009
俺達はアレスさんの足元を隠すように並んでエレベーターを降りると、カメラを空に向ける人たちの群れからコソコソ隠れるように東京タワーを後にした。
霊子の光が消えた後も暖かい光を緩やかに夜空へ放つ塔から公園に退避する間も、女の子がアレスさんから離れることはなかった。
路上に出て人影がまばらになるとすぐに走り出した俺たちと違って、彼女は足を動かさずにそれでもぴったりと寄り添って付いて来た。
「完っ璧に憑いちゃってるんだけど、あんたなにかやったわけ?」
道路に囲まれているものの人の影すら見当たらない公園に俺たちは逃げ込んで、改めて彼女を見た。
「何もしていない!ただ、呼ばれた気がして振り返ったら彼女がいたんだ。しかし、幽霊なら見える者にしか見えないのだから心配するほどの事だろうか」
「いやー私にもはっきり見えてますからねぇ。ちょっとでも霊感ある人には見えますよコレ」
普通に見える俺はともかくルイさんが驚いてたから、そうじゃないかとは思ったけどやっぱり見えてたんだ。
怨霊やら自身の所在をアピールしてくるタイプの連中ならいざ知らず、普通の霊は通常なら見ようとしない限りほとんど見えない。しかしアレスさんの体を作っている濃い霊子態が投影機のように働いてでもいるのか、この子の霊子の輪郭を濃く映してしまっているんだ。
そして、日本は霊感を持っていない人間のほうが少ない国である。
「ぱっと見、幼女誘拐の外人にしか見えないから。今のアンタ」
「まっ!待ちたまえ!私は誘拐などしていない!ましてや少女をかどわかすなど考えたこともない!名誉毀損もいいところではないか?」
「だからー!見た目が問題だっての!体裁悪すぎだろ」
無表情な女の子と俺を何度も見ながら、やっとアレスさんにも慌てて撤退した理由が飲み込めたようだった。
とはいえ、灯りも無いような公園の暗がりで幼女を囲む成人男子三名ってのも、見られたら通報待ったなしである。説明すれば判ってはもらえるとは思うけど、職務質問されてもほんと文句は言えない。
アレスさんに掴まる少女に目線を合わせようと、しゃがむおっさんと俺の図もはたから見たらかなりおかしいとは思うが仕方ない。
「んーーーーー。浮遊霊には変わりないみたいなんだけどなぁ。上がらないほど執着痕も無いし。どう思う?忍ちゃん」
「今の状態じゃなんも分からないかなぁ。でも、多分死んでからちょっと経ってるっぽいかも」
死んでから間もなければ生前の感情が霊子にわずかに残るけど、この子からはなんの感情も見られなかった。ただ、頑なにアレスさんのジーンズをぎゅっと握ってうつむいて立っている。
「とにかくアレスさんに憑いたままだと、俺達まとめて職質案件だから俺に移します」
人間である俺に憑ければ霊子の出力はかなり下がるから、少なくとも見た目の問題は解決するから話はそれからだよな。
「そんなことできるのかい?」
「まぁね。さてと」
俺は昔から霊力は強いんだが、ある一点以外をのぞいてたいしたことが出来るわけじゃない。
それはどんなに恨んで強固に取り付いた悪霊でも、会えば俺に取り憑き変えてしまうこと。そんなだからついた最初のあだ名が「悪霊系バキューム」。普通の幽霊には効き目は弱いけど、こっちから誘って取り付かなかった霊はいなかった。
早速、彼女とアクセスするために呼吸を低く整える。取り憑きやすいように自分の霊体の境をゆるめ、霊子の流れを緩やかに低く霊核を守る霊子体すらゆるく解くと、アレスさんの足をしっかりと握った小さい手にそっと触ろうと手を伸ばす。
わずかに冷ややかな霊の外皮を手に感じる。そのままそっと手を握るように触った感触はなぜか硬い布の感触だった。
