010
ずらっと扉の並ぶマンションの廊下までくると彼女はアレスさんから離れてある扉まで走っていき、ドアノブに手をかけるがすり抜けて困った顔で俺たちを見る。
本当なら霊なんだからすり抜けて入っていけるが、それもわからないままで今日まで来ちゃったんだなぁ。現場の祈祷ちゃんとやってなかったのか、祈祷式の前には動いてたのか、いずれにせよ何とかしてくれる人と俺たちを認識してくれたのは良い事だ。
「おかえり」
お父さんがそっと開けると彼女は喜んで中へと入っていった。
「誰だったの?」
すると女の人の声が聞こえた。
声は発する霊子みたいなもので、何気ない一言でもまやちゃんに結ばれた霊子を認識した俺には主成分がこの人だと認識が出来たんだけど。これ。執着が収まりかけてら。
生きている人間は魂も霊子も日々、変化していて霊のように固定されたりはしない。
執着が薄れ穏やかに彼女の死を受け止めてんなら刺激することは本気でない。つーかいいことない。
「マジかよ」
「なにか?」
「どうぞ入ってください」
そう丁寧に促され俺は腹をくくった。
可愛い花柄のノレンを触ろうとぴょんぴょん飛び跳ねるまやちゃんの横から顔を出した女の人と顔が合うなり怪訝な顔をされた。
「どちら様?」
そら家族がいきなり見たことも無い男と外人連れて帰ってきたらそうなるわな。
お父さんがなにか言って混乱する前にあわてて俺は頭を下げる。そのついでに接触していた霊子を逆送して直接お母さんの霊子体に触れる。
「こんばんわ。あのー、その子を連れてきた者です」
「はぁ?なにを言って」
そう言いかけて頭上で風も無いのにゆれた暖簾を見上げてふと横を向いた。
そこにはちょこんと座った彼女が嬉しそうにお母さんを見ている。それはお母さんにも見えているはず。
「どういうこと…」
意外にも冷静に彼女は俺を睨んだ。
とりあえず二人して中へ入れてもらう。
「ご覧いただいた通り彼女に救いを求められたのでお連れしたんです。現場は祈祷式されてると思うんですが、彼女に自身に死んだ自覚がありません。そのせいで浮遊して東京タワーまで流されていたようです」
その間もお母さんの顔は固くしきりにお父さんを伺っていたんだけど、もしかしたらこの子が上がっていないのに薄々、気が付いていたのかも知れないな。
「私のせい?」
お父さんとお母さんの間に座ってニコニコと両方を忙しなく見続ける彼女を、撫でられないと判って上げかけた手を膝に戻した彼女が泣きそうにぽつりとそんなことを言うからあわてて首を横に振った。
「違います」
それは半分位は本当で嘘だ。
家族を亡くして未練は捨てろなんて誰が言えるだろう。その情が嬉しいと感じる場所がまやちゃんの霊のどこかにあったからこそ、さ迷っているだけで済んだんだ。
綺麗なまま擦り切れるなんて、地霊や怨霊に吸着されて消えるより難しい事なんじゃないかと思うから全力で否定した。
「死んだと認知できずに現世に残ってしまうことはままあります。あの、お母さん霊能講習はどこまで受けられましたか?」
だけど俺のその一言で彼女は怯んだように俺を見てお父さんを見る。
「三段階…です」
「お前そんなに力あったのか」
「もう昔よ。今は落としてもらったからほとんど見えないし」
「三段階って?」
「三段階ってのは組織に所属を義務づけされる一歩手前で、任意で霊力を塞いで一般人として生きるのを選択可能なレベルの霊能力のこと。知りたきゃ後で説明するから静かにしてて」
こそこそと聞いてくるアレスさんに、小声で教えてやったけどコレは日本人じゃないとわかんないだろうなぁ。なんか判ったように頷いてるけど、ここまでくると傍観者以外の何者でもないので静かにしててもらうよう頼んだ。
「話を戻しますが、塞いでも力が消えたわけじゃありません。だから無意識にお嬢さんに繋がっていたのはたしかに事実です。だけど汚れる事で残ってしまった怨霊に汚されずにさ迷っていられたのも繋がっていられたからです」
「でもそのせいでこの子は上がることも出来ずに居たんでしょう」
