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一揃いの曙光《Quantiz and Synesthesia》  作者: 弥都 史誠
第八章

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16. 絶えることの無い痛みひとひら、まだ来ぬ夜明け。⑤

「ただいま」

 ハリアカが孤児院に帰ると、中は静まり返っていた。先程までの喧騒が幻のように思えた。

 寝室の私物が入っている箱の前に膝を付く。

 ずっと持っていたダックブルーのショールを見つめる。

『あ、いや…これは』

 汗染みが付いていた紙袋。

 それに気付き、恥ずかしそうに口ごもる彼。

 長時間、無くさないように持っていてくれた事が、純粋に嬉しかった。

 ショールを巻いてくれている時に感じた、彼の声と呼吸に、平静を装うのに苦労した。

『それ、女の人用よ』

 フイの言葉に驚き、慌てふためく彼の人間味に、僅かに開いた心の扉から春の香りがした。

 ダックブルーの幾何学模様に、そっと触れる。

(──人から何かプレゼントされるなんて…初めてかも)

 自然と口許に笑みが浮かんだ。

 ショールをそっと箱の中にしまった。

 そして子供たちが施浴室に行っている間に、寝床を用意する。

 寝床と言っても、床の絨毯にゴザを敷き毛布を被るだけの簡単なものだ。

 それを人数分、順番に並べて行く。

 寝床の用意が出来上がる頃に、子供たちが戻って来た。

「あ! ハリアカ、戻って来たんだ」

「うん、ただいま」

 最後の毛布を広げた。

 バサッと音がして、ゴザの上にふわりと落ちた。

「ねえねえ、ハリアカァ。明日も写真、見せてくれるって?」

 アタアフアがハリアカの上着の裾を掴んで左右に振る。

「うーん、多分ね」

 ハリアカは少し考えて答えた。

「良かったぁ」

 アタアフアは機嫌良く、寝床の定位置に行く。

「ほら! 寝る前に明日の準備して‼︎」

 フイが小さい子たちに向かって、せわしなく動いている。

 その近くでランギが小さな子供の手伝いをしている。

明日あした、学校に持って行くの、これで良いのか?」

「うん! これで全部‼︎」

「良し、じゃあ、もう寝ろ。次!」

 再び活気が戻って来る。

 寝床に横になって行く子供たちを見ながら、ハリアカは安心する。

 今夜は初めて体験した事ばかりで、なかなか寝付けないだろう。しかし無事に一日が終わる。

「じゃあね、ハリアカおやすみ!」

「ハリアカ、おやすみなさ〜い」

 ランギとフイも寝床にやって来て、毛布に潜った。

「ありがとう、ランギ、フイ。おやすみなさい」

 ハリアカは全員が横になったのを確認する。

 そして再び私物が入った箱の前に膝を付く。

 箱を開くと、一番上にダックブルーのショール。

 それをそっと取り出して、次に着替えと沐浴着を取り出した。

 背後から、子供たちがクスクスと笑い合っている声が静かに聞こえる。

 ショールを箱にしまおうと手に取る。

「──……」

 少し考えて、これも施浴室に持って行くことにした。

 ショールと着替え類をバケツに入れて、施浴室へ向かう。

 外は先程より気温が下がり、思わず身震いをした。

 寺院の軒先に吊るされた蝋燭は、幾つか燃え尽きている。

 寺院の裏山から鳥の甲高い鳴き声がすると、飛び立った黒い影が月明かりに浮かび上がった。

 施浴室の扉を開ける。

 中は既に誰も居なくなっており、ゴミや忘れ物らしきタオルが散乱していた。

 いつもの光景だが、ハリアカは溜め息を吐く。

 今日の溜め息は、目の前の惨状に対してではない。

 心臓に錘が付いたかのように、重いものを感じる。

 誰も居ない脱衣所で、一人、白い木綿の沐浴衣に着替える。

 着ていた民族衣装を丁寧に畳み、着替えと重ねると脱衣所の片隅に置く。それらを隠すようにショールを掛けた。

 バケツと手桶、固形石鹸とタオルを持って浴室に入る。

 誰も居なくなって時間が経ったのか、浴室内はひんやりしていた。

 バケツで湯溜めから湯をすくい上げる。

 そのまま湯溜めの前に胡座をかいた。

 作法に則り、バケツの湯を更に手桶ですくい、頭から湯を被る。

