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真っ青になって固まった私に、柔らかく語りかけるようにティオナさんの美しい声が静かに尋ねた。
「あなた……名前は何と言うの?セレーナではなくて、前世の名前」
「……リサです。樋崎リサ」
ティオナさんは私、リサについていくつか質問した。年齢も、自分の容姿も、家族のことも、私はきちんと答えることが出来た。
「あなたはリサとしての記憶はちゃんと持っているのね。ならば今から私はあなたをリサと呼ぶわ。セレーナと言われても反応できないでしょう?私のことはティオナと呼んで頂戴。どうしてもセレーナの姿でティオナさんと呼ばれるのはしっくりこないの」
「わかりました。……ティオナ」
「……えぇ、それでいいわ」
ティオナはどこかさびしそうに笑った。
すると、それまで補足以外はほとんど喋らなかったシグルードさんがそっとティオナに確認するように尋ねた。
「ティオナ、セレーナの顔が火照っているのは呪いの後遺症か?熱もあるようだが」
「それはおそらく風邪ね。雪の中に倒れていたのでしょう?いくらしっかり着こんでいたとしても身体が冷えて熱くらい出すでしょうね。長引くかもしれないからゆっくり休むといいわ。とにかく今のセレーナに必要なのは身体を休めること。そしてリサに必要なのはなるべく心穏やかに過ごすことよ。セレーナの身体を守るために呼び起こされて、あなた達夫婦の事情に巻き込まれているのだもの。混乱しているでしょう。あなたが支えてあげるのよ。
私は一度戻るわ。二人だけで話さなければならないこともあるでしょうし、セレーナの状態のことも調べてみるわ。おそらく今、眠りについたセレーナが必死に呪いと抗っているはずよ。私も少し調べてみるわ」
そう言って立ち上がったティオナはマントを纏い、玄関らしき扉に向かった。とりあえずシグルードさんと一緒に見送りする。
「ティオナ、ありがとう。送ってやれなくて申し訳ないな」
「仕方ないわ。あなたと私が一緒にいる方が互いにとってよくないもの。何かあった時は連絡して頂戴」
「あの……色々とありがとうございました」
「リサは気にしないで。巻き込んでごめんなさいね」
そう言ってティオナはまだ激しく荒れ狂う雪の中に姿を消した。
扉をゆっくりしっかり施錠して、シグルードさんが私に向き直った。
「ここは寒いから暖炉のそばに戻ろう。熱があるのだし、無理をして余計体調を崩したら心配だ」
労わるように優しい声で促してくれたので、こくんとうなずいて移動しようとしたら、シグルードさんがとても自然な動作で私の肩を抱いたので、思わずびくりとしてしまった。
「あ、……そうか、すまない」
そう言って、そっと手を離した。
シグルードさんは真面目そうな見た目だけど、外国人だけあってすごくナンパなんだ!と思った直後、思い出した。
そういえばセレーナとシグルードさんは夫婦だと言ってたっけ。夫婦としてのスキンシップだと考えれば、自然なことだったのか。
暖炉の前に座ると、私は掛け布団をかぶりなおした。シグルードさんはその様子を不思議そうに眺めてから「ちょっと待ってて」といい、キッチンの様な所でお湯を沸かし始めた。
これにも魔法が使われている。気になる!私はそわそわと首を伸ばしてその様子を眺めていた。シグルードさんの背中でほとんど見えない。
そしてシグルードさんが、ふたつの湯気が立ち上るマグカップを持って戻ってきた。
片方を受け取って、ふぅふぅと冷ましてから飲む。
温かくて身体がぽかぽかとしてきた。ほんのり甘くて柑橘系に似た香りがする。生姜湯的な何かだろうか。
「シグルードさん。これ、ありがとうございます。美味しい」
そう言ってちびちび飲むと、シグルードさんは自分のマグカップを持ったまま、私をじっと見つめていた。
あんまり見つめられているとさすがに居心地が悪くて、ちらりと様子をうかがうようにシグルードさんをみた。
シグルードさんは私が困惑しているのにすぐ気がついて、申し訳なさそうに苦笑しながら言った。
「俺のことはシグ……いや、シグルードと呼んでくれ」
「はい、わかりました。私のこともリサでお願いします」
「ではリサ。質問やわからないことがあったら可能な限り答えるが、何か聞いておきたいこととかあるか?」
そう言われて、私は少し考えた後、一番気になっていたことを尋ねた。
「あの、私と……いえ、セレーナとシグルードは夫婦だとティオナさんが言ってたのって……」
「本当だ。結婚してまだ一年も経っていないな。新婚早々に重大な任務に巻き込まれて、愛する君を……いや、セレーナをここに閉じ込めてしまった」
それが私ではないとわかっていても、私の身体の持ち主にてらいなく「愛する君」と言えるシグルードに、どきどきしてしまった。
「……私はこれから、どうすればいいですか?」
「基本的には可能な限り外に出ないでほしい。必要なものはすべて俺が揃えよう。君は……セレーナの存在は狙われている」
「そんなに危険な任務なんですか?妻が人質に取られたりするほどに?」
シグルードは一体何をしているんだろう。
シグルードは少し考えてから、ゆっくりと話しだした。
「簡単に説明すれば、次代の王の座を巡り、二人の王子とその派閥が対立しているんだ。俺はその片方の派閥に所属し、王子の側近として、中核を担っている」