彼女の手に触るはずだった俺の手はアレスさんの足を触っていた。
「へ?」
「シノブ…反対に」
気がつくと彼女はしっかりとアレスさんには掴まったまま反対に移動していた。
「…俺が拒絶されただと?」
ちょっとショックだった。
死霊に好かれて10数年、嫌がっても逃げても憑かれた事はあったが霊に拒絶されたのは初めてだった。
「忍ちゃん、レディの扱いになれてないから」
「おっさんはうるさい!」
ぷっと吹き出しさっそくまぜっかえすおっさんを睨む。ぐぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ。
俺は一生懸命湧き上がる焦りやむかつきを目を閉じて精一杯抑えて作戦を変える。スーハースーハーと深呼吸を繰り返しとにかく呼吸を落ち着かせよう。
「……こんばんわ」
言霊にさらに霊子をのせて誘い水の言葉、つまりこっちにもいいのがいるぜアピールをする。
言葉は何でもいいんだ、こっちの存在を彼女が見てさえくれれば取り込んだも同然だ。しかし、彼女はぷいと顔を背けて今度は明確に俺を拒絶した。
なんで?きっと隣で早速笑いが漏れているじじいがうるさいせいだ!うん。きっとそうだ。
「お兄ちゃんは怖くないよ」
今度はそっと手を差し伸べてみた。自分で言うのもなんだがうさんくせぇぇぇ。だが、今までここまでして俺を見なかった霊はいなかったんだ。しかし彼女は今度はアレスさんの後ろに隠れてしまう。
差し出した俺の手もプルプルと震えるってもんだ。完全拒絶とか初めてじゃねぇか。
「もうだっめ!あはははははは」
「きっ、嫌われてしまった、ようだね…くっ」
「だぁぁぁ!おっさんやかましいんだよ!!アレスさんも便乗して笑うなっっっ!!」
昼行灯系の吸血鬼のくせに生意気なんだよ!こちとら死霊に関してだけはプロだっちゅーーーの!
「死霊にまで手ぇひろげんなよ吸血鬼の癖に!生きた人間でもこましてろっつの!ほんと腹立つわぁ」
「それっていいのかい?」
「いや失言。すんな。つか、いいかげん笑うのやめろ」
霊体に関してだけだったら精霊体族にあたるアレスさんの方が、力にせよアビリティにせよ強いのくらい俺にだってわかってる。
が、こっちにも死霊と言えば俺みたいに言われて育った、ささやかなプライドみたいなものがあるわけで正直面白くないものは面白くない。
「すまない、ルイに釣られて…つ、つい…」
一生懸命笑いをこらえられてるのがまた屈辱。これだから闇の生態系はよぅと思わなくもないが、コレもまた何か原因があるはずだ。結局俺は触れないままじとーっと探るように彼女の来歴を読もうと見つめた。
「あ、もしかしたらなんだが、君だから嫌がられたのではないだろうか」
「聞き捨てならないんだけど、喧嘩売ってんのかあんた」
「違うよ。先ほどのタワーで魂を天に召す儀式を行っただろう?それを拒んで私にしがみついているんだ。上がりたくないから仲間らしき君に触ると昇天させられると感じているのではないかな」
「あ、確かに俺も神社の人間ちゃそうだ」
それなら話は分かる。確かにタワーでやってたのは強制昇天ではないから、上がりたくても上がれない霊の後押しは拒もうと思えば拒める。だけど拒むほどの強い執着を彼女から感じないのも確かなんだ。
「だったらなんで」
「しょうがないなぁ。おじさんがちょっとだけ手伝おうか。幸い、精霊体族の王たる存在の吸血鬼と幽霊のプロと霊体のプロが揃っているわけだし、理由が分かれば忍ちゃん何とかしてあげられるでしょ?」
「うん多分。触らせてもらわないと履歴も読めないしルイさんよろしく」
「はいはい。それじゃあお嬢さん、ちょっと触らせて貰いますよ」