「否定はしないけど全部じゃありません。この子帰る途中だったんでしょう?見えたけど何かすごく楽しみなことがあったみたいでした。一瞬で死んでいたようだし、そっちの未練がこの子に強く残っていました。それが判れば今からだって彼女はきちんと上がります。」
本当のことを言えば三段階レベルならもう一度、力を開いて修行すればルイさんみたいに霊を留めておけるようになれるかもしれない。
だけどそれよりもこの家族には納得して上げる方が良い様な気がした。三年は短いようで長いんだ。
しおれた花みたいに俯いて彼女は撫でても触れないまやちゃんの頭当たりをそっと撫でた。
「……この子何処にいたんでしたっけ?」
しばらくしてポツンとつぶやくようにそう聞かれた。
「東京タワーです」
「……そんな遠くまで行ってたのね。一人で勝手に行っちゃだめっていつも言ってたのに。お迎えいけなくてごめんね、お母さんのせいで一人にしてごめんね」
しだいに涙混じりになる声に見守るばかりだったお父さんまで俯いてしまう。
「私が行かないように祈ったから、上がらなくっていいって祈ったから、私が」
覚悟の無い状態で対面なんてやっぱり修羅場になるしかないのかな。
それでも始めてしまった以上、終わらせる義務がある。俺は揺れ始めた彼女の心を静めるために、俺自身の感情を殺して言葉を遮った。
「お母さん、感情的になるのやめましょう。原因はそれだけじゃないです。祈っただけで留められるなら苦労はしない。そうでしょう?」
収まりかけていた執着の火種に着火するより早く、俺は泣きそうなお母さんに重ねて聞いた。
「それでどうします?空に送らずに魂を定着させることを望みますか?」
そう言うと、彼女は一瞬驚いたように俺を見て目をそらした。
それを実現するには彼女に力が足りなかったのは判っているみたいだったから、これは一種の賭けだ。
もっとも定着させたとしても今の彼女の力のレベルでは、共に在り、共に逝くのは結構難しいと思う。
死ぬまで修行し続けて死者に寄り添い共に同じ道を行くことになる。
繋ぎとめる事もそうだけど、留められても連れて行けなければ彼らが死んで空に行く時、彼女は現世にとり残されて消えるだろう。
知ってても願ってしまう気持ちもわかるし、それが間違いだったんじゃって後悔するのもわかるから、俺はそっともうひとつの選択を並べる。
「それとも見送ることを望みますか?」
「…まや」
一時的に存在を濃くしてるとは言え普通の霊だから、まやちゃんと会話を交わすなんてもちろん出来ない。
それでも話しかけずにはいられないんだろうな。泣かれるのは正直キツイし困るんだけどなぁ。 それでも待つしか出来ない重苦しい空気の中待っていると、先に顔を上げたのはお父さんのほうだった。
「空に行くのは眠る為だってよく言うだろ?きちんと眠ってこの子の気が向いた時には家に帰ってこれるようにしてやらないか?いつも一緒じゃなくたって消えるわけじゃない。そうだろう?」
お母さんをしっかりと見てそう言った。でもこれは死んだ直後だったらきっと出てこないセリフだったと思う。
ようやく小さく頷いたお母さんが顔を上げる。
「この子をどうすれば休ませてあげられますか?」
ぐっとのどを詰まらせながら、それでもそう言ってくれてよかった。
わかっているからこそ出来る事、出来ない事ってあるし、どっちを選んだって正解も不正解も無いんだよね。
だったら俺は霊が安らかに居られる方を選んで欲しいと思うタイプだから、そっちに話が流れるのは嬉しかった。
「まやちゃんは未練にしていることがあるようでした。それを満たして死を教えてあげれば」
彼女の記憶を探っていて一番印象深かったのは、彼女がとても嬉しそうにうきうきと何かを心待ちにしていた事だった。
「あの、なにかとても彼女が嬉しくなるような約束をしていませんでしたか?」
「…あの日、あの子にプリンを作ってあげるって」
我慢していたものが止められなくなったんだろうな。うずくまって泣き出した彼女の背中を撫でながら、不思議そうな顔をするまやちゃんにお父さんがやさしく笑いかけた。
