002
今日は何処へ行こう。
まだ見ぬ今日に期待が膨らんで、私はベッドにいつまでも横たわっているのが惜しくて部屋を出た。
明けたばかりの朝の光が、吹き抜けからゆるく差し込むホテルのロビーを見下ろしてエレベーターが降りていく。
ホテルの外に出て朝の空気を大きく取り込めば、すでに人の営みは始まっていて人が駅へと流れていく。
私もその流れに身を任せて一歩ゆっくりと歩きだした。
旅人でいる自分が好きだ。
旅人はその土地の間借り人だ、息を潜めなくていい。
そのくせ旅人のままでは淋しくて偽りの人間に戻ってしまうけれど、それでもそれが私に赦されたささやかな自由なのだと思ってきた。
ずっとずっとそう信じようとしてきたんだ。
見上げた空が青く白く美しい。
こんな風に景色を美しいと喜べたのは何時振りなんだろう。
いや、隠れ気配を消すために周囲に目を光らせて息を潜めた事はあっても、喜びに回りを見つめたことなんて無かった。
それがどうして今こんなに私は自由なんだろう。
私はふと思いがけず出来た日本の友人の顔を思い出す。
平坂忍、彼のことを思うと知らずと笑みが漏れてしまう。
なぁシノブ?今日は何処へ行こうか。
アレイシー-ブレイド、私の名前。
古く忌避され続けた吸血種族の末席を汚す、人にも吸血鬼にもなれない私の名前。
それと知ってなお、その名を当たり前のように呼んだ彼は不思議な人間だった。
彼が引き合わせてくれたすべての人が同じように当たり前のように私を認識するのが不思議で、何かの間違いではないのだろうか何度もそう思った。
だが、それは間違いでもなんでもなく、この五日間を私は隠れることなく過ごしてしまった。
ここ日本では、私はアメリカ人の「アレイス-ブライト」であっても、吸血鬼「アレイシー-ブレイド」どちらであっても良いのだ。
信じてもらえる、それだけの事がどうしてこんなにも自由なんだろう。
人は人で無い存在は怯え忌避するものだと思っていた。
左腕にきらりと輝く金の輪、このパスと呼ばれる許容の証があるからなのか?
それでもそれだけで、こんなにも楽々と息が出来る世界があるなんて、もっと早くこの国に来るべきだった。
人の世界に息を潜め怯えるように隠れてきた日々が嘘のように溶けていく。
50年近く会っていなかった兄の初めての頼みも嬉しかったけれど、日本に来て私は毎日が喜びに満ちて空はこんなにも広く明るかったのだと改めて知った。
私を追い越していくジョガーやすれ違う散歩の犬を横目にのんびりと歩く。そんな当たり前の風景にも胸が浮かれて微笑が浮かんでしまう。
時計を見れば五時をまわっていた。
シノブ、君はそろそろ起きて朝の仕事を始めるころだろうか。
さぁ、今日は君とどこに行くんだろう、連れのある旅はこんなにも楽しいものなんだ。
そんな新しい朝の始まりを予感しながら一人歩くのが楽しい。
「さて何処へ行こうか、今日は昨日教えてもらった競馬場まで足を伸ばしてみようか」
返る返事は無い。
それでもこの浮かれた気分は消えないのが嬉しい。
今まで遠巻きにそっとのぞいていた世界が急に私を招き入れてくれたような戸惑いが無いわけじゃない。
だが疑うよりも喜びが勝ってしまうのは止められなかった。
たった5日間だ。
それが100年以上、平穏だと思ってきたアメリカでの日々に勝つ日が来るなんて。
姿の変わらない長生族である以上、長い間同じ場所に留まることは出来ないし、プライベートの付き合いは出来なくて、社会に空気のように潜むような日々ではあったけれど。
パスポートと居住許可証さえ手に入れられれば意外と人間社会に潜むのは簡単なことだ。
3つの架空の家族をローテーションで続けてまで居続けたアメリカでの日々は、居住許可をひたすら維持し続けるだけの日々だったのだと思い知らされた。
壊死に怯える不安定な欧州と、ブリタニアの連邦でありながら独立と依存のシーソーにゆれ続けてきたアメリカしか知らなかった私には日本は衝撃的な国だった。
