかし無事に一日が終わる。
「じゃあね、ハリアカおやすみ!」
「ハリアカ、おやすみなさ〜い」
ランギとフイも寝床にやって来て、毛布に潜った。
「ありがとう、ランギ、フイ。おやすみなさい」
ハリアカは全員が横になったのを確認する。
そして再び私物が入った箱の前に膝を付く。
箱を開くと、一番上にダックブルーのショール。
それをそっと取り出して、次に着替えと沐浴着を取り出した。
背後から、子供たちがクスクスと笑い合っている声が静かに聞こえる。
ショールを箱にしまおうと手に取る。
「──……」
少し考えて、これも施浴室に持って行くことにした。
ショールと着替え類をバケツに入れて、施浴室へ向かう。
外は先程より気温が下がり、思わず身震いをした。
寺院の軒先に吊るされた蝋燭は、幾つか燃え尽きている。
寺院の裏山から鳥の甲高い鳴き声がすると、飛び立った黒い影が月明かりに浮かび上がった。
施浴室の扉を開ける。
中は既に誰も居なくなっており、ゴミや忘れ物らしきタオルが散乱していた。
いつもの光景だが、ハリアカは溜め息を吐く。
今日の溜め息は、目の前の惨状に対してではない。
心臓に錘が付いたかのように、重いものを感じる。
誰も居ない脱衣所で、一人、白い木綿の沐浴衣に着替える。
着ていた民族衣装を丁寧に畳み、着替えと重ねると脱衣所の片隅に置く。それらを隠すようにショールを掛けた。
バケツと手桶、固形石鹸とタオルを持って浴室に入る。
誰も居なくなって時間が経ったのか、浴室内はひんやりしていた。
バケツで湯溜めから湯をすくい上げる。
そのまま湯溜めの前に胡座をかいた。
作法に則り、バケツの湯を更に手桶ですくい、頭から湯を被る。
しかし心は、違和感だけが水分を含んだ薄衣のように肌に貼り付いていた。
「──……はぁ」
髪から滴る水滴と共に溜め息が漏れた。
バケツの湯の水面に自分の姿を見た瞬間、水滴で像は歪んで消えた。
濡れた頭を左右に振る。
しかし雑念は消えない。
フイがワイルアに抱き付いた時に感じた、胸の奥のザラリとした感触。
やはり恐ろしい…自分が変わってまいそうで。
呼吸が大きくなり、訳も無く涙が溢れて来た。
項垂れて、目を閉じる。
長い金の睫毛の先から落ちた熱い水滴が、足首を濡らした。
震える唇を、噛み締める。
「──…ぅっ、ん…」
喉がなる。
流れる涙を拭っても拭っても、不安は消えない。
こんなに涙が溢れ落ちるのかさえ判らない。
悲しい訳でもないのに。
誰も居ない浴場に、嗚咽だけが響く。
ただ、「判らない」。
それだけがハリアカを苦しめていた。
涙が流れる理由も、心の重さも、ざらつきも、何もかもが判らない。
最初は初めての写真撮影に戸惑った。
しかし、次第に胸の高鳴りを感じるようになっていた。
ほんの一時間足らずの間だったが、彼と過ごす内に、この時間がずっと続けば良い、そう思えた。
まるで、それはワイルアと二人だけの空間だけが切り離されたようで…。
子供たちと一緒にいる時間とは、全く違う時間。
ワイルアの、自分だけを真剣に見つめる眼差し。
あの時間だけは、確かに「みんなのハリアカ」ではなく、「ワイルアだけのハリアカ」だった。
しかし今の自分は、得体の知れない何かに囚われている。
ひとしきり涙を流し、呼吸が落ちついて来た。
手の甲で目元を拭うと、誰かに見られないうちに、手早く身を清めた。
再度、頭から湯を被る。
流水と共に流れて行く泡を見つめる。
「──はぁ…はぁ…んくっ」
身体は清められたのに、甘さを含んだ心の騒めきは留まったままだった。
施浴室から逃げるように着替えを済ませる。
いつもは粗方片付けてから出る脱衣所も、そのままにしてしまった。
軒に吊された蝋燭は全て消え、更に深まった夜にさえ恐怖を感じる。
湯冷めをしないように、ショールを肩から掛けた。
ワイルアの温もりが残っている気がして、複雑に絡み合った感情が解されて行くのを感じる。
見上げたアラ・ウェトゥの煌めきは、胸を締め付け、一瞬息をするのを忘れた。
孤児院へと向かう途中、ふと宿坊へと顔を向ける。
ワイルアの部屋の灯りは消えていた。
ハリアカは無意識にショールの合わせ目を握る。
身体を包む闇の向こうから、ハリアカの心にテ・アオ・マラマが差し込み始める。
それに何となく安心して、はにかむと孤児院へと向かった。
孤児院の扉をなるべく音がしないように開ける。
僅かに蝶番が軋んだ音がした。
月明かりを頼りに、バケツと手桶を元の位置に戻す。
着替えた汚れ物は、子供たちが放り込んだ籠の一番上に置いた。
寝室へ入ると子供たちの寝息だけが、そこに息づいていた。
私物の入った箱を窓の方へ向ける。
中の物を全て出して、綺麗に畳んだショールを一番下に入れた。
次にこれを纏うのは、いつになるのだろう。
ハリアカは撫でるようにシワを伸ばすと、出した物を箱に戻した。
蓋を閉めて、元の位置に戻す。
「うふふ…ふっふっ…」
不意に誰かが笑った。
ハリアカは驚いて、子供たちが寝ている方へ振り返る。
毛布がゴソゴソと動き、誰かが寝返りを打ったようだった。
笑い声はアタアフアだろうか。
きっと楽しい夢を見ているのだろう。
ハリアカは立ち上がり、子供たちのずれた毛布を直して行く。
そして自分の寝床へ足を滑り込ませた。
隣りで、思い思いの格好で眠る子供たちの寝顔を見つめる。
泣いてなんかいる場合ではない。
この心の戸惑いも、憂いも、時折感じる温かさも、きっと時が答えをくれるはず。
そう思い、横になり毛布を被る。
今日は子供たち同様、色々な事が有り過ぎた。
一つ大きく呼吸をして目を閉じた。




