16. 絶えることの無い痛みひとひら、まだ来ぬ夜明け。④
咄嗟に腕を引く。
ゆっくりと向けられるハリアカのカフランギが揺れていた。
「あの、さ。まだ、ちゃんと名前…聞いてないと思って…」
ハリアカの腕を掴んだまま、ワイルアは頬を人差し指で掻く。
その視線は、ハリアカとは別の方向に向いていた。
「……! あっ、ごめんなさい。私ったら…」
動揺して、俯き視線が定まらない。
ハリアカがワイルアと再び向き合う。
逃げられないと判断したワイルアは、腕を離す。
「──私、ハリアカ…。この孤児院で子供たちの世話をしてる」
上目遣いで見つめてくる瞳に、ワイルアの理性が揺らぐ。
このまま抱き締めてしまいたい衝動を堪える。
「ハリアカ…良い名前だ。俺はワイルア。駆け出しの写真家だ。よろしく」
ワイルアは握手の手を差し伸べる。
ハリアカは少し躊躇いがちに、ワイルアの手を握った。
ハリアカの細く冷えた指先から、体温を奪われる。それと同時に、心でさえも。
「それ、昨日聞いた」
ハリアカがほんの少しだけ吹き出して、肩を揺らした。
「あ…そうだったな。でも、改めて」
「改めて。こちらこそ、よろしく…ワイルア」
ワイルアの心臓が跳ねる。
彼に、初めて面と向かって名前を呼ばれた。
学生時代に片想いをしていた女生徒に、名を呼ばれた時と同じ感覚。
『ワイルアの写真。私、好きだなぁ』
午後の陽光の中、写真部の展示を見ながら彼女は言った。
彼女の言葉で写真家になると決めた。だが、告白は出来なかった。
今では顔すら覚えていない。
ワイルアが過去の甘酸っぱい記憶を巡らせていると、ハリアカは手を放す。
「──それじゃ、また明日。おやすみなさい」
軽く頭を下げて、ハリアカは去って行く。
「おやすみ、ハリアカ」
今度は月明かりと蝋燭の灯りの中、ハリアカの姿が消えるまで見送った。
完全に彼の姿が闇に消える。
そして先程スーツケースから取り出したタオルと小さくなった固形石鹸とシャンプーのボトル、それと着替えを持って施浴室へ向かう。
寺院内に建てられた行き先の看板を頼りに、施浴室に辿り着いた。
入り口には使い古された木製のバケツが二つと、手桶が三つ乱雑に置かれている。
壁にはイラストと、現地語と共通語で入浴法が書かれていた。
下着を着用する事。
湯は共有の湯溜めから、バケツを使って汲んで使う事など。
同じ国なのに、ゲストハウスと寺院での入浴法すら違う。
看板を興味深く、まじまじと見る。
「──なるほど、ね」
ワイルアはバケツを取ると、それに手桶と持って来た物を放り込んだ。
下着一枚になって入室する。
中には数人の僧らしき男が汗を流していた。
ワイルアは遠慮がちに、壁際にバケツ以外の物を置く。
石造りの湯溜めからバケツで湯を汲むと、壁際へと戻る。
バケツには隙間があるらしく、ボトボトと湯が漏れ落ちた。
他の入浴者をチラリと見ながら、同じように、床に胡座をかいて、安物の石鹸を泡立てる。
いつものように、首から身体を洗い始める。
ふと左腕を擦る右手が目に入る。タオルから右手を放して、泡だらけの手のひらをジッと見つめる。
「──また明日…か」
ハリアカの白く細い指の感触が残っている。
(──細かったな…。ちゃんと食べてるのかな…)
その割には、夕潮から逃れる為に引っ張られた手の力は強かった。
ワイルアはその手をグッと握り締めると、頭をくしゃくしゃと掻きむしる。
「──あーーっ、もう‼︎」
ワイルアの叫びに、近くにいた初老の男が一瞥をくべた。
脱力して壁にもたれ掛かり、天井をぼんやりと見上げる。
昨日、出会ったばかりの、しかも同性にどんどん惹かれて行く。
ふと向けられた優しくも儚げな笑顔に、落ちて行くのが判る。否、完全に落ちてしまっている。
天井には黒いコルを模した模様に、白い縁取り、朱の背景のモザイク画。
(──コルの意味は…“永遠”か)
果たして、この世に“永遠”なんて物があるのだろうか。
いや、“永遠”はある。自分が写真を撮り続ける限り。
切り取った一瞬は、永遠に残るはずだ。
ハリアカの、あの微笑みさえも。タプの樹の下で、子供たちに囲まれていた時に、ふとカメラに向けられた、あの笑みだけは心の中に残り続けるだろう。
(──コルには他の意味もあったな…“新しい始まり”、“力”、“平和”…)
「──そっか…」
ワイルアは一人呟く。
俺たちの関係は、まだ始まったばかりなのだ。新しく始まる、ここでの生活も。
そして、ワイルアはふと思い出す。
「──あっ‼︎」
背筋がピンッと立った。
先程より大きな叫びに、施浴室に居た者が一斉にワイルアを見る。
怪訝な顔、驚いた顔…。だがすぐに無関心に、入浴の続きに戻った。
「──すっ、すまない」
ワイルアは慌てて、バケツの中に頭を突っ込んだ。
(──…俺…金、無かったんだ)
すっかり忘れていたが、明日は都市まで出て、銀行に行かなければならなかった。
バケツ中の湯は漏れ流れ、思ったより少なくなっていた。