「お母さんな、毎日お前のために作ってたんだぞ」
頭を撫でかけて手を止める。そのまま立ち上がって向かったのは台所のようだった。冷蔵庫の開く軽い音にまやちゃんが反応して笑う。
小さなガラスの器とスプーンを載せたお盆をそっと彼女の前に置くと、お母さんのプリン!と、聞こえるはずのない声が聞こえたような気がした。
とても嬉しそうに彼女の手が伸びる。しかし伸ばした手がスプーンを持てることはなかった。
…おにいちゃん?と言わんばかりに悲しそうにまやちゃんが俺を見る。
「もうそのままじゃ食べられないんだ。ごめんな」
しょんぼりとスプーンから手を引いて俯く彼女に俺は位牌を探した。
「すみません。このプリンを祭壇においてあげてもらえますか?」
彼らのすぐ後ろにあった祭壇にお父さんが震える手でそっと供えてくれた。その瞬間、彼女の言霊は形になって弾けるようにお母さんが体を起こした。
『あっ!お母さんのプリン!…』
彼女の言葉は耳ではない場所に確かにささやかれた。そして。
『そっか…』
彼女はようやく自分の体に気がついたんだ。
「でも味はわかるだろ?美味しい?」
『うん』
自分の祭壇を見上げながら彼女は幸せそうに微笑んでくれた。
「お父さんとお母さんがいつでも帰ってきなさいってさ」
『…うん』
コクンと一度うなだれて上げられた顔はとても穏やかで、これなら静かに眠れるだろう。
『帰ってきたら、また食べてもいい?』
「いつでも作ってあげるから!だからっ」
『ほんと?やった』
お母さんの言葉は嗚咽にふさがれて続かなかったけど、ぱっと明るくなった彼女の顔に泣きながらそれでも笑って答えてくれた。肩を抱いて支えていたお父さんの顔も泣きながら笑っていた。
もう大丈夫だ。ほっと胸をなでおろしかけて俺は違和感に気がつく。なぜだろう、さっきまで重かった空気がなぜか軽い。
耳を澄ますとつけっぱなしだったテレビの小さな音にまぎれて、いつの間にか優しい音が部屋を包んでいた。
見回すとアレスさんと目が合う。
音の正体は彼の歌声だった。歌と呼ぶには不思議な旋律が小さく静かにつむがれては、部屋の霊気を濃く、それでいて緩く穏やかなものへと色を変えていった。
それに呼応するようにまやちゃんの霊体が分かるほどに質量を帯びていくのが判った。もしかしたら触れられるほどに濃く、旋律が部屋にあるすべての精気を精錬し彼女の霊態を包んでいる。
俺は改めて彼女の小さな手をそっと握る。
あやふやな手触りじゃない、しっかりと質量を持った霊体の感触に驚いてもう一度アレスさんを見ると歌いながら器用に微笑んだ。
どうもおせっかいをされているらしい、まぁいいか。
俺は意を決してお父さんとお母さんの手を取った。
「あの、ご両親が送り出してあげてくれませんか?」
「えっ?」
普通だったらただの霊体に触れるなんてありえない。だけど今だったらこの人たちでも触ることが出来るだろう。
だから俺は二人の手を取ったんだ。
「お父さんとお母さんに手をつないでもらったら、眠るのも怖くないでしょうから」
まずお父さんの手をそっとまやちゃんの手に重ねる。息を呑むと彼はそっと触れて、それからしっかりと握りしめた。
嬉しそうな顔でまやちゃんはお母さんに手を差し出した。震える手を導いて重ねてやると彼女もしっかりと小さな手を握りしめる。
「眠れるかな?」
『うんっ』
満足そうな笑みをうかべて両親を交互に見ると、お母さんの膝に頭を預けてゆっくりと目を閉じた。とたんに霊態の包みが解かれ体の輪郭が薄く消えていく。
彼女の小さい口が開いたが、言霊はもう形になる力を失い聞こえることはなかった。
それでも彼らには彼女が何が言いたかったのか分かったようだった。
「おやすみなさい」
ぽつりと口からこぼれた優しい響きに見送られ彼女の体が霧散するように消えると、ふいに力を失ってお母さんの方が倒れた。
あわてて抱き支えたお父さんもそれが精一杯だったようで、言葉も無く戸惑った目で俺を見た。
「言霊は精気を使うので疲れて気を失っただけです。一晩寝れば明日には元に戻ります。男性の方が体力があるとは言え、霊体に触れるのは精神的にとても負担のかかる事なんです。今夜はゆっくり眠ってください」
