呼ばれた人
夜、僕はあの道を通った。
その道は昼間でもにぎやかではなかったが、夜になると、街に忘れられた場所みたいに見えた。街灯は間隔をあけて立っていて、一つ一つが自分の真下だけを小さく照らしている。その先のことには、何の責任も持たない。
僕はゆっくり歩いていた。三つ目の街灯まで来たとき、犬が吠えた。
左側からだった。
そこには暗闇があった。暗闇の向こうには、低い木があるのかもしれないし、塀があるのかもしれない。あるいは何もないのかもしれない。犬の姿は見えなかった。ただ一度だけ、吠えた。
僕は立ち止まった。
普通なら、犬の鳴き声に人が返事をする必要はない。犬が吠える。通行人は通り過ぎる。それで全部だ。
けれど、その夜は違った。
その道には僕しかいなかった。
僕しかいないのなら、あの一声が僕に向けられたものではないと、どうして言えるだろう。
僕はしばらく立っていた。もう一度吠えるのを待っていた。さっきのが偶然だと証明してほしかった。
犬は本当にもう一度吠えた。
今度はさっきより短かった。
催促するようだった。
僕は咳払いをして、言った。
「聞こえたよ」
暗闇から返事はなかった。
僕はまた言った。
「通りがかっただけなんだ」
やはり反応はなかった。
少しして、犬は三度目に吠えた。
そのとき、僕は急にわかった。犬はその返事を受け入れていないのだ。
僕は間違った言語を使っていた。
それには少し困った。僕は犬語を知らない。けれど呼ばれた者が、いつまでも聞こえないふりをしているわけにもいかない。
周囲を見回した。
誰もいなかった。
だから僕は口を開けて、こちらも一声吠えた。
まるで犬らしくなかった。
声が出た瞬間、自分でも驚いた。ざらついた、短い音だった。まるで体の中から、知らない小さな塊がこぼれ落ちたみたいだった。
犬は吠えなくなった。
僕も吠えなかった。
暗闇は静かになった。
僕はその場で少し待った。誰かが出てくることも、何かが襲ってくることもなかった。街灯は相変わらず自分の足元だけを照らしていて、風が葉の間を抜け、かすかな音を立てていた。
この件は、終わったらしかった。
僕はまた歩き出した。
次の街灯まで来たとき、背後でまた犬が吠えた。
僕は立ち止まった。振り返らなかった。
その声はさっきと違っていた。別の犬のようでもあったし、同じ犬が場所を変えただけのようでもあった。夜には判断しにくい。ともかく、吠えた。
この一声にも答えるべきだと、僕はわかっていた。
一度目に答えたのに、二度目に答えないのは、前後の辻褄が合わない。辻褄が合わないというのは、かなり面倒なことだ。
だから僕はまた一声吠えた。
やはり犬には似ていなかった。
今度は、右手の遠くからも犬が吠えた。
さらにその奥からも、一声聞こえた。
僕は二つの街灯の間に立ち、いつのまにか、たくさんの見えない犬たちに呼び止められていることに気づいた。
犬たちは一匹ずつ吠えた。
急いでもいない。怒ってもいない。点呼のようだった。
僕は仕方なく、一声ずつ返した。
一声目は小さく。
二声目は少し大きく。
三声目には、もういくらか慣れていた。
五声目になるころ、ふと不安になった。近くのアパートの誰かが聞いていたら、窓を開けてこちらを見るのではないか。
道は、来たときより長くなっているようだった。街灯が一つ一つ、やけにゆっくりと後ろへ下がっていく。コンビニの前を通った。中では店員がうつむいて棚を整えていた。彼はこちらを見なかった。ガラス扉には僕の影が映っていた。普通の通行人と変わらなかった。
それが不思議だった。
さっきまで吠えていた僕が、まだ吠えていない人間と同じ顔をしている。
交差点に着くと、最後の犬が吠えた。
今度は近かった。
犬が見えた。
道路の向こう側に立っていた。痩せた黄色い犬で、尻尾を垂らしていた。こちらへ来る気配も、攻撃する様子もなかった。ただ僕を見て、一度吠えた。
僕も一度吠えた。
今度は、少しだけ犬に似ていた。
犬が僕を見た。僕も犬を見た。
信号が赤から青に変わった。犬は渡ってこなかった。僕も渡らなかった。
しばらくして、犬は向きを変え、歩いていった。
僕はその場に立っていた。
青信号が、また赤に変わるまで。




