第四十四話 ─ 絶望の主
【前回までのあらすじ】
迎えの者・冥は、林徳を言葉で測りに来た。だが林徳は、能力に頼らず、前世の経験と村での日々だけで応じ、逆に冥の心を開いてみせた。冥は林徳に頭を下げ、主への言伝を託される。「変えられぬと知っているなら、なおさら変えられる」と。第三の印の主もまた転生者。林徳は、村という後ろ盾を胸に、絶望の主のもとへ赴く決意を固めた。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳
柳玄 第三の印の主。皇統の奥に封じられた者
冥 柳玄の腹心。迎えの者
雪麗 村の縁を結ぶ結び目役。同行者
武飛 元近衛。護衛として同行
迎えは、十日後に来た。
冥が再び村の門に立ち、言った。主が会うことを望んでおられる、と。
林徳は、供に雪麗と武飛だけを選んだ。
「大勢では行きません」林徳は皆に言った。「攻めに行くのではないからです。話をしに行く。話をしに行く者が兵を連れては、話になりません」
関明慶は、渋い顔をした。だが止めなかった。
林徳は村の門を出る前に、一度振り返った。
銭弼が、白順が、蓮が、桃と杏が、村人たちが見送っていた。
この村が、林徳の、後ろ盾だった。序章で、たった一人で放り出された少年は、もう一人ではなかった。
林徳は、北へ歩き出した。絶望の主が待つ場所へ。
道すがら、雪麗がそっと訊いた。
「怖くは、ありませんか」
「怖いです」林徳は正直に答えた。「相手は、私と同じ知る者。しかも格上だ。何を言われるか、分かりません」
「それでも、行くのですね」
「行きます」林徳は、前を見た。「向こうは、絶望している。冥殿の様子で分かりました。絶望している人を放っておけないのは、前世からの私の悪い癖です」
雪麗は小さく笑った。
「悪い癖ではありません。徳殿の、一番いいところです」
◇ ◇ ◇
その場所は、宮城のさらに奥だった。
袁派の城でも陳派の城でもない。誰も語らぬ、古い宮の、最も深い間。冥に導かれ、林徳たちは、幾つもの扉を、抜けた。
最後の扉の奥に、その人はいた。
柳玄。
歳の頃は、三十ほどに見えた。だがその目だけが、途方もなく、老いていた。何千年も、生きた者の目だった。玉座のような椅子に、深く身を沈めている。
「よく来た、林徳」柳玄は言った。声は静かで、乾いていた。「いや、何度目かの林徳」
林徳の眉が動いた。
「何度目、とは」
「座れ」柳玄は林徳に、椅子を勧めた。「長い話になる。お前が聞いたこともないような話に」
◇ ◇ ◇
柳玄は、語りはじめた。
「私は、この時代を、繰り返している」柳玄は言った。「死ぬたびに、また同じ時代の、始まりに戻る。何度も。何百度も」
林徳は、息を呑んだ。
「私も、お前と、同じだ。この世界の、外から来た者。前の世の、記憶を持つ者」柳玄は言った。「だがお前とは、違う。お前は、一度だけ、ここに来た。私は、何百度も、ここを、生きている」
「何百度も……」
「最初は、私も、足掻いた」柳玄の声が、遠くなった。「国を、変えようとした。民を、救おうとした。だが何をしても、結末は、同じだった。国は乱れ、民は死に、英雄は、滅ぶ。何度、やり直しても。何度、手を変えても」
柳玄は林徳を見た。その目に、深い疲れがあった。
「そして私は、悟った。この世界の結末は、変えられぬ。定められている。私が何をしようと、川の流れは、変わらぬ、と」
◇ ◇ ◇
「お前の村も」柳玄は言った。「私は知っている」
林徳の背が、冷たくなった。
「田家村。林徳という軍師が流民を集め、独立の地を作る。私は、その村を何度も見てきた。前の繰り返しでも、その前の繰り返しでも」
「……それは」