それから俺はまやちゃんの写真がある祭壇に向かって手を合わせた。
「それと、これってお寺さんですよね。もう一度、菩提寺にお話して祈ってもらってください。その方がよりちゃんと眠れるはずです」
へんに俺が誅詞なんてあげるより、実際に眠ってる菩提寺のほうにやってもらう方が正式な手続きなんだ。
俺が出来るのはここまでだ。まぁなんとかなってよかったよ。
「それじゃあ俺達はこれで失礼いたします」
最後にきっちり一礼してアレスさんに振り返るとうなづいて腰を上げる。
そのまま玄関に向かうと、もつれるような足取りでお父さんが俺たちを追いかけてきた。
「あのっ、あのっ、ありがとう、ございました」
あせった。怒られるのかと思ったぜ。何度も頭を下げながらお礼をされたけどちょっと困る。
おせっかいといえばただのおせっかいなんだよな。つい、山に持ち込まれる事案のつもりで手を出しちゃったけどさ。
「…いえ、仕事みたいなもんですから。その、信じてくれてありがとうございました」
お辞儀をするとそれよりも深く頭をさげられる。
だからおせっかいしてよかったことにして俺達は今度こそ家を後にした。
マンションから出るとすでに十一時近くて、それでも明るい夜の空にちょっと驚きながら俺はやっと大きく深呼吸して体を伸ばした。
「お疲れ様」
「そっちこそ何あの歌。すげえ驚いたんだけど」
楽しそうにポンと俺の肩を叩いてくるアレスさんに素直な感想を述べてみる。
「なにかの助けになるかなと思ってやってみたんだが、まさか触らせるとは思わなかったよ。生者と死者の接続があきれるほど上手いんだな君は」
「いや、そのつもりでやったんじゃないのかよ」
「あれは君達流に言うなら「チャーム」の一種になる歌なんだ。話がスムーズに進めばいいと思ってやったんだが、精霊体を活性化する作用があるなんて思いもしなかったよ」
ははは、なんて軽く笑ってくれるが俺は凍りついたね。
生者が死者に触れられないのには意味がある。死者の霊が重なるってのは生者が死に引っ張られかねないんだ。
あそこまで質量を持ってたからこそやったけど本来だったら絶対にやってはいけない事だったりする。
あれ?もしかして俺、やばい橋渡ってたんじゃね?
「あのさーアレスさんさ」
「なんだい?」
「中でやったことはルイさんにもオフレコって事で…だめかな」
「それはかまわないよ。私も家に伝わる古歌だから、もしかしたら人前で歌ってはいけないものだったかもしれないし」
しれっと聞き捨てならん言葉が聞こえたんですが。
「ちょっと待て、なんでそんな歌うたったんだよ」
「あんまり真剣だったから手助けしたくなったんだよ」
「お疲れ様です。それでなにが手助けになったんですって?」
「「いや、なんでもない」」
何時の間に来たのか横付けした車の窓から、ルイさんに聞かれて俺たちは思わずハモった。
目配せと暗黙の了解で黙ると俺たちは笑ってごまかして車に乗り込んだ。
「まぁいいんですけどね。それで上手くいったのかい?ぶっちゃん」
区内に戻る車から見える明かりの流れをぼんやり見ていたら、何か話していたルイさんの矛先が俺に向いた。
「まぁね。普通の霊だったし。あれだけ普通の霊がよく祈祷で上がらなかったなとは思うよ。もうちょっと力が強いのかと思ったらそうでもなかったし、やっぱアレスさんが吸血鬼だったからかなー」
「私のせいなのかい?」
「だってさー思いっきりくっついてたじゃん」
多少眠かったので適当に答えたらアレスさんが思いのほか食いついて来た。あくびしながらこれまた適当に返すと、アレスさんはむっとして足を組み替えてわざとらしく窓の外に顔向けた。
「でもまー色々助かったし感謝かんしゃー」
「謝辞を述べているようには聞こえないよ?シノブ」
「まぁまぁ、眠いからってなんぼなんでも適当すぎでしょう。ぶっちゃん」
「だって山じゃもう寝てる時間だっての。まーでも今日はアレスさんのおかげで普段やんないこと出来たし感謝はしてるよ」