くっ、ルイさんにはあっさりと手を触らせてるのが悔しいところだが仕方ない。俺はルイさんの肩に手を置いて目を閉じて、ルイさんの体越しに彼女の霊体が持っている記憶にもぐることにした。
閉じた目の裏に白い霧が見える。霧を掻き分けるように探ると断片化した映像がちらちらと見え始めた。
赤いランドセル、違う顔の女の子は友達か、壁の上に椿の花、集中すると何か音が聞こえてきた。違う。音じゃない、これは声だ。女の人の優しい声。そして電信柱が見えるなり、もやっていた霧ごとミキサーにかけられたみたいにグルグルと激しく回転して視界は真っ暗闇になった。 その真ん中に小さくなった魂の塊が見える、それはきっと彼女の魂なのだろう。うずくまって身動きが取れないようにも見えた。
「で、どうだい?おじさんとしては多分「ひも付き」じゃないかなと思うんだけど」
「俺もそう思う。多分、突発死か何かで自分が死んだって理解できてないのと、多分お母さんが力持ちなんじゃないかな」
「ひもつき?」
「霊と縁のある生者が霊を現世に引き止めて昇天しない状態の事をそう言ってるんだ。ただ、おっさんみたいに自分のそばに引き留めておける技術なんて普通は持ってないから、上がれずに、かと言って死んだ自覚もないから死んだ場所から浮遊しちゃったんだと思う」
ルイさんは死霊使いだ。見えるほど霊子体の濃い霊なら手元に置き続ける技術を一族上げて磨き続けてきているんだ出来て当たり前だ。
だけど、普通の日本人は年とともに霊力の出力が下がるし、見なくて済むならその方が生活しやすいから見える力が真っ先に衰える。だが、見れないからといって力がなくなったわけじゃないんだ。だから所属を義務付けられるには低いが、一般と呼ぶには少々力の出力が高い人ってのはよくいる。
そして上がれない魂にも幾つか条件がある。
死に際して何らかの執着から自身が現世に強い未練を持つ場合、本人に死んだ自覚がない場合、力を持つ縁者が行かせたくないと執着した場合。後者の二つは大抵セットで発現してしまう。
「彼女小さいもんね。あきらめきれない気持ちはわかるなぁ」
「でも、このままじゃいつかは擦り切れて上がることも出来なくなって消滅しちまうじゃん。その方がかわいそうだよ」
それは死んだ彼女にとっても、生きているはずの彼女の家族にとっても悲しいことだと思う。
「なぁ、シノブ。彼女は自分の力では姿かたちを維持出来なくなっているのではないだろうか」
「あーー。それ当たりかも。でもアレスさんにくっついてりゃ消耗もしないし便乗できるしそれだよそれ」
「修行不足が原因じゃなくって良かったねーぶっちゃん。で、どーするの?」
「どうするもこうするもないよ、ひもの持ち主に納得してもらって、死んだ自覚させるのかわいそうだけどさ、してもらってちゃんと上がってもらうしかないじゃん」
とか言ったものの俺ははたと気がついてしまった。
山に持ち込まれた案件を片付けたことはそれこそ星の数ほど在れど、俺って外で見つけた霊を送っていった事なんてない。
しかも状態からすると三年は確実にたっている霊だ。
突然たずねていったらそれこそ不審者だし、相手が見えない人だったら絶対に気分悪いはずだ。
「私はどうしたらいいだろうかシノブ」
「殿下じゃねぇアレスさんさぁ。悪いんだけど力貸してくんないかなぁ」
しゃがみこんで俯く女の子の頭を撫でながらのんびり聞いたアレスさんに俺は拍手を打つ勢いで両手を合わせて頼み込んだ。
「この状態じゃあんた連れてかないとこの子も動けないだろうし、あんた人の心を掌握して何たらって言ってたじゃん!お願いだから手を貸して欲しい。時間取らせる分なんかで御礼はするからさ」
「私がかい?」