その中で、現在シグルードに課せられている密命が現在均衡を保っている派閥を大きく動かすかもしれないということで、相手側に執拗に狙われているらしい。それ以上詳しい内容は教えてもらえなかった。まぁ何やら重要な任務を任せられ、それを知っているかもしれないセレーナも、情報源兼人質として狙われていると言うことだけ理解しておけば大丈夫だろう。
「あの……素朴な疑問なんですけど、それなら私ってもっと厳重に守られたりしないんですか?いくら私……というかセレーナが自衛出来る人だったとしても、もっと保護してもらうこととかも出来ると思うんですけど」
「リサの言う通りだな。本来なら私の実家で守られるのが一番いいのかもしれない。だが、そう言うわけにもいかない事情があるんだ」
「事情?」
「君は……セレーナは、もともと俺の仕える王子と対立する王子の派閥に組みする家の者だったんだ」
そこからシグルードが説明してくれたことを要約すると、セレーナはシグルードの家とは対立する派閥に属していた下級貴族の家柄で、同時期に勉学と社交性を学ぶために貴族院に通い、そこで二人は偶然出逢い、互いに惹かれあい、周囲の反対を押し切って、セレーナが家との縁をほとんど切る形で結婚したそうだ。
家とは縁を切ったとはいえ、対立派閥から嫁いできた下級貴族のセレーナを、シグルードの両親や周囲の者達は快く思っていないらしい。
シグルードの家が上級貴族であるため、表立ってはシグルードの権力で不満を抑えつけているのだが、シグルードの両親があからさまにセレーナをないがしろにしていたり、無理やり抑えつけた不満のせいでやり場を失くした怒りがすべてセレーナへと牙を向き、セレーナには現在まともな味方がシグルード以外存在しないらしいのだ。
ロミオとジュリエットでシンデレラストーリーしたけど、めでたしめでたしするには何とかしなければいけない事情が多すぎるようだ。……我ながら酷いまとめ方だと思った。
「でも、ティオナがいるんじゃないですか?すごく心配して、泣いてくれたぐらいだし……」
彼女の手が私の体調を案じながら、そっと優しく触れたのを思い出す。あの涙が、演技でしたと言われたらちょっと人を信じられなくなりそうだ。
私がティオナの様子を思い出しながら言うと、シグルードが辛そうな表情で告げた。
「彼女はセレーナの幼馴染で親友だ。ある意味俺以上にセレーナのことをよく知り、家族に次いで付き合いの長い人物だ。しかし、彼女の立場がそれを許さない……」
「立場?」
「ティオナは対立派閥の家柄だ。セレーナは互いの立場を慮って、親友の彼女とも結婚後は連絡をほとんど控えていた」
そういえばセレーナはシグルードと敵対関係の派閥なのだ。彼女と幼馴染で親友なら当然同じ派閥になるだろう。
「派閥で付き合う人間が限定されたり阻まれたり、貴族って大変ですね」
「現状最もその大変さを味わっているだろうセレーナの姿で、他人事のように言われると不思議な気分になるな」
シグルードはちょっと笑いながら言った。でもごめんなさい。割と本当に他人事のように感じてます。
とりあえずセレーナは味方がシグルードしかいない状況にあって、そのシグルードの仕事関係で狙われていて、この家に隠れ住んでいるらしいということだけ把握しておけば大丈夫だろうか。
まぁ余計な手間が増えるくらいなら、ここに軟禁状態でも構わない。外は寒そうだし、ここにいればめんどくさそうなしがらみもなさそうだ。
とりあえず体のだるさもまだおさまらないので、今日は眠ることにした。
シグルードにそっと支えられて、ベッドまで連れて行ってもらった。
「おやすみ、リサ」
「あ、えと、おやすみなさいシグルード」
おやすみなさいと言葉を交わすのが久々の様な気がして、なんだかくすぐったかった。
ひとりでベッドに入ると雪の音だけが窓の外から聞こえ、世界から孤立しているのがよくわかった。
「私……死んでるのかぁ」
シグルード達から説明を受けてから、努めて考えないようにしていたことだ。
だって、今私は生きているのだから。別人の体に入っているけれど、思考し、動き、飲み物だって口にした。これで自分が死んでいると言われてもまるで実感がなかった。
なので私はこの現状を、夢だと考えるようにした。
病弱で寝たきり生活を繰り返し、病院のベッドからほとんど動けなかった私が見ている夢なのだ。
今の私は美しく健康な身体を持った女性で、そばにはシグルードもいる。私にとってはささやかな自由を満喫する時間であり、シグルード達にとってはセレーナの身体を私が守っていることになるのだ。
どれほどの時間夢を見られるのかわからないが、この時間を楽しんでみよう。そう思うことにした。
眠るのは怖い。この瞼がもう一度開かれることなく終わる瞬間を、私は知っている。手は震え、歯はがちがちとかみ合わなかった。寒いな……。
これは夢。覚めない夢。大丈夫。私はまだ夢の中にいる……。
そう自分に言い聞かせて目を閉じた。睡魔はすぐにやってきた。どうやら、私は自分が思っていた以上に混乱し、動揺し、とても疲れていたようだ。
いつの間にか震えはとまり、うつらうつらと意識がゆっくり沈み、私は静かに眠りについた。
後になってから、この家には大きなベッドがひとつしかなかったのにシグルードは一体どこで寝たのかと考えて、居候気分の私は気づくことが出来なかったことにちょっとへこんだ。