まぁ嘘ではない。なんとも濃い一日だったのは確かだし、アレスさんが不許可侵入しなかったら体験することも無かったと思う。
なんとなく伝わったのか顔こそ戻さなかったが、ちょっとだけ気が抜けたみたいだった。
都心に向かうにつれて車が増えていくって深夜なのにどうなってんの?と思っているうちに車は東京分社のある新橋に着いた。
流石に新幹線も無くなり、かといってルイさん家に行く気にならなかった俺は分社にだめもとで電話してみたんだ。
「本当に分社で良いのかい?家に泊まればいいのに」
「うん。東京分社に泊まって明日、日供祭の手伝いしてから帰る。もう野下さんに電話しちゃったし。つか、野下さん居るのに新幹線に放り込むとかマジで鬼だよな桐さん」
そう、俺が来なくても最悪手続きの出来る人間が東京にいないわけが無かったんだ。焦ってて忘れてたけどさ。
どんだけ外に俺を放り出したかったんだよ。ひでぇよなぁ。
「君が「明日から本気出す」とか寿人君の真似したからでしょうが」
「東京のおっさんが何でそれを知ってんだよ」
「おじさんは西にも東にも草はいっぱい居るのさぁ。じゃあ着いたよ」
「んーー。さんきゅー」
出張カバンを足元から掴むとアレスさんと目が合った。
「シノブ、今日はとても楽しかった。君のおかげだありがとう」
「へ?いや、ほとんどおっさんが連れまわしてただけって気が」
「それでも君と会えて良かったよ。君さえよければまた遊ばないか?」
何を言い出すかと思ったら、まあ嬉しそうにそう言われれば悪い気はしない。
「それくらい別にいいっすよ。西の方に来たら案内位しますよ」
俺は深く考えないでそう答えて、いつも山の連中とするみたいにこぶしをさしだした。
あっ、と思ったけど、アレスさんは俺のこぶしを見てちょっと考えた後、すぐに嬉しそうに自分の手を握って軽く俺のこぶしにぶつけた。
「ありがとう。それじゃあ、おやすみ」
「そんじゃまた、おやすみなさい。ルイさんも気をつけて帰れよな」
「はいはい。それじゃノッシーによろしくね」
やべぇノッシーとかうける。頭に残るんだから変なあだ名つけんなっての。
俺は車から降りると走り去っていくテールランプに手を振った。
本当に長い一日だった。
アレスさん来たらどこ連れて行くかな。そんなことを考えながら振り返ったビルは、半分くらい明かりがついていて、俺はその中にあるはずの分社へと向かった。
また。か…
私は手を握って自分の拳を見る。それは学生体験時代に同級生がよく行っていた仕草だったから覚えていた。
彼らは手をたたき合ったり、そうやって喜びや成果を分かち合っていたのだ。
今更この年で体験するとは思いもしなかったが。
平坂忍、彼はなんとも不思議な距離の少年だ。おそらく人外種に慣れているからだろう。私の素性を聞いた時も驚きこそしてもそれは畏怖や恐怖ではなかった。
じつに面倒くさそうに、それでいて普通に同じ人間のように話しかけてくれた。
そのくせ年頃の少年らしく、女性の視線を感じると私から少し離れては、何気なく少し癖のある黒髪を直して格好つけて戻ってきては気取って話し始めるのが微笑ましかった。
視線が無くなるなり普通に戻るのは愛嬌だろう。
褪せたジーンズに見たことのない綺麗な青いシャツと、黒いインナーには一見不釣り合いな丸く白いパヴェパールのループタイチョーカーをさげていたが、不思議と似合っていて格好を気にせずとも女性受けは良いだろうと思ったが慣れていないんだなと判る。
もっともパールから強い念を感じたから、あれはお洒落ではなくきっと彼の御守りなんだろうな。
私は今日一日を振り返ると笑みを隠せないのに気がついた。何も隠すことなく普通に話せるのがこれほど楽しいことだとは思いもしなかった。
人間社会に隠れて生きる以上、深いつながりを持つことはしないで来た。それはずっと私にとって当たり前のことだったからだ。
また次がある。彼は私に「約束」を交わした。これもまた私には初めての事だった。
「殿下、よろしいですか?」
「すまない。考え事をしていた、なんだろう?」