「殿下。私からもお頼みいたしますよ。終わりましたら今日の夕飯もお気に召しそうなところへご案内いたしますから」
びっくりして俺とルイさんを交互にぽかんと見たあとでアレスさんはふっと嬉しそうに笑ってくれた。
「私の手で良いのなら」
よっしゃ、チートケットだ、あんたやっぱいい人だな。俺は心の中でガッツポーズをとりつつ何度も頭を下げた。
「さて、そうと決まったら所在地を割り出さないと。地図があるから車に戻りましょう。ぶっちゃんダウンジングよろしくね」
「この子と地図があれば大まかな所在地くらいだったらわかると思う。時間も遅いし急ごう」
俺たちは塔に向かう人に逆行して駐車場へと急いだのだった。
「本当に事故現場じゃなくていいんだね?」
「うん。そっちより学校からのほうがちゃんと家を辿れると思うんだ」
ダウンジングで見つけた区域の地名で、ルイさんが事故の情報を思い出してくれたおかけで23区を九時前に出ることが出来た。
俺とアレスさんの間にちょこんと座った彼女の手をようやく触らせてもらった俺は、そこから彼女の生前のテリトリー範囲の情報を読み取りながら慎重にそう答える。
「本当に断片しか残っていないんだね」
「恨みでも抱えてるか、対策でもしてなきゃ、3年も過ぎた浮遊霊だったらこんなもんだよ。これだけ見えればまだ上等」
記憶の断片を探す俺を覗いているのか、アレスさんは同じ物を見ているらしい。吸血鬼の癖に意外に器用だ。
今の彼女の霊子体の表層に残る記憶はかなりおぼろげで、呼びかけに反応することも出来ない状態だった。事故の発生した時期と照らし合わせるとやはり三年はたっていると見たほうがいい。
それは特別な理由で留まっていない霊なら自然崩壊が始まっていても不思議じゃない時間だった。
ルイさんが検索してくれた事故は交差点で起きたトラック同士の事故で、片方のトラックの積荷が崩れ何人かが犠牲になった。
ニュースでも大きく取り上げられたものらしいが、即死だったとしたらそこにはこの子は何の痕跡も残せていないだろうし、死に気がつかずに家に帰ろうともがいたのが浮遊の理由かもしれない。
だったら関連のある生活圏だった場所の方が思い出す可能性は大きいんだ。
まぁ思い出して貰えないと他人である俺には彼女の帰るべき場所は見つけられない。そうなると普通に上げるしかないけど、それはそれであんまり好きじゃなかったりするんだよね。
「記憶が動いた。ルイさんごめん一度止まれる?」
大通りから路地に入るなり記憶の断片が少し増えた気がして車を止めてもらった。窓から当たりを見回すと、ブロックの低い境の向こうにライトを照りかえる椿の葉。
暗い路地を隠すように視界がスクリーンに遮られ、映され始めたのは彼女の記録。
見上げればきれいな青空、肩越しに見上げる赤い花、重いランドセルの揺れる音、スクールゾーンの文字をなぞるように歩く小さな足の群れと、揺れるつないだ手。
これは登下校の記録だ。彼女の記憶と、彼女が通ることで路上に記録されていた思念の残渣が合わさることで見える在りし日の彼女だ。
「掴まえた。ルイさんまっすぐ進んで、出来ればゆっくり。スクールゾーンのマーク出たら…左折だ」
そこからは迷うこともなく俺たちは一つのマンションの前に立っていた。
「そんじゃ改めて聞くけどさ、どの程度まで人の行動って操れんの?」
「常用していたわけじゃないからはっきりとは言えないが、相手が「嫌だ」と思うラインでなければ出来るはずだよ」
アレスさんと俺の間で手をつながれたままキョロキョロし始めた彼女の手を一度離す。
玄関からエントランスを覗くと内ドアのあるセキュリティタイプのマンションで、内ドアは透明なガラスで出来ていた。
