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一揃いの曙光《Quantiz and Synesthesia》  作者: 弥都 史誠
第八章

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16. 絶えることの無い痛みひとひら、まだ来ぬ夜明け。④

 咄嗟に腕を引く。

 ゆっくりと向けられるハリアカのカフランギ(空色)が揺れていた。

「あの、さ。まだ、ちゃんと名前…聞いてないと思って…」

 ハリアカの腕を掴んだまま、ワイルアは頬を人差し指で掻く。

 その視線は、ハリアカとは別の方向に向いていた。

「……! あっ、ごめんなさい。私ったら…」

 動揺して、俯き視線が定まらない。

 ハリアカがワイルアと再び向き合う。

 逃げられないと判断したワイルアは、腕を離す。

「──私、ハリアカ…。この孤児院で子供たちの世話をしてる」

 上目遣いで見つめてくる瞳に、ワイルアの理性が揺らぐ。

 このまま抱き締めてしまいたい衝動を堪える。

ハリアカ(Hari a ka)…良い名前だ。俺はワイルア。駆け出しの写真家だ。よろしく」

 ワイルアは握手の手を差し伸べる。

 ハリアカは少し躊躇ためらいがちに、ワイルアの手を握った。

 ハリアカの細く冷えた指先から、体温を奪われる。それと同時に、心でさえも。

「それ、昨日聞いた」

 ハリアカがほんの少しだけ吹き出して、肩を揺らした。

「あ…そうだったな。でも、改めて」

「改めて。こちらこそ、よろしく…ワイルア」

 ワイルアの心臓が跳ねる。

 彼に、初めて面と向かって名前を呼ばれた。

 学生時代に片想いをしていた女生徒に、名を呼ばれた時と同じ感覚。

『ワイルアの写真。私、好きだなぁ』

 午後の陽光の中、写真部の展示を見ながら彼女は言った。

 彼女の言葉で写真家になると決めた。だが、告白は出来なかった。

 今では顔すら覚えていない。

 ワイルアが過去の甘酸っぱい記憶を巡らせていると、ハリアカは手を放す。

「──それじゃ、また明日。おやすみなさい」

 軽く頭を下げて、ハリアカは去って行く。

「おやすみ、ハリアカ」

 今度は月明かりと蝋燭の灯りの中、ハリアカの姿が消えるまで見送った。

 完全に彼の姿が闇に消える。

 そして先程スーツケースから取り出したタオルと小さくなった固形石鹸とシャンプーのボトル、それと着替えを持って施浴室へ向かう。

 寺院内に建てられた行き先の看板を頼りに、施浴室に辿り着いた。

 入り口には使い古された木製のバケツが二つと、手桶が三つ乱雑に置かれている。

 壁にはイラストと、現地語と共通語で入浴法が書かれていた。

 下着を着用する事。

 湯は共有の湯溜めから、バケツを使って汲んで使う事など。

  同じ国なのに、ゲストハウスと寺院での入浴法すら違う。

 看板を興味深く、まじまじと見る。

「──なるほど、ね」

 ワイルアはバケツを取ると、それに手桶と持って来た物を放り込んだ。

 下着一枚になって入室する。

 中には数人の僧らしき男が汗を流していた。

 ワイルアは遠慮がちに、壁際にバケツ以外の物を置く。

 石造りの湯溜めからバケツで湯を汲むと、壁際へと戻る。

 バケツには隙間があるらしく、ボトボトと湯が漏れ落ちた。

 他の入浴者をチラリと見ながら、同じように、床に胡座をかいて、安物の石鹸を泡立てる。

 いつものように、首から身体を洗い始める。

 ふと左腕を擦る右手が目に入る。タオルから右手を放して、泡だらけの手のひらをジッと見つめる。

「──また明日…か」

 ハリアカの白く細い指の感触が残っている。

(──細かったな…。ちゃんと食べてるのかな…)

 その割には、夕潮から逃れる為に引っ張られた手の力は強かった。

 ワイルアはその手をグッと握り締めると、頭をくしゃくしゃと掻きむしる。

「──あーーっ、もう‼︎」

 ワイルアの叫びに、近くにいた初老の男が一瞥をくべた。

 脱力して壁にもたれ掛かり、天井をぼんやりと見上げる。

 昨日、出会ったばかりの、しかも同性にどんどん惹かれて行く。

 ふと向けられた優しくも儚げな笑顔に、落ちて行くのが判る。否、完全に落ちてしまっている。

 天井には黒いコル(シダの芽)を模した模様に、白い縁取り、朱の背景のモザイク画。

(──コルの意味は…“永遠”か)

 果たして、この世に“永遠”なんて物があるのだろうか。

 いや、“永遠”はある。自分が写真を撮り続ける限り。

 切り取った一瞬は、永遠に残るはずだ。

 ハリアカの、あの微笑みさえも。タプの樹の下で、子供たちに囲まれていた時に、ふとカメラに向けられた、あの笑みだけは心の中に残り続けるだろう。

(──コルには他の意味もあったな…“新しい始まり”、“力”、“平和”…)

「──そっか…」

 ワイルアは一人呟く。

 俺たちの関係は、まだ始まったばかりなのだ。新しく始まる、ここでの生活も。

 そして、ワイルアはふと思い出す。

「──あっ‼︎」

 背筋がピンッと立った。

 先程より大きな叫びに、施浴室に居た者が一斉にワイルアを見る。

 怪訝な顔、驚いた顔…。だがすぐに無関心に、入浴の続きに戻った。

「──すっ、すまない」

 ワイルアは慌てて、バケツの中に頭を突っ込んだ。

(──…俺…金、無かったんだ)

 すっかり忘れていたが、明日は都市まで出て、銀行に行かなければならなかった。

 バケツ中の湯は漏れ流れ、思ったより少なくなっていた。

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