 しかし心は、違和感だけが水分を含んだ薄衣のように肌に貼り付いていた。

「──……はぁ」

 髪から滴る水滴と共に溜め息が漏れた。

 バケツの湯の水面に自分の姿を見た瞬間、水滴で像は歪んで消えた。

 濡れた頭を左右に振る。

 しかし雑念は消えない。

 フイがワイルアに抱き付いた時に感じた、胸の奥のザラリとした感触。

 やはり恐ろしい…自分が変わってまいそうで。

 呼吸が大きくなり、訳も無く涙が溢れて来た。

 項垂れて、目を閉じる。

 長い金の睫毛の先から落ちた熱い水滴が、足首を濡らした。

 震える唇を、噛み締める。

「──…ぅっ、ん…」

 喉がなる。

 流れる涙を拭っても拭っても、不安は消えない。

 こんなに涙が溢れ落ちるのかさえ判らない。

 悲しい訳でもないのに。

 誰も居ない浴場に、嗚咽だけが響く。

 ただ、「判らない」。

 それだけがハリアカを苦しめていた。

 涙が流れる理由も、心の重さも、ざらつきも、何もかもが判らない。

 最初は初めての写真撮影に戸惑った。

 しかし、次第に胸の高鳴りを感じるようになっていた。

 ほんの一時間足らずの間だったが、彼と過ごす内に、この時間がずっと続けば良い、そう思えた。

 まるで、それはワイルアと二人だけの空間だけが切り離されたようで…。

 子供たちと一緒にいる時間とは、全く違う時間。

 ワイルアの、自分だけを真剣に見つめる眼差し。

 あの時間だけは、確かに「みんなのハリアカ」ではなく、「ワイルアだけのハリアカ」だった。

 しかし今の自分は、得体の知れない何かに囚われている。

 ひとしきり涙を流し、呼吸が落ちついて来た。

 手の甲で目元を拭うと、誰かに見られないうちに、手早く身を清めた。

 再度、頭から湯を被る。

 流水と共に流れて行く泡を見つめる。

「──はぁ…はぁ…んくっ」

 身体は清められたのに、甘さを含んだ心の騒めきは留まったままだった。

 施浴室から逃げるように着替えを済ませる。

 いつもは粗方片付けてから出る脱衣所も、そのままにしてしまった。

 軒に吊された蝋燭は全て消え、更に深まった夜にさえ恐怖を感じる。

 湯冷めをしないように、ショールを肩から掛けた。

 ワイルアの温もりが残っている気がして、複雑に絡み合った感情が解されて行くのを感じる。

 見上げたアラ・ウェトゥ(星の道)の煌めきは、胸を締め付け、一瞬息をするのを忘れた。

 孤児院へと向かう途中、ふと宿坊へと顔を向ける。

 ワイルアの部屋の灯りは消えていた。

 ハリアカは無意識にショールの合わせ目を握る。

 身体を包む闇の向こうから、ハリアカの心にテ・アオ・マラマ(光の世界)が差し込み始める。

 それに何となく安心して、はにかむと孤児院へと向かった。

 孤児院の扉をなるべく音がしないように開ける。

 僅かに蝶番が軋んだ音がした。

 月明かりを頼りに、バケツと手桶を元の位置に戻す。

 着替えた汚れ物は、子供たちが放り込んだ籠の一番上に置いた。

 寝室へ入ると子供たちの寝息だけが、そこに息づいていた。

 私物の入った箱を窓の方へ向ける。

 中の物を全て出して、綺麗に畳んだショールを一番下に入れた。

 次にこれを纏うのは、いつになるのだろう。

 ハリアカは撫でるようにシワを伸ばすと、出した物を箱に戻した。

 蓋を閉めて、元の位置に戻す。

「うふふ…ふっふっ…」

 不意に誰かが笑った。

 ハリアカは驚いて、子供たちが寝ている方へ振り返る。

 毛布がゴソゴソと動き、誰かが寝返りを打ったようだった。

 笑い声はアタアフアだろうか。

 きっと楽しい夢を見ているのだろう。

 ハリアカは立ち上がり、子供たちのずれた毛布を直して行く。

 そして自分の寝床へ足を滑り込ませた。

 隣りで、思い思いの格好で眠る子供たちの寝顔を見つめる。

 泣いてなんかいる場合ではない。

 この心の戸惑いも、憂いも、時折感じる温かさも、きっと時が答えをくれるはず。

 そう思い、横になり毛布を被る。

 今日は子供たち同様、色々な事が有り過ぎた。

 一つ大きく呼吸をして目を閉じた。

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