これならなんと出来そうだ。俺はちょっとだけほっとする。
「じゃあ俺、ちょっと下準備するから終わったら、この子の家族呼び出して。下に下りてきてもらうだけなんだけど出来そう?」
「それくらいなら出来るから安心したまえ」
「んじゃーついてきて。部屋特定するから」
出迎えの車を装って待ってるルイさんに一度手を振って、俺たちは明るいエントランスへと入る。
早速、ここでの彼女の記録を探る。エントランス右に並ぶポストの前に進むと、それまで何の反応もなかった彼女が一つのポストに手を伸ばした。
記録から見える光景は彼女の手がポストに赤い花が描かれたカードを入れていた。
エントランスに戻り扉前のロックキーボードに手を置くと、抱きかかえた腕と小さな指先が押すボタンが見える。
「302号だ。じゃあ準備するからアレスさんちょっと離れてて」
俺は手に持っていたペットボトルを開けて少しだけ水を右手に乗せる。ボトルを下に置くと手の中の水を内ドアのガラスに向かって投げた。
水が落ちる前に右手の人差し指を基点に大きく腕を振ってドアの前で円を描く。落ちるはずの水は円の中に収められ、ごく薄い水の丸窓がドアの前に出来た。
「おぉ!何をしたらそうなるんだい?」
「え?ああ、鏡坐式水鏡だよ。結界の一種で見えない人でもコレを通せば確実に霊が見えるようになんのさ」
「なるほど。良く判らないがすごいのはわかるよ」
祈祷も無しに出来る俺の数少ない特技の一つだ。出来るようになるまでやらされたが正しいが、アレスさんが素直に感心してくれてるのをいいことに、いかにも普通でしょみたいに言ってみた。
「問題はここからなんだよ。いつもは判ってて山に来る人だから事情の説明も要らないけど、彼女の家族は事情なんて知らないから「コレ」の前に立って貰うにはちょいと悩むわけさ」
「それで私に面倒くさいから操って連れて来て欲しいと言う訳だね」
「面倒くさいなんて言ってないっつの。人材の有効活用って言ってくんない?」
「そうとも言うね。では私も」
エントランス内の空気がふいに濃くなる。アレスさんが吸血鬼のテリトリーを広げ始めたんだ。
まぁテリトリーに入れられたことは何度もあるので俺には効きはしないが、確かテリトリー内に取り込んだ人間は半睡眠状態に心がなって操りやすい状態になるはずだった。
「あっ、君は大丈夫かい?そこだけ外す様なマネはちょっと出来ないんだが」
あわててアレスさんが俺に聞く。テリトリー内に俺もいるって気がついてなかったんかい。
「慣れてるから平気。302号の人を一人降ろして」
俺たち風に言うなら空港でやった霊子体の拡張が一番近いのかな。
まぁ肉体もちの俺たちと違って体そのものが精霊体で構成されてる彼らは、体の構成を解いて広がった分すべてを体の一部扱いに出来る。
コレをテリトリー範囲と言ってその中に取り込んだ人間の魂に、結構なご無体を働けるようになってしまうものらしい。
もっともよっぽど濃い精霊体でなければそんなことしたら体自体が無くなってしまうが、吸血鬼ってやつのテリトリーは捕食目的で進化した技なので多少のサイズでは疲れもしないんだ。
あっという間にテリトリーがマンションを覆った気配がした。
「判ってると思うけどさ」
「大丈夫。君の邪魔をする気はないし、悪さをする気もないよ。この子だって早く帰してあげたいしね」
この人本当に吸血鬼なんだろか。サラサラ音のしそうなさわやかな笑顔で、繋いでないほうの手でそっと彼女の頭なんか撫でてるのを微妙な気分で見ていると、アレスさんが部屋番号を押して呼び鈴を鳴らした。
『…はい』
スピーカーからは男の声が短く返事を返した瞬間、テリトリー濃度がさらに濃くなった。