欧州世界の人間は世界を人間と人間成らざるモノに分けた。
私達のような体を持たない精霊体アストラル体は元より、人間でありながら過度な力を持つものを有機体人外として区分けした。
欧州の基準に当てはめるなら日本は人外が納める国となる。
人は差別や区別様々な序列を作って生きている生き物だ。
それはここでも変わらないのだろうが、精霊体でありながら許可があれば旅人でいるのも当然ながら、住むことすら許容しているのだ。
気にも留められない寛容は私の知らない感覚だった。
「東京オーシャン競馬場」の大きな看板を見上げ、ゲート前をのんびりと通れば、この地に置き去りにされた熱い生の残渣が漂っていた。
柵越しに人一人いない中を覗き込む。
バスが乗せる人すらいないままポツンと停まっているのを横目に通り過ぎて、自動販売機でコーヒーを一つ買った。
コーヒーをポケットに外観を眺めながらゆっくりと回り込み、そのまま道なりに進めば橋が現れる。
川の向こうには静かな芝生と観客席が現れて、桟橋にもたれそれを眺めながら温くなりはじめた缶を開けて一口飲む。
私はもたれたままゆっくりと目を閉じた。
遠くのパドックと観客席に残された後悔と憔悴そしてそれを凌駕する熱狂の残さが、海の匂いに混じって明け始めた光に昇華していく様がここまで届く。
私はそっとそれを全身で吸い上げる。人が息をするように。
開場した場の生み出されたままの悲喜が絡み合う人の熱気は甘美な分だけ少し重たく、密度が濃過ぎて少しあてられてしまうから前夜の熱狂が静かに溶けていく朝の名残くらいがちょうど良い。
人は体を食事で維持するが、精霊体の私は霊子と呼ばれる人で言うなら魂を形作るものを糧にしている。
生きた人からはほんの少しづつ分けてもらうそれも、生気の名残として落とされたものなら気にせず吸収が出来る。
そんな私を気遣ってルイスが教えてくれた場所だった。
体が霊子で満ちていく。
ようやく私は目を開けてすっかり冷めてしまったコーヒーの残りを飲んだ。
「来てよかったなぁ」
勝手にこぼれる独り言すら愛おしい。
缶を手すりにおいて大きく体を伸ばすと待っていたように携帯が鳴る。
その着信音にまた頬が緩む、私はこれを待っていた。
いそいそと出ればそれは確かに待っていた人の声で私を呼んだのだ。
『おはようございます殿下。お目覚めでしたか?』
「おはようルイ。今日も良い朝だ」
『それはなにより。そろそろ出ようと思うのですがホテルですか?』
「いや。昨日教わった競馬場にいるんだ。なかなか良かったよ」
『それは良かった。開催日していない日もありますのでご注意くださいねー』
「うん。わかっている」
『では、そちらまで向かいますね』
「いやいいよ。路線も把握したし新橋へは電車で向かうよ。そちらで会わないか?」
『そうですか?まぁこれからいけばちょうど朝のお勤め終わるくらいですからちょうどいいかもしれませんね』
「では現地で」
通話を終了してもう一度海の向こう岸を見る。
シノブ、君は顔を出すなり嫌そうな顔になるんだろうな、それでいて行くと決めれば誰よりも楽しそうな友人の顔を思い出す。
さぁ、君を迎えに行って今日の始まりだ。私ははやる心を抱えて歩き出した。
「忍なら帰ったが?」
事務所と呼ぶにはあまりにもキャビネットの少ない、ソファセットと机が二つぽつんとあるだけの部屋で私は呆然と立ったままこぼれるまま言われたままに問い返した。
「シノブは帰ってしまった?」
確かめるように腕を組んだまま睨む男は黙って頷いた。
イワクニショウジと名乗る彼は、シノブの東京に居る兄と聞いていた人だった。
「あいつなら朝一の新幹線乗ったよ。それはそうとあんたらもこっち来い!どういうことか説明してやくれませんかねぇ」
「えー、なにもないって。なぁ?。クニポンさぁ、疲れて戻ってきてんだから帰りなよぅ」
ねぇ、とノシタと一緒に頷きあうルイに怒りの琴線が触れたのか、ショウジは二人にソファを指差した。