「そしてその村は」柳玄の声が、静かに落ちた。「毎回、滅びた。例外なく。玄朝の兵に焼かれ、あるいは、飢えで潰え、あるいは、内から、裏切られて。お前の村は、私が見てきた中で、幾度も、滅んでいる」
林徳は、言葉を失った。
嘘だ、とは、思えなかった。柳玄の目は、嘘を、ついていなかった。この男は、本当に見てきたのだ。林徳の村が、滅びる様を。何度も。
「だから林徳」柳玄は言った。「お前のしていることは、無駄だ。お前は、束の間の、幸福を、作っているだけだ。その先には、滅びしか、ない。私は、それを、知っている。お前より、ずっと深く」
◇ ◇ ◇
部屋が、静まり返った。
雪麗が、林徳を見た。武飛が、拳を握っていた。
林徳は、俯いていた。
柳玄の言葉は強かった。反論のしようがなかった。何百度も見てきた、という重み。その前では、林徳のどんな理屈も無力に思えた。
村は、滅びる。
その言葉が、林徳の胸に重く沈んだ。
徐の顔が浮かんだ。趙を庇い戦死した男。陳の顔が浮かんだ。矢を受けて倒れた男。張の顔が。別邸の門で、林徳を逃がして死んだ男。
皆、死んだ。村を守って。
柳玄の言う通りなら、彼らの死は無駄だったのか。守った村が、いずれ滅びるなら。
林徳は、目を閉じた。
そして、気づいた。
彼らは、死ぬ時、何と言ったか。
◇ ◇ ◇
林徳は、顔を、上げた。
その目に、もう迷いは、なかった。
「柳玄さま。一つ、お訊きします」林徳は言った。「あなたは、結末しか見ていない。違いますか」
「結末が、全てだ」
「いいえ」林徳は、はっきりと言った。「人は、結末のために生きているのではありません」
林徳は、立ち上がった。
「私の村で、三人の男が死にました。徐、陳、張。皆、村を守って死にました」林徳は言った。「あなたの言う通り、村はいずれ滅びるかもしれない。なら、彼らの死は無駄ですか。守ったものが消えるなら」
柳玄は、答えなかった。
「彼らは、死ぬ時、こう言いました」林徳の声が、震えた。だが止まらなかった。「『村人になれて、幸せだった』と。徐は言いました。『俺、最後まで、兄貴の手下で、いられたな』と」
林徳は、柳玄を真っ直ぐに見た。
「結末は、死でした。でも過程は──幸福だったのです」
◇ ◇ ◇
「あなたは、川の流れは変えられぬ、と言った」林徳は続けた。「その通りかもしれない。村は、滅びるかもしれない。私には、未来は見えません。私の力は、明日すら読めない半端な力です」
林徳は、自分の胸に手を当てた。
「でもだからこそ、私は、今日に、賭けられる。あなたは、結末を、知りすぎた。何百度も、見すぎた。だから今日が、見えなくなった」
柳玄の、老いた目が、わずかに揺れた。
「あなたは、繰り返せる。だから今日を、大事に、できない。どうせ、また来ると、思うから」林徳は言った。「でも私は、繰り返せない。この一日は、二度と、来ない。だから私は、この一日を、生きます。徐と、陳と、張が、生きたように」
林徳の声が、部屋に響いた。
「結末を変えに来たのではありません。私は、一日一日を変えに来たのです」
背後で、武飛が小さく息を吐いた。何かに打たれたような息だった。
雪麗は、林徳の背をじっと見ていた。この人が、なぜ村の皆に慕われるのか。今、その理由を目の前で見た気がした。
林徳は、一人で絶望と向き合っている。だが、その背には確かに、村があった。
◇ ◇ ◇
長い沈黙が、流れた。
柳玄は、椅子に身を沈めたまま、動かなかった。
やがて柳玄は、ぽつりと、言った。
「……幸せだった、と」
「はい」
「死ぬ者が、幸せだった、と」柳玄は、繰り返した。「私は、何百度も、人の死を、見てきた。だがその、死に際の言葉を──一度も、聞こうとしなかった」
柳玄の声が、初めて震えた。
「私は、結末ばかり見ていた。誰がいつ死ぬか。それしか見ていなかった。その者がどう生きたか。死ぬ前に何を思ったか。見ていなかった」