「先ほどですが、忍ちゃんに「promissum」をお入れになりましたね?」
「…分かるかい?シノブは気がついていなかったようだが」
ルイの言葉には驚かされた。さりげなく交わしたつもりだったのだが、私を学生時代のあだ名で呼ぶ彼は華やかな雰囲気の中、静かに私を見ていたとは思っていたがそこまで見透かされるとは思っても見なかった。
「彼はそういった点については鈍い子なんですよ。いい子なんですけどね。まぁ殿下も本当に遊ぶために交わされたようでしたので黙っていました」
「確かに他意はないよ。滞在中にもう一度くらいは会いたいと思っただけだ」
「promissum」日本語にするなら「約束」と呼ぶべきそれは、内容は様々だが吸血鬼が対象者の元へ一度だけ現れることを認めた誓約だ。
私自身一度も交わしたことも行ったことも無い古い力のひとつだったけれど、隠すことも何も無いただの私として接してくれた彼に、もう一度必ず会ってみたかったんだ。
「そのことですが。殿下、恐れながらあの子とは出来ればあまりお付き合いをなさらないでいただきたいのです」
「なぜ?」
「あの子は三幣の山の子です。古来より日本国を守るために作られた最悪の結界に人柱として選ばれている子なんですよ。深く事情を知らない者が三幣の山に係わるとろくなことがありません。何も知らずに普通に観光する分には、人間で無い以上多少の制約はありますが、日本は天国のようなものです。しかし、山に係わってあなたに何かあれば私はお父様かお兄様に殺されてしまいますよ」
「人柱?」
「はい。結界を支える柱として指名された生贄と言えば判りやすいでしょうか。とは言え、今現在の山は沈静化してますので血生臭い事件はおこっていませんが。そのせいか、あの子は危機管理が甘いので余計なトラブルに巻き込まれやすいんですよ。何かあってからでは遅いですし、観光程度ならば問題はありません。まぁ、普通に歩いてるだけでもなんかしらひっかけてくるような子なので全面的にとは申せませんが」
「ではルイ、君は先ほどの彼女は」
「はい。忍ちゃんを見つけて寄って来たと思っています。ただ維持するなら殿下のほうがより維持をしやすかっただけでしょう。さ迷う霊は消えるか穢れを拾うかの二択です。忍ちゃんは怨霊に優しいので多少の穢れは普通の霊にしか見えない子です。しかもあの子は穢れも傷もまとめて癒して健常な霊に戻してから空に上げられます。時には自殺者ですらも。欧州の聖職者からしてみたら獣以上に異端な子ですよ。教義から言えば赦しは神が行うべき行為とし、それの代行者としている彼らからすればですけどね。だからこそ霊に好かれるんですが」
斜め読みした冊子の歴史にあった三幣の山か。
私に何かあれば家が口を出してくるのは理解が出来た。それは私にとってもあまりよい事じゃない。
それでも普通の友人のように話せた彼にもう一度会ってみたいほうが強かった。
「シノブは友人と呼べる初めての人間だ。連絡を取り合うことも君に負担をかけてしまうだろうか、ルイ」
「……先ほども申しましたがあの子には問題はありません。出来るなら山から離れた場所でお会いいただければ、普通に遊びに行くくらいはむしろ桐人君に。あ、山のあの子の保護者なんですが喜ばれるとは思います。ですが本当にあなたに何かあればただではすまないのを存じ上げているのも事実です。それでなくてもアリーベル様が日本を担当されているのです。それでお分かりいただけますでしょうか」
「判ったよ。君が不利になるような行為は行わない。普通に観光するさ」
「ありがとうございます。不肖の身ではございますがなんでもお申し付けください」
日本は不思議な国だ。言葉にはしないが異国人であるルイにとってもここは大切な場所なのだろう。
ならば私の誕生をきっかけに始まった諍いに巻き込みたくはない。
出来るなら静かに初めて見る景色を楽しんで、静かに元の生活に戻ることにしよう。
でも、楽しかったな。
静かに進む車中で私は今日の思い出をたどるように目を閉じる。旅は今日まだ始まったばかりなのだ。