「うるっせぇぇぇ!誰が信じるかっ!いいから座れ。あんたもだ坊ちゃん」
あきらめたようにノシタは殺風景な事務所の小さなキッチンからお茶の道具を持ってきて座ると、ルイもあきらめたのか私の隣に座った。
「まずあんただ。アレスさんとか言ったよな?あんたアリーベル-ブレイドの弟で間違いねぇな?」
「確かに」
ショウジの険しい顔に私は不安になる。
アリーベル。彼は一族の中で欧州世界に対抗するために大東亜国家連合との折衝を担当していた。
その主国が日本であることを失念していたのは私の過ちだが、これまでのシノブの言葉から兄がここで良からぬ事ばかりしていたのだけは理解が出来た。
まさかそれが元でシノブは帰ってしまったのだろうか。そうだとしたら私は彼にどう謝ればいいのだろう。
大東亜国家連合は秦国を含むユーラシアの半分が欧州に蔓延した呪詛に蝕まれ人が住めない土地になった時に、秦国より東の国々が集まり呪詛に対抗するするべくして出来た集合体だった。
それだけに呪術世界の中心である欧州に対抗できる存在として私の一族が手を結ぼうと接触してきたのは知っていた。
総じて欧州と精霊種は仲が良くない。
人を害して生きる精霊種が受け入れられないのは理解が出来る、害しないと誓ったところで信頼関係など結びようも無く相反する存在にならざるを得なかった。
私にあわせて人を害しないと誓ったところで一族が信頼を得ることは無かった。
そして吸血も出来なければ光も恐れない私と言えば吸血種の中で生きるにはあまりにも異質で、小さな学校で人にまぎれて暮らすことにしたんだ。
しかしそれもすぐにばれてしまい欧州に私の居場所は無くなった。
そして彼らは私を理由に同胞である人間同士で区分けと差別を始めたんだ。
「悪魔狩り」と名づけたそれは、人の間に隠れた悪魔を探し人の世界を守るものとしながら実質、都合の悪い人間を除外するための道具になるのも早かった。
だからせめて私は消えようと教会世界の中心地に私を差し出した。
私さえ消えれば悪魔狩りは存在の意味を失い消えるだろうと思ったからだ。
だが、システムや道具は生まれてしまえば価値が消えない限り廃れない。
ヴァチカン連邦への直接の呪詛と言う名の交渉のすえに一族は私を取り戻してくれた、そして私は永遠に欧州から消えることにしたんだ。
欧州での悪魔狩りは鳴りを潜めたが狩りで得た力を基にした世界統一派が生まれ内戦が始まった。
大東亜国家連合はそれに対抗して独立を守ることが出来た。
それは何故か、欧州に匹敵する呪で地を守ることが出来たからだ。
それ以来独自の歴史を歩み続けた東の世界は閉じられていて、アメリカが国交を結ぶまでは知られることすらない世界になった。
その呪詛の中心地でそれを支える柱であるシノブが兄を知っているのはある意味当然だった。
だがシノブは私を彼の弟と知って同情こそ寄せてくれたが疎みはしていなかった。そのはずだった。
「兄がしたことを彼にあらためて謝罪したいがそれも迷惑だろうか」
「は?あんたがやらせてるわけでもあるまいし必要か?そんなことより、あんたらは何をたくらんでんだ!吐けおっさんどもが」
「なんで俺達が何かたくらんでるなんて思うんですかー心外だなぁ」
「ほんとほんと。めったに西を出ない可愛い孫が顔出したからおじいちゃん張り切っちゃっただけなのに。心が狭いと彼女に嫌われちゃうぞー?」
「やかましいわっ!そこの吸血鬼の報告書の扱いが人間になってるのは、あのアホがうっかり許可証入れたからだけじゃねぇんだろ?」
静けさが部屋に満ちる。
ふぅとため息をついて最初に口を開いたのはノシタだった。
「まぁ利害の一致ですかね。しいて言えば」
「殿下が日本に入国したの知っているのが忍ちゃんと磯谷君に秋里君と私達だけなんだよ。隠蔽しようと思えば可能な人数なんだよね。幸い忍ちゃんが殿下を人間として処理しているし、秋ちゃんもそれを変えようとはしなかったんだよ。意味が分かるだろ?」