柳玄は、両手で顔を覆った。
何百年もの絶望を背負った男が。
「私は……人の一日を、一度も見ていなかったのか」
◇ ◇ ◇
林徳は、静かに柳玄に、歩み寄った。
「柳玄さま。あなたは疲れています」林徳は静かに言った。「何百度も繰り返して、結末ばかり見て。それは途方もなく、つらい旅だったでしょう」
「憐れむのか」
「いいえ。ただ分かるのです」林徳は言った。「私も、前世で、絶望していました。あなたほど、長くは、ないけれど。同じ、明日が、続く、変えられない、と思う、あの、絶望を」
林徳は、微笑んだ。
「でも私は、今、違います。村に、人が増える。竈の煙が、一筋増える。桃が、笑う。それだけで、今日が、昨日と、違う。──絶望の、反対は、希望では、ありません。絶望の反対は、今日を、生きること、です」
柳玄は、顔を、覆ったまま、動かなかった。
だがその肩が、微かに、震えていた。
◇ ◇ ◇
やがて柳玄は、顔を、上げた。
その目から、疲れが消えたわけではなかった。何百度の絶望は、一日で癒えるものではない。
だがそこには、ほんの、わずかに──何かが、灯っていた。
「林徳。お前の言葉を、私は、覚えておく」柳玄は言った。「だがすぐには、信じきれぬ。私は、あまりに、長く、絶望してきた。一度の対話で、消える絶望では、ない」
「分かっています」林徳はうなずいた。「種を蒔いただけです。芽を出すかは、あなたの心次第」
「種、か」柳玄は、薄く笑った。何百度目かで、初めての笑みだったかもしれない。「面白い男だ。何百度繰り返しても、お前のような男は初めてだ」
柳玄は、椅子から立ち上がった。
「見届けさせて、もらおう。お前の村が、この繰り返しで、本当に違う結末に、たどり着けるのか。──今度こそ、滅びぬのか」
「はい」林徳は、頭を下げた。「見ていてください。村が、どう生きるかを」
◇ ◇ ◇
林徳たちが、去った後。
柳玄は、一人、古い宮の深い間に残っていた。
冥が、傍らに控えている。
「主」冥が、静かに言った。「あの者を、どう、ご覧になりましたか」
柳玄は、答えなかった。ただ窓の外の、遠い南の空を、見ていた。
何百度も、繰り返してきた。何百度も、同じ結末を、見てきた。だからもう何も、期待しなかった。
だが今日、柳玄は、初めてあの言葉を、聞いた。
村人になれて、幸せだった。
死ぬ者の幸福。柳玄が何百度繰り返しても、一度も拾おうとしなかった小さな光。
あの男は、それを拾って生きている。
「冥」柳玄は、ぽつりと、言った。「次の繰り返しは、まだ来なくて、いい」
「主?」
「もう少しこの繰り返しを、見ていたい」柳玄は言った。「あの村が、どう、生きるのか。──久しぶりに、そう、思った」
窓の外で、風が南から吹いていた。
絶望の主の、凍りついた心に、ほんの一粒、種が落ちた。
それが、芽吹くかは、まだ誰にも、分からない。だが確かに落ちた。
◇ ◇ ◇
田家村に、林徳が帰ってきた。
門の前で、桃と杏が駆け寄ってきた。とくにいさま、おかえり、と。
林徳は、二人の頭を撫でた。
「ただいま」
雪麗が、隣で微笑んだ。
「徳殿。あなたは、また一人、救いましたね」
「救えたかは、分かりません」林徳は言った。「でも種は、蒔きました。あとは、村が、証明します。私たちが、どう生きるかで」
林徳は、村を見渡した。
竈の煙。子供の、笑い声。薪を運ぶ、村人たち。
この、当たり前の、一日が。何百度、繰り返しても、たどり着けなかった、絶望の主が、初めて見たいと、願った、一日が。
ここに、ある。
「さあ」林徳は言った。「今日を、生きましょう。二度と来ない、今日を」
村の上に、穏やかな日が差していた。
─ 第四十四話 了 ─
次回、第四十五話「村が証明するもの」