「下に降りてきなさい」
『………はい』
捕まえられたのだろう。最初の返事より幾分抑揚のない声がそう答えた。
「あれで降りてくるはずだよ。テリトリーは解くから後は任せたよ」
「じゃあ、鏡の真ん中当たりに立っててくんないですか。降りてきた人がこの子を良く見えるように」
言われるまでもなくドアの中心線に彼女を立たせてアレスさんは寄り添った。俺はそれを邪魔しないように管理人窓口前でその人を待つ。
エレベーターが動く音が静かに聞こえる。やっべえ緊張してきた。
ドアの開くかすかな音と同時に人影が現れる。30代後半位かな、疲れた顔のおっさんがエレベーターホールからゆっくりと姿を表すと、俯いたままだった彼女が顔を上げた。
おっさんは足を止めて不思議そうな顔で、待ち構えるようにエントランスに立つアレスさんを見ていぶかしげに眉をひそめたがそれでも歩いて扉まで来た。
いい位置だ。
アレスさんを見る。下がった視線が驚きに見開かれて息を呑んだあと、開きかけたガラスのドアを両手で無理やりこじ開けるように彼はエントランスへと飛び出してきた。
ドア前に設置した水鏡が走り出した彼の体に弾けて落ちる。すると彼は足を止めて泣きそうな顔でエントランス中を何か探すようにグルグルと見た。
弾けた水鏡は破れて消えれば役目を終えるんだ。
「なぁ!あんたっ、いまここに」
当然、見えていた物は見えなくなってしまう。彼はすがりつくようにアレスさんの肩を掴んだ。
「失礼いたします」
大きな声でそう横から声をかけると、すごい形相でこっちをにらむから一瞬ひるむが焦りは腹にしまって俺はゆっくりとお辞儀をした。
「三幣の山から参りました」
これは山が指名した生贄を迎えに行く時にする最初の挨拶だ。
今となっては10年一昔のセリフだが男の顔が焦りから恐怖に変わる。ビビらしてごめんなさいよとか思いつつ、黙らすには有効なんだからしょうがない。
「但しお迎えではありません。縁あってお嬢さんのお見送りに参りました」
右手を差し出しながらおっさんの霊子体を読んで、俺は右手周りの霊子体を調整する。信じて繋がってくれたなら水鏡なんて無くても彼女の姿を見せてあげることが出来る。
「あなたが今見たものを信じてくれるなら俺、いや私の手に触ってもらえませんか?」
「あんたが山の使いだって証拠はあるのか」
「触ればそれも判ります。名刺やどんな証拠より一番それが確かだから」
恐れなのか魂を守るように体の表皮ギリギリまで縮んだ霊子体に、恐る恐る伸びた手の先から接触する。
同期を開始した俺の差し出していた手に、おっさんの伸ばした指先がちょっとだけ触れたのに合わせて閉じている霊視界に俺の見えているものを直接映す。
これでこの人にも彼女が見えるようになったはずだ。
成功したのはアレスさんの足元、彼女を見る目が見開いているから良くわかった。
そして繋がってわかったこともある。
彼女を繋ぎとめているのは強い生霊子の糸、この人のも混ざっているが本糸はやはりお母さんだ。強くも弱くもならない微妙な力がこの人たちの未練に力を貸してしまっている。
「まや……まやっ」
まやちゃんって言うのか。名前を口にされるなり彼女の白い顔が微笑んだ。それでおっさんは抱きしめようとひざをついたけど、もう俺から離れても見えるが霊は霊のままなので触ることは出来ない。
霊に触れられるのは同じ霊か、濃い力を持つ霊子体だけだ。
なんどやってもすり抜ける腕に泣き出してしまった背中をさすって俺は静かに声をかけた。
「彼女は私たちに救いを求めました。だからここまで来ました。家までお連れしてもいいですか?」
「……はい」
もうお父さんは疑うこともせずに深く頭を俺たちにさげた。