まさかの私の存在がルイの理由だったようだ。兄ではないとするなら私はこの五日間の記憶を必死にたどった。
「わ、私のせいで何があったんだろうか」
「何もありませんよ。殿下の存在は日本国内では脅威にすらなりません。ただ、日本が欧州と反目している国なので殿下が滞在していることが知れると介入の糸口を与えることになりかねないのです」
「一応私も公安の端くれなのでそれは避けたい。排除するのは簡単ですがルイス氏から滞在の許可を求められましてね。ならばアメリカ人としたまま滞在してもらうに限ります。それを許可する代わりに帝都での平坂君の護衛をルイス氏に頼んだんですよ」
ルイの言葉に改めて愕然となる。
私が私であるだけで人間に不和を生んだことを忘れたことは無かったはずなのに、楽しさにおぼれ忘れてしまっていたなんて。
「あぁ、滞在してもらうのは問題が無いんですよ」
改めてノシタはとりなすように私に告げた。
「確かにアレスさんは吸血種ですが珍しいだけで滞在の拒否をしているわけではないんですよ。わが国にしてみればずっと滞在してもらっても構わないくらいです。欧州正教会に口ばしを挟む理由を与えたくないだけなんですよ」
「お前ら本当にそれだけなんだろうな?」
「疑りぶかいなぁ、今回は本当にそれだけだよ。殿下のお父さんには欧州出るとき世話になったし、出来れば自由に旅行を楽しんでもらいたいんだよ。忍ちゃんが帰っちゃったのは残念だけどねー」
「私はむしろ安心しましたがね。平坂君いい子だけど警備シフト考えるだけで頭痛かったですよ。人柱を山の外に出すなんて桐人君にも困ったもんですよ」
「色々動いても忍ちゃんが帝都に居るせいだって隠れ蓑になったのが良かったなぁ。殿下が知り合いの息子さんなのは本当のことだし?嘘は言ってないし。まぁ君にはちゃんと許可を取るつもりだったよ?」
「分かった。あんた、忍とは友達だっつったよな。あいつもそう思ってるで間違いないな」
「私は、そう思っているんだが」
自信は無いがそれだけは信じたいことだった。あんなふうに笑ったり話せたのは親しくなければ出来ないことだと思う。
「ならいい。あいつがそうならあんたの事は信じてもいい。一応言っておくがうちの国は国際社会としては普通に開いてるけど、宗教界には鎖国をとりながら中立を貫いてるんだ。何処の誰だろうと他所の連中に口出しさせるつもりの無い国なんだ。へんな真似すんなよ」
「承知した。約束するよ」
大きく頷くとショウジは険しい顔を解いて改めて手を出してくれた。
「ま、ようこそ日本へ。楽しんでいけよ、忍のダチなら俺にもダチだしな」
「ありがとう」
しっかりと握手をした手は嬉しいとも違う安堵に近い何かを私に伝えていた。
ぴりぴりしていた空気が緩むとショウジは二人をあごでちらりと指しながらニヤリと笑い、それをしれっと受け流したノシタがお茶をいれた。
「悪いな、このじじどもは俺が目を光らせてないとすぐに余計な真似するんだよ」
「酷い子だね。こんなに日本のこと考えてあげてるのになぁ」
そう言って頭をなでたルイの手を跳ね除けてソファに沈んだ彼は疲れたように眼を閉じる。
「疲れているようだね」
「この一週間というもの海の上だったからな。悪いがそろそろ部屋行くわ、野下さん後頼む。官庁にいい感じに連絡してくれ忍の来てた理由報告する約束してんだ」
「承知」
彼が大きくあくびをひとつ付いて立ち上がるのに併せてルイも席を立った。
「では我々も行きますか。忍ちゃんがこうも早く帰っちゃったのは予想外でしたけどね」
「あんまりにもいたせりつくせりだからビビッたんじゃねーの?あいつ。タイムラグあるから二日分の報告書しか見てないけど遊びまくってたろ?俺達に知れたらお前ばっか良い思いしやがってってつつかれるに決まってるからな」
「それは確かに」
笑う二人に私も立ち上がる。
このビルに自室があるのだという、眠そうに荷物を背負う彼と一緒に事務所を